第22話 天狗党騒動、終結

文字数 9,684文字



 九月中旬に京都へ戻ってきた寅之助と篤太夫は、焼け野原となってしまった京都の惨状を見て愕然とした。
 禁門の変の直後に発生した「どんどん焼け」と呼ばれる大火災によって焼かれたのである。
 寅之助としては一年半前、浪士組の一員として上京して以来の再上京なのだが、話に聞いていたとはいえ、想像以上の惨状だった。
 御所の南側から東本願寺のあたりまで、京都の中心部が一面、焼け野原となっていた。

 しかし二条城のすぐ南にある若狭(わかさ)小浜(おばま)藩邸は「どんどん焼け」の被害から免れていた。
 一橋慶喜はこの若狭小浜藩邸に住んでおり、ここは一橋家の在所でもあった。
 京都の一橋家に帰って来た篤太夫は、黒川嘉兵衛(かへえ)に人選御用の仕事が完了したと報告した。黒川は平岡と同じく一橋家の用人(重役)で、平岡亡き後、篤太夫の新たな上司となった人物である。
 黒川は平岡のような切れ者ではないが温良な能吏(のうり)で、篤太夫の関東出張の労をねぎらった。そして
「平岡が亡くなったからといっても気落ちせず、これからも一橋家のために職務に精励せよ」
 と篤太夫を激励した。
 それで篤太夫は、新たな気持ちで一橋家の仕事に取り組む決意をした。

 篤太夫は成一郎(喜作)と共に、この若狭小浜藩邸内の長屋で生活していた。
 そして寅之助も、その長屋に入って暮らすことになった。

 寅之助は一橋家の床几隊(しょうぎたい)に入ることになった。
 この床几隊は慶喜の親衛隊のようなもので、剣・槍・弓・馬術に優れた者が百名ほど集められていた。この床几隊は先の禁門の変でも出陣して、御所内の守りについていた。
 寅之助は千葉道場で高弟だった経験を買われて、この隊に配属されたのだった。入隊後、何度か他の隊員と剣術の試合をして腕前を試してみたが、自分より強い者はいないと感じた。もちろん皆そこそこ強いので粒はそろっているのだが、ほとんどが幕臣としての身分的な縁故でこの名門の一橋家に入ったのだろう、と寅之助は思った。

 ところで、すでに読者もお気づきだろうがこの「床几隊(しょうぎたい)」というのは、後年、上野戦争で上野にたてこもる「彰義隊(しょうぎたい)」と無縁ではない。彰義隊結成時には幹部に一橋家ゆかりの者がおり、「義を(あき)らかにする」という彰義(しょうぎ)が、この床几(しょうぎ)と読みが同じだったので彰義隊(しょうぎたい)と名付けることになった、と一説には言われている。床几とは腰掛けのことで、武田信玄などの武者絵にも見られるように本陣で大将が座っている腰掛けのことを指しており、すなわち大将の親衛隊を意味する。正確には床几(しょうぎ)廻組(まわりぐみ)と言われていた。




 さて、このころ京都で問題となっていたのは、やはり長州征伐と天狗党の乱のことだった。
 特に禁門の変に敗れて朝敵となった長州藩に対する処分は、幕府にとって喫緊(きっきん)の課題だった。

 禁門の変で敗れ、下関戦争で四ヶ国にも敗れた長州藩は、もはや死に体の状態だった。
 この時、長州藩と犬猿の仲だった薩摩藩は幕府に「将軍進発」を進言した。
 江戸から将軍(家茂(いえもち))が御進発され、幕府軍が全力で長州藩を叩けば、薩摩もそれを後押し致す。さすれば長州を完全に占領できるでありましょう、と。

 しかし幕府はその決断ができなかった。
 理由はいくつかある。
「幕府軍は関東で天狗勢を相手に戦っている最中なので、西国まで幕府軍を派遣する決心ができなかった」
「長州はすでに死に体となっているのだから、よもや二度と幕府に歯向かうことはあるまい、と安心してしまった」
「西国まで幕府軍を派遣するとなると(はなは)だ金と労力を要する。こんな面倒なことは諸藩の軍にやらせるに限る、と楽な道に走ってしまった」
 などである。

 後悔先に立たず、といったところだが、後から振り返れば、この時が幕府にとっては長州に勝てる唯一のタイミングだった。
 けれども勝負の世界というのは得てしてこんなものである。実際幕府がこのとき本気を出して長州を潰しにかかっていたとしても勝負の結果がどうなったかは分からない。が、この後の幕府があまりにも酷すぎるので「この時に本気を出していれば」といった歴史のIFにすがりつきたくもなろう。

 このあと長州征伐は、諸藩の連合軍十五万が長州の四境を取り囲み、長州へ攻め込む構えを見せた。
 しかしながら長州征伐軍の参謀である西郷吉之助は「幕府を喜ばせるために長州を壊滅させるのはバカバカしい」と思った。
(我々が苦労して長州と戦い、もし長州を倒したとしても、我々も大きな被害を受けるであろう。そして幕府は、その傷ついた薩摩に対しても服従を求めるであろう。そんなバカな話があるか。長州を潰したいのなら自分でやれ)

 西郷がそう考えたのは当たり前だ。幕府が手前勝手すぎるのである。
 西郷は長州藩に対して講和の条件を示し、兵を動かすことなく長州征伐を収めることにした。
 そして長州藩は「戦犯」として三家老を切腹、四参謀を斬首するなどして、西郷の条件を受け入れた。
 これにより長州征伐の諸藩軍は戦うことなく、兵を解くことになった。長州征伐はこれで終了となったのである。

 この長州征伐の最中に、長州藩の内部では政権交代が起きていた。尊王攘夷を掲げる正義派の政権が倒され、幕府寄りの俗論派が政権を握るようになったのである。
 禁門の変に敗れて藩を窮地に陥れたのは正義派政権なのだから、この政権交代は当然の結果だった。そして長州征伐軍としても長州藩内の正義派を排除するのが目的だったので、当然、長州藩に対して政権交代を強制した。

 実はこの構図は水戸藩も同じである。
 水戸藩も天狗党の乱の最中に、藩内の正義派が弾圧され、幕府寄りの諸生党(しょせいとう)が政権を握るようになった。

 ただしこの後の展開が、長州藩と水戸藩とでは大きく異なっている。
 長州藩はこのあとすぐに、高杉晋作の「功山寺(こうざんじ)決起」によって再び正義派が政権を奪還することに成功する。
 しかるに水戸藩では、天狗党の乱のあとも、正義派は徹底的に粛清され続けるのである。



 その水戸について、である。
 水戸における天狗勢と幕府軍の戦いについては前回、ざっと説明した。
 あのあと宍戸(ししど)藩主の松平頼徳(よりのり)の軍勢が幕府軍に降伏するなどして(頼徳は切腹。他にも多くの幹部が処刑された)、天狗勢は撃退された。しかし千人近くの兵士たちが那珂湊(なかみなと)を脱出して北の大子村(だいごむら)(現、茨城県久慈郡(くじぐん)大子町(だいごまち))へ向かった。
 このあと天狗勢は、武田耕雲斎(こううんさい)を首領として次のような方針を決めた。

「京都におられる一橋慶喜様のところへ参って、朝廷に我らの尊皇攘夷の志を訴えていただこう!」

 武田耕雲斎は少し前まで慶喜の配下として京都で働いていた。そして慶喜が烈公(れっこう)斉昭(なりあき)の後継者で、尊王攘夷の遺志を継ぐ人物として水戸の人々から思われていたので、天狗勢はこのような方針をとったのだった。

 そして十一月一日、天狗勢は大子を出発して西へ向かった。
 北関東を通って信州へ入り、それからは主に中山道を通って美濃へ入った。
 真冬である。しかも山道である。
 十一月、と言ってもこれは旧暦なので、現在の暦に直すと十二月にあたる。彼らは、現在で言えば真冬の十二月に、これらの山道を通ってきたわけである。

 彼らは十一月末には中山道の鵜沼(うぬま)(現、岐阜県各務原市(かがみがはらし)の辺り)まで来たが、その先は大垣藩、彦根藩などの幕府軍が待ち構えていた。
 天狗勢は水戸の市川たち諸生党と戦うために行きがかり上、幕府軍と戦うことになってしまったが、本来幕府軍と戦うことが目的ではない。ましてや今回の西征の目的は京都の慶喜に陳情することなのだ。出来れば無用な戦いは避けたい。
 ということで、鵜沼からは北へ迂回(うかい)し、岐阜を通って揖斐(いび)まで行ったものの、やはり中山道の垂井(たるい)、関ヶ原を抜けて琵琶湖に出るのは無理と思われた。

 ここで彼らはとんでもない事を考えた。
 そこから北上して、なんと越前へ向かった。北陸へ迂回して、琵琶湖の北から京都へ向かうルートをとったのである。
 現在で言えば、岐阜県本巣市(もとすし)から福井県大野市へ向かうかたちになる。国道157号線のあたり、根尾川(ねおがわ)が流れていて、樽見(たるみ)鉄道が(途中まで)走っているあたり、であろう。完全に山越えルートである。
 むろん筆者もこんなルートを通った経験はない。地図で見て述べているだけのことである。蠅帽子(はえぼうし)峠を越えたのは十二月五日ということだが、現在の暦に直すと一月二日である。この年はたまたま積雪が少なく、この道を通ることが出来たらしい。
 山越えをしてきた彼らは越前大野の手前で西へ向かい、敦賀(つるが)を目指した。そして敦賀から琵琶湖へ向かおうと思っていた。

 しかしこのとき彼らは、その先で待ち受けている皮肉な運命をまったく知らなかった。



 その話をする前に、十一月十七日に江戸の深川で起きた事件について書いておきたい。

 この前日の晩、新徴組(しんちょうぐみ)の清水五一(ごいち)は隊長の酒井吉弥(きちや)了恒(のりつね)。後の玄蕃(げんば)吉之丞(きちのじょう))に率いられて同志二十名と共に深川へ出動した。
 五一は寅之助の親戚で、卯三郎の弟である。
 酒井吉弥は庄内藩の家老の息子で、この年二十三歳。婦人のように温和な顔をした美青年だが、のちに戊辰戦争で新政府軍を散々に破り「鬼玄蕃」と呼ばれる男である。
 このとき新徴組は
永代橋(えいたいばし)近くの小林権左衛門方に、天狗党の残党二名が潜んでいる」
 という報告を受けて、出動してきたのだった。

 この二名の内の一人は真田範之助だった。もう一人は岩倉徳之丞という若者だった。
 二人は天狗党の戦いに参加したものの、戦いに敗れて江戸へ逃げ帰る途中、この小林宅に潜伏したのだった。千葉道場から筑波へ向かった者で生き残っているのは、もはやこの二人だけになっていた。

 十七日の未明、二人が寝ていたところへ新徴組の一隊が押し入った。五一は逃走経路を遮断するために裏口へ回っていたので斬り込みには参加しなかった。
 真田と岩倉はすぐに飛び起きて、刀を取って防戦した。
 岩倉はたいして剣の腕も立たなかったが、真田は千葉道場の塾長である。反撃して新徴組の隊士を散々に斬った。
 そのうちに新徴組の北楯(きただて)金之助という男が真田に組みついて押し倒そうとした。が、真田は体格も大きく腕力もある。そう易々(やすやす)とは倒されない。
 北楯は叫んだ。
「俺に構わず、俺ごと斬れ!」
 そう言われても(寺田屋での薩摩藩士じゃあるまいし)なかなか出来るものではない。皆、北楯を斬ってしまうのを恐れて、真田に斬りかかるのを躊躇(ちゅうちょ)した。
 けれども、そのうち酒井吉弥が岩倉を斬り倒した。そして新徴組の攻撃が真田一人に集中するようになると、さすがに真田も防ぎきれなくなり、とうとう斬り殺された。享年三十一。
 新徴組の隊士に死者は出なかったが、酒井吉弥が左足に傷を負い、北楯が重傷を負うなど六名が負傷した。

 五一はまさか、このとき斬殺された男が寅之助の師匠であったなどとは知る由もない。
 そして寅之助と篤太夫も、江戸で真田がこんなことになっているとは知るはずもなく、知友の千葉塾生たちがすでに全員戦死しているということも、まったく知らなかった。



 十一月の下旬になると、天狗勢が美濃から京都へ向かっているという風聞が京都に伝わってきた。

 京都の一橋邸で寅之助は篤太夫に相談した。
「君公(慶喜)にお願いして天狗勢を救ってもらう、と言っていた話は一体どうなったんですか?篤太夫さん」
「実はあまり(かんば)しくありません。天狗勢の問題は水戸のお生まれである君公にとって、頭の痛い問題なのです。水戸から一橋家へ来ている原様(原市之進(いちのしん))や梅沢様(梅沢孫太郎(まごたろう))にとっても、そうです。天狗勢の首領である武田様は、かつてこの一橋家で君公を補佐しておられた方で、原様や梅沢様は武田様の配下だったのですから、天狗勢に対する思いは皆、我ら以上です。だからこそ、幕府から憎まれている天狗勢に対し、我が一橋家はなおさら甘い顔ができないのです。原様や梅沢様に至っては、いっそ他藩の手にかけるよりは我々の面目にかけて、京の本圀寺(ほんこくじ)勢(京都の尊攘派水戸藩士)だけで天狗勢を処分すべきだ、と言っておられます。もちろん天狗勢は八百人からの軍勢ですから、本圀寺勢の手に負えるはずはありませんが」
「まさか、我々一橋家の部隊が天狗勢と戦うことになるのですか?」
「君公は禁裏(きんり)御守衛(ごしゅえい)総督(そうとく)です。もし天狗勢が京都へ攻めてくれば、率先して討伐しなければならない立場なのです。といって、まさか武田様の天狗勢が君公と戦うはずはないでしょうが。ただ、君公は江戸の幕閣から嫌われてます。征長軍が長州に甘い処分をしたのは、君公が尊王攘夷の長州に甘いからそうなったのだ、と江戸では噂しているらしい。実際のところ君公は、征長総督の尾張公(徳川慶勝(よしかつ))に対して『西郷という芋焼酎に酔わされたのか?』と怒っていたぐらいなんですけどね。とにかく、そういった江戸の幕閣の目もあるので、君公は天狗勢に手を差し伸べることができないのです」
「あの天狗勢の中には水戸人だけじゃなくて、真田さんたちがいるかも知れないんですよ。何とか助ける方法はないんですか?」
「一度幕府軍と戦ってしまった以上、もはや賊軍の罪は免れません。もう、我々はもちろんのこと、おそらく君公ですらどうすることもできないでしょう。なんとか彼らの罪が軽くなるように、機会を見て、幕府や朝廷に訴えるぐらいしか手はないでしょう……」

 真田たちと共に天狗勢に参加できなかったことを後ろめたく感じている寅之助としては、天狗勢と戦うことだけはなんとしても避けたい、と願った。そしてなんとかして彼らを救う手立てはないものか?と悩み苦しんだ。

 ところが皮肉なことに、やはり慶喜が軍勢を率いて天狗勢を討伐することになった。もちろん、寅之助もこの軍勢に加わるのである。
 慶喜は率先して天狗勢追討を朝廷に願い出た。
「この度、常州(じょうしゅう)の浮浪の者たちが多数、中山道を上京し、容易ならざる状況でございます。しかもその中には実家の家来も混ざっているとのこと、誠に申し訳ない次第にて、速やかに江州路(ごうしゅうじ)まで出張し、追討つかまつらん」
 こうして十二月三日、慶喜が率いる幕府軍が京都を出発して大津に入った。軍勢は一橋家の兵と幕府の兵に加えて、加賀、越前、筑前、彦根、小田原などの各藩兵、総計数千の軍勢で、その後、大津から海津(かいづ)(現、滋賀県高島市(たかしまし)マキノ町海津)まで北上した。ここまで来れば天狗勢が向かっている敦賀は、目と鼻の先である。そして慶喜は本陣である海津に残り、加賀藩など諸藩の兵は敦賀に入った。

 寅之助は床几隊の一人として、具足(ぐそく)を付けて海津の本陣で控えていた。
 具足を付けること自体は、以前イギリス海軍と江戸湾で戦争になりかけた時にも付けたことがあったが、このように行軍して戦争に備えるのは初めてのことだった。
(初めての(いくさ)の相手が、まさか真田さんや千葉塾生たちがいるかも知れない天狗勢とは……)
 寅之助はまったく絶望的な気持ちだった。自分の初陣(ういじん)だというのに、これほど戦意の上がらない(いくさ)になるとは、と嘆いた。

 そして篤大夫も上司の黒川嘉兵衛に随行し、書記官として海津に入っていた。



 十二月十一日、天狗勢は敦賀から数キロ北東にある新保村(しんぽむら)(現、敦賀市新保)に入った。真冬に美濃から蠅帽子(はえぼうし)峠を越えて越前に入り、その後も北陸で雪中(せっちゅう)行軍をするという壮絶な旅路だった。
 その新保の天狗勢の陣中に加賀藩の軍監・永原(ながはら)甚七郎(じんしちろう)がやって来て交渉にあたることになった。

 この交渉において天狗勢は初めて
「討伐軍を率いているのは一橋公(慶喜)である」
 ということを知った。
 まったく悲痛な話であった。
「自分たちが嘆願しようとしていた人が、今、自分たちを討伐しに来ているとは!」
 と天狗勢は皆、愕然となった。

 加賀藩の永原は大いに天狗勢に同情し、天狗勢の嘆願書(たんがんしょ)を慶喜に届けることを約束した。そして困窮していた天狗勢に兵糧なども分け与えた。

 しかしながら慶喜としては、天狗勢から嘆願をされてもどうしようもない。
 問題の根本は水戸藩内の対立にあり、それを解決できるのは慶喜の兄で水戸藩主の慶篤(よしあつ)しかいないのだ。
 さらに彼らが求める攘夷の実行も、長州と水戸の正義派が消えた今となっては、もはや愚かな世迷(よまよ)(ごと)に過ぎない。なんせ幕府は、これを機会にこれまで散々もめてきた「横浜鎖港」もウヤムヤのうちに葬り去るのである。

 そして何より致命的なのは、天狗勢が幕府軍と交戦してしまったことである。
 賊軍からの嘆願を聞き届けるなど、不可能に決まっているではないか。
 身内であるからこそ余計、不可能である、と慶喜としては思わざるを得なかった。

 結局交渉の末、十二月十七日、天狗勢は加賀藩に投降した。

 降伏する相手が慶喜様である、というのがせめてもの救いであり、また慶喜様であれば、それほど非道な扱いは受けないだろう、という判断もあった。

 ちなみに彼らはそれほど簡単に降伏を決めたわけではない。
「何のためにここまで苦しい行軍を続けてきたのか!戦わずに降伏するなど納得できない!」
 という声も多く聞かれた。そう言いたくなるのももっともだろう。それほどまでに常軌を逸した厳寒行軍だったのだから。
 それゆえ「間道を通って脱出し、長州へ逃げ込んではどうだ?」という案が出たりもした。また、以前関東で松平頼徳(よりのり)が騙されたかたちで投降して切腹の()()に遭った、という例もあったので大人しく降伏することに抵抗があった。

 けれども武田が
「朝廷や一橋公に逆らって賊臣の汚名をかぶるべきではない。降伏して我々の素志を訴えるしかない」
 と一同を説き伏せ、降伏することになったのだった。
 その間、加賀藩は終始、礼節をもって降伏した天狗勢を取り扱った。

 とにかく寅之助としては、天狗勢と戦わずに済んで大いに安堵した。
 そしてこのあと、真田や千葉塾生たちの情報を得ようと動き回ったのだが、結局それらしい情報はまったく入ってこなかった。
 なにしろ千葉塾生たちの多くは天狗勢と合流する前に幸手宿で戦死または四散しており、彼らのことを知る人が天狗勢の中にいなかったのも無理はなかった。もっとも寅之助はそういった経緯をまったく知らなかったので「塾生たちは天狗勢と共に立派に戦ったのだろう」と思っていた。
(おそらく彼らは関東での(いくさ)の際に、うまく落ちのびたのだろう。きっとそうに違いない……)
 と寅之助は自分に言い聞かせて納得する以外、方法がなかった。



 が、年が明けると状勢が一転した。
 一月中旬、田沼意尊(おきたか)玄蕃頭(げんばのかみ)。有名な田沼意次(おきつぐ)のひ孫)が関東から京都へやって来たのである。
 田沼は関東で天狗勢と戦った際に幕府軍を指揮していた人物で、賊軍である天狗勢に散々手こずらされ、彼らを心底憎悪していた。
 そのことは関係者全員がよく分かっていたので、もし投降した天狗勢が加賀藩から田沼へ引き渡されることになれば
「必ず田沼は彼らに過酷な処置を下すであろう」
 と多くの人々が危惧した。

 そして田沼は慶喜に会って、次のように願い出た。
「今回の天狗どもの乱は天下の世評もございますので公平に処置しなければなりません。常陸(ひたち)で投降した天狗どもとの差異が出ないように処置すべきでございます」
 このように述べて、天狗勢の引き渡しを慶喜に要請した。

 あろうことか慶喜は、この田沼の要請を受け入れた。
 そして天狗勢は加賀藩から田沼の手に引き渡されることになったのである。

 一橋家の家臣や加賀藩士たちは悲嘆にくれた。
「一橋公には人情というものが無いのか!」
 と多くの尊王攘夷派の人々が慶喜を非難した。寅之助も同じ気持ちだった。

 ここへ来て、人々もようやく、慶喜の本性を理解しはじめた。
 この人は決して、烈公斉昭様の尊王攘夷の遺志を引き継ぐ人ではない、と。
 そもそも攘夷自体も、長州と水戸の正義派が消え去って、今や風前の灯火(ともしび)となっているのだから、斉昭の遺志を引き継ぐ人間などあろうはずもなかった。
 しかし、そのこと以前に
「人としての情けが足りない」
 という慶喜の一面が垣間見えた事件でもあった。



 このあと田沼は天狗勢を(にしん)(ぐら)へ押し込むように命じた。
 罪人を獄へ押し込めるように、彼らを虐待したのである。
 礼節をもって天狗勢を取り扱っていた加賀藩はすでに敦賀を去っていた。代わりに小浜藩、越前藩、そして彦根藩が鰊蔵の警備にあたった。

 ここに彦根藩の名前がある。
 彦根藩は五年前、水戸藩の尊王攘夷派によって大老だった藩主、井伊直弼(なおすけ)を桜田門で殺されていた。しかもその際、石高を三十万石から二十万石へ、十万石減封されていた。
 まさに怨み骨髄である。天狗勢の多くは後に斬罪となるのだが、彦根藩士は率先してその首斬り役に名乗り出たという。

 二月四日から敦賀で処刑がはじまり、武田耕雲斎、藤田小四郎、田丸稲之衛門たち幹部だけに限らず、総計350余名が処刑された。
 この処刑人数の多さ自体、まったくもって異例な話だが、他にも虐待によって多くの病死者が出ていた。

 酸鼻(さんび)(きわ)める、という言葉がこれほど似つかわしい事件は、幕末では他に見当たらない。
 幕府がやったこの冷酷な処置を聞いて、多くの人々が幕府に対して嫌悪感を抱いた。有名なところでは大久保一蔵(後の利通)が日記に書いた幕府批判がある。
「このように多数の志士を処刑して、あまつさえ動物を扱うかのように虐待したのはまったく田沼の責任である。いよいよ幕府滅亡の兆しが見えてきた」


 しかも悲劇は、この後も続くのである。

 水戸では武田たち幹部の家族が次々と処刑あるいは永牢といったかたちで弾圧された。
 武田の場合は妻、息子、孫たち六人が処刑された。その中には八歳や九歳、さらに三歳の子供まで含まれていた。
 水戸では市川たち諸生党の弾圧によって尊王攘夷派は完全に根絶やしにされたのである。

 恐ろしいのは、話がここで終わらないことである。

 知っての通り、幕府はこの三年後に倒される。
 当然の報いと言うべきか、幕府が倒れたことによって今度は佐幕派の市川たち諸生党が、わずかに生きのびた尊王攘夷派の水戸人によって粛清されるのである。

 武田耕雲斎の孫で武田金次郎という男がいる。
 彼は天狗勢に加わって敦賀まで来ていたのだが、耕雲斎の孫であるにもかかわらず若年を理由に、奇跡的に処刑されなかった。そして小浜藩に預けられていた。
 鳥羽伏見の戦いで幕府が倒れたあと、朝廷は金次郎たち水戸の尊攘派に対し「諸生党追討」の命を下した。山川菊栄(きくえ)の著書『覚書 幕末の水戸藩』(岩波文庫)に、この金次郎のタチの悪さが書かれており、復讐の念に燃えた金次郎は片っ端から諸生党の関係者を殺して回ったようである。そして水戸では、弘道館(こうどうかん)を焼き払うことになった「弘道館の戦い」などによって諸生党は壊滅。市川三左衛門の最期についても山川菊栄の本に書いてあるが、水戸で逆さはりつけという残酷なかたちで処刑された。

 かなり先走ってしまったが、以上が「幕末の水戸藩」の顛末(てんまつ)である。

 幕末の悲劇というと「会津藩、白虎隊」などを思い浮かべる人も多いと思う。
 会津藩の場合は「純粋な敗者の悲劇」として描けるので、時々ドラマになったりもする。

 しかるに水戸藩の場合は、その悲劇性は会津藩に劣らぬほどの悲惨さ、とも言えるはずなのだが、その悲劇があまりにも陰惨過ぎて、まずドラマになるという事はない。
(※1998年の大河ドラマ『徳川慶喜』では最後の悲惨な部分はカットしたが(にしん)(ぐら)の場面までは、ある程度詳しくやっていた。今度の渋沢栄一の『青天を衝け』でも藤田小四郎と武田耕雲斎が出るらしいので少しはやるかも知れないが)
 そのため多くの日本人がこの事を知らない。
 まさか二度とこんなことは起こりえないであろうし、「この(あやま)ちをくり返さないため」とまでは言わないが、歴史の教訓の一つとして知っておくべきことではなかろうか、と筆者は思う。


 やや余談にわたる話となってしまったが、この天狗党騒動にまつわる話を締めくくるにあたって一応指摘しておきたいと思い、縷々(るる)述べた次第である。
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