第40話 <最終回>吉田寅之助と渋沢栄一

文字数 15,901文字

 三峰山(みつみねさん)にいた寅之助たち敗残兵は、ここで二日待った。
 しかし成一郎、新五郎、平九郎といった幹部たちは現れなかった。

 集まった敗残兵は七、八十人といったところで、彼らは口々に意見を述べた。
「おそらく頭取たちは討たれたか、あるいは捕まってしまったのだろう」
「まさか約束をたがえたとは思えないが、ここでジッとしていては我々の身も危うくなる」
「この小人数では振武軍(しんぶぐん)として再挙するのは無理だ。残念だが、もはや各々(おのおの)、自分の思うところに従って道を選ぶべきだ」

 幹部の一人だった寅之助としても「解散するしかないだろう」と再挙をあきらめた。
 そして振武軍は解散し、それぞれ自分の意志でバラバラに散って行った。

 ほとんどの者が更に奥地の甲州や信州へ向かったが、中には新政府軍の合間をぬって東へ戻ろうとする者もいた。
 寅之助もその一人だった。
(もはや成一郎さんたちをアテにすることはできなくなった。これからは俺自身の手で薩長と戦う方法を考えなければならない。やはり薩長と戦うなら、何と言っても会津へ行くしかないだろう。だがその前に、せっかく秩父にいるんだから一度熊谷へ行って、一目家族に会っておきたい……)
 それで寅之助も町民に変装し、単独で熊谷へ向かうことにした。
 他の連中同様、銃や太刀は農家に預け、脇差しだけ懐に隠し持った。
 そして可能であれば秩父往還(秩父と熊谷を結ぶ道。大体現在の秩父鉄道のルート)を通って行くつもりだが、もし秩父往還の警戒が厳しいようであれば東秩父の山道を通って熊谷を目指そうと考えた。

 とりあえず寅之助は三峰山から秩父大宮(現在の秩父市街)へ入った。すると、そこでいきなり衝撃的な物を見てしまった。
 振武軍の敗残兵十二名の首がさらし首になっていたのである。
 その内の一人は瀧川という幹部で、彰義隊から新しく加わってきた男だった。彼らは戦争当日の二十三日に秩父で(おし)藩兵に捕らえられて斬首されたのだった。

 これを見て寅之助は内心、心臓が飛び出るほど衝撃を受けていたが、素知らぬふりをしてその前を通り過ぎていった。
(これはやはり、秩父往還を通るのは無理だな。山道を通るしかなさそうだ……)
 と当初の予定を断念して東秩父の山中へ入っていった。

 この寅之助の判断は正解だった。戦争から数日経っていたということもあって山道の警戒はそれほど厳しくなくなっていたのだ。
 寅之助は慎重に周りを警戒しながら、もし新政府軍の兵士を見かけたらすぐに山の中に隠れようと思っていたのだが、幸い一人の兵士にも出会うことはなかった。そしてこの日は山の中で野宿した。
 翌日、山道を抜けると鉢形(はちがた)の辺りに出た。荒川の近くである。ここまでくれば、あとは荒川に沿って東へ行けば熊谷へたどり着くことができる。

 そして、そこからしばらく東へ歩いて行くと昼過ぎ頃、畠山(はたけやま)というところへ来た。
 寅之助はこの土地のことをよく知っていた。なにしろここは「坂東武士の鑑」と言われた畠山重忠(しげただ)ゆかりの地なのだ。畠山重忠は熊谷直実(なおざね)と並んで北武蔵を代表する源平時代の武士で、それを慕って寅之助もかつてこの地を訪れたことがあった。余談だが、来年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では四十三年前の『草燃える』以来、久しぶりにこの畠山重忠が登場することになるようだ。
 寅之助は荒川の流れを眺めながら物思いにふけった。
(まったく、畠山重忠公のように「(うぐいす)の瀬」を渡ってでも、早く北岸の地元へ戻りたいものだ……)
 この「鶯の瀬」とは、畠山重忠が荒川を渡れなくて困っている時に鶯が鳴き声で浅瀬を教えてくれた、という故事のことである。現在、畠山重忠ゆかりの満福寺の裏手に「鶯の瀬」の石碑が立っている。

 そして寅之助がその満福寺の近くまで来た時に、とうとう新政府軍の網に引っかかることになってしまった。
 その時突然、近くで「ズキューン!ズキューン!」と数発の銃声が聞こえたのだ。
(何だ?一体何があったんだ?)
 と寅之助は狼狽した。

 しばらくすると、新政府軍の兵士数名が一人の死体を戸板に乗せて満福寺へ運んで来た。どうやら新政府軍が射殺した相手を運んでいるようだった。
(あれは我が軍にいた水橋右京!)
 射殺された男は振武軍の幹部で、寅之助も知っている男だった。が、寅之助は素知らぬふりをして後ろを振り向き、道を引き返すことにした。

 新政府軍の兵士はこの日「畠山村に振武軍の残党が潜んでいる」という連絡を受けて、たまたま捜索に来ていたところだった。
 このあと満福寺の門前で新政府軍の士官が兵士たちに命令した。
「賊の残党はまだこの辺りに何人か潜んでいるはずだ。この付近一帯を徹底的に捜査せよ!」
 この命令を受けて兵士たちはただちに捜索へ向かった。

 寅之助は急いで畠山村から離れようとした。
 しかし村の外れまで来たところで小銃を持った三名の兵士に呼び止められ、とうとう尋問を受けることになった。
(ここまで何とかたどり着いたというのに、熊谷を目の前にしてなんたる不運!)
 と寅之助は心の中で嘆いたが、表面上は平然とした表情で対応した。
「これはこれは、何の御用でございますか?」
「お前はどこの村の何という者だ?」
「私は熊谷から参りました熊谷直寅と申す者で、地元の鹿島神社で神主をしております。けっして怪しい者ではございません」
「何か身の(あか)しを立てる物を持っておるか?」
「申し訳ございません。今は持っておりませんが、神社へ戻ればございます」
「では、そのことはのちほど詳しく調べるとして、とにかく満福寺までついてきてもらおうか」
「……。ああ、そうそう。忘れておりました。身の証しを立てる物を持っておりました」
 と言って寅之助は懐に手を入れた。
 そして次の瞬間、脇差しを抜き打つと電光石火の早技でたちまち三人の片腕を斬った。

 兵士たちは「ウギャー!」と叫んで、持っていた小銃を落とした。
 このあと寅之助は、三人の心臓か喉を突いてとどめを刺そうと思ったが、止めた。
 逃走を容易にするためにはとどめを刺して、確実に口封じをしておいたほうが良いに決まっている。が、やらなかった。
 別に人命尊重がどうの、といった理由ではない。寅之助は新政府軍に対して激しい憎悪を抱いている。普通なら躊躇(ちゅうちょ)なく殺すところだ。
 しかしこの場合、脇差しを相手に刺して返り血を浴びると目立ってしまい、逃走するのに不利となる。
 だから殺さなかった。ただそれだけのことである。
 そしてすぐさま、この場から逃走した。

 ところが、やはり兵士にとどめを刺さなかったためにすぐ仲間へ連絡が行き、追撃隊が追いかけて来た。
 寅之助はとにかくガムシャラに逃げた。なるべく山や林へ入るようにして逃げた。そのほうが身を隠しやすいからだ。ただしこの時入った山は小さな山だったので、すぐに裏手の平地に出てしまった。
 新政府軍の追撃隊は何発も寅之助をめがけて小銃を撃った。
 けれども遠間だったので当たらなかった。当時の小銃は連発で撃てる代物ではなく、遠間ではなかなか当たらないのだ。

 が、その内の一発がまぐれ当たりで寅之助の左腕に当たり、貫通した。
 寅之助の左腕に激痛が走り、血が噴き出した。
(くっ、やってしまったか……。幸いにも骨には当たってないようだ……。が、すぐに血を止めねば……)
 と持っていた布で左腕を縛り、すぐまた近くの山へ逃げ込んだ。そして寅之助は山の中を逃げ回り、新政府軍の兵士たちは山の中を執拗に捜索した。
 やがて夕暮れとなり、夜となった。

 寅之助は真っ暗な山の中をさまよい歩いた。空腹と失血のため、気が遠くなりそうだった。
 しかも左腕はどこか神経をやられたせいか、思うように動かせなかった。持っている武器は脇差しだから右腕だけで十分なのだが、もうそれを振り回す気力さえ残っていなかった。銃弾のかすり傷や木の枝による切り傷で、すでに体中、傷だらけになっていた。
(いよいよ俺にも最期の時が来たか……。松吉、健次郎。すまん。お前たちの(かたき)討ちは出来なかったようだ……)

 夜の闇の中をふらふらになりながら、寅之助は歩き続けた。
 北武蔵の山を、平野を、あてどなく、まるで夢遊病者のように漂い歩いた。
 そして、何か見覚えのあるようなところまで来て、バタッと倒れた。
 寅之助はそこで気を失った。




 寅之助が目を覚ますと、布団の中にいた。
 自分が新政府軍に捕まっていないことに驚いたが、久しぶりに布団で寝ていることにも驚いた。
 まだ夢の続きを見ているのだろうか?と思ったその瞬間、体中の傷、特に左腕に激痛を感じ、これがまさしく現実であることを寅之助に教えてくれた。
(痛!痛てて……。はて?ここはどこだ……?何か見覚えのあるような部屋なのだが……)
 と寅之助は部屋の中を見回した。

 すると部屋の奥で、老人が座って書見台の本を書見していた。
 根岸友山だった。
 その友山がおもむろに寅之助の方を振り向いて語りかけた。
「起きたか、寅之助。そろそろ起きる頃だと思っていたぞ」
「友山先生!」
 甲山(かぶとやま)の根岸邸だった。ただし離れの小屋なのだが、かつて寅之助も入ったことのある小屋だった。

「とにかく食え」
 と言って友山は、お粥の食膳を寅之助に持ってきた。
 寅之助は左腕が上手く動かせなかったが、とにかくそれをむしゃぶりつくようにガツガツと食べた。何はともあれ、一心に食べた。まさに生き返る心地だった。

 そして一息ついてからようやく友山に尋ねた。
「なぜ、私がここに……?」
「なぜ、と言いたいのはワシのほうじゃ。一昨日の夜、我が家の門前でお前が倒れているのをウチの者が見かけたのだ。お前は一体どこで何をしていたのだ?」
「……」
「一昨日、畠山の辺りで官軍の兵士数名が賊に負傷させられたと聞いたが、まさかお前がその賊なのではあるまいな?」
「いえ。それはまさしく私の仕業です」
「ふん。やはりそうか。念のため離れに寝かせておいて良かったわ。官軍が捜査のために踏み込んできた際、お前が母屋にいたら、ワシや(せがれ)武香(たけか))も厳罰を受けるところじゃ。ということは寅之助、お前はあの振武軍の一味だったのか?」
「さようでございます。大変なご迷惑をおかけして、まことに申し訳ございませんでした。一命をお助け頂きましたことは、深く御礼を申し上げます……。それでは、私はただちにここを出ます。これより急いで会津へ向かわねばなりませんので……」
 と言って寅之助は立ち上がろうとしたが、腰を上げようとしたところで体がふらつき、再び布団の上に倒れ込んでしまった。

「無理をするな、寅之助!お前はもう少し体を休めねばロクに歩くことすらできまい。それに、ワシを見損なうな。ワシが官軍を恐れてお前をここから叩き出すと思うか?お前は安心してここで養生していろ。誰が何と言おうと、お前のことはワシが絶対に守ってみせる」
 寅之助は友山に深く頭を下げて感謝しながらも、再び立ち上がろうとした。
「先生のお心遣いにはこの寅之助、まことに恐悦至極で、感謝の言葉もございません。ですが、私は会津へ行って薩長と戦わねばならないのです」
 しかし寅之助は再び布団の上に倒れた。
「なぜだ?なぜお前はそれほどまでして幕府のために働こうとする?たとえ一時は幕府の禄を()んだとはいえ、それほど幕府に忠義立てする義理はあるまい。まさか先の将軍(慶喜)にそれほど忠義を尽くしたいのか?」
「いえ。上様のことはまったく関係ございません。私は弟子と朋友を薩摩に殺されました。その敵討ちのために薩長と戦うのです」
「だが、お前のその左腕は当分使い物になるまい。それでは銃も刀も使えないではないか」
「右腕一本あれば拳銃が撃てます!刀も片手で振るってみせます!」

 そして寅之助はもう一度立ち上がろうとした。が、またふらついて倒れそうになった。
 それを友山が受け止めた。そして言った。
「敵討ちと言うなら、真田範之助や千葉道場の塾生たちを殺したのは幕府ではないか!我が友、竹内(ひらく)や我が弟子、小川香魚(こうぎょ)、小島直次郎を殺したのも幕府だ!」
「……」
「お前の敵討ちの気持ちは重々尊重する。その気持ちを捨てろとは言わん。だが幕府も薩長も、それぞれお互いに怨みがあるのだ。そろそろここら辺で手打ちにすべき時だろう。もう、勝負は着いたのだ……」

 寅之助は、友山の腕の中で号泣した。おんおんと号泣した。

 その後、友山は小屋から退出していった。
 そしてしばらくすると友山は戻って来た。女性を一人、連れて来ていた。
「それで、お前の世話はこの人に看てもらうことにしたから」
 と友山が告げると、その女性を残して去って行った。

 その女性は何と、お多恵だった。
「お多恵ではないか。なぜ、嫁に行ったはずのお多恵がここに……?」
「主人は一年前に病気で他界しました……」
「……」
「そのあとしばらくの間は婚家におりましたが、この前、実家へ戻って参りました。今は出戻りの身でございます……」
 そう言ってお多恵は寅之助のところへ来て、食膳を下げ、寅之助の体の包帯を取り替えた。そしてお多恵が言った。
「私と関わる男の人は、どうしてこう、皆、不幸な目にあうのでしょうか。私が不幸を招き寄せているとしか思えませぬ……」
「いや。決してそのようなことはない。俺がこうなったのは俺自身のせいだ」
 それから二人は、じっと見つめ合った。
 お多恵が言った。
「子どもの頃に思い描いた夢とはかなり違ってしまいましたけど、それでもこうして寅殿のお世話をできるようになり、私は嬉しゅうございます……」
 寅之助は、傷だらけの体でお多恵を抱擁した。
 二人は涙ながらに抱擁し合った。




 寅之助、成一郎、新五郎、それに平九郎。彼らがこのような目にあっていることなど、パリにいる篤太夫が知り得るはずもない。

 しかしそれでも、上野の彰義隊を新政府軍が破った情報はその二ヶ月後の七月に、ようやくパリにも届いた。とはいえ、飯能戦争などという小さな戦闘の情報は届くはずもなく、もちろん寅之助や成一郎たちがどうなっているかといった事など、篤太夫はまったく知らなかった。
 そしてその頃、新政府からの帰国命令が再び昭武のもとに届き、一行は日本へ帰国することを決意した。

 それからしばらく経った七月二十三日、日本駐在のフランス公使だったロッシュが昭武たちのところへやって来た。
 ロッシュは公使を辞めてフランスへ帰って来たばかりだった。そしてロッシュは昭武たちに「日本へ帰国してはならない」と、しきりに説得した。
 なにしろロッシュは日本で慶喜に、すなわち幕府に大変肩入れしていた。それでロッシュは鳥羽伏見の後に江戸へ逃げ帰った慶喜に対しても盛んに「徹底抗戦」を訴えた。が、もちろん慶喜はそれを受け入れず、隠居して水戸へ引っ込んでしまった。
 ロッシュが日本を離れたのは五月初旬の頃だった。その頃はまだ彰義隊戦争も行われておらず、北越や東北の戦線も先が見通せない状況だったので新政府軍の優位はまだそれほど確立されてはいなかった。
 そのためロッシュは「旧幕府側の勝利」にまだ望みをつないでいたのである。
「もし公子(昭武)が今帰れば、薩長によって人質にとられてしまうかも知れない。徳川方が勝利する可能性はまだ十分ある。急いで帰る必要はない」
 そう言って説得したのだが昭武たちは帰国の決意を変えなかった。それでロッシュは昭武からの食事の招待も断り、さっさと帰ってしまった。そして二度と昭武たちの前に姿を現すことはなかった。

 帰国の予定は九月初旬と決まり、篤太夫は借家や雇用の解約手続き、家具や荷物の処分、さらに各方面へのあいさつ回りなどでてんやわんやの忙しさだった。こういった直接的な実務はすべて篤太夫が担当していたからである。

 そして九月一日、昭武一行は皇帝ナポレオン三世に帰国のあいさつをするため、汽車でスペイン国境に近いビアリッツへ向かった。ビアリッツはビスケー湾に面した保養地で、この頃ナポレオン三世は家族と一緒にビアリッツの離宮にいたのだった。

 昭武一行は駅で侍従武官に出迎えられ、馬車に乗って皇帝一家のいる離宮へ向かった。
 そして離宮では昭武がナポレオン三世、皇后のウージェニー、さらに皇太子のルイ・ナポレオンに謁見して帰国のあいさつをした。
 この皇太子は年齢が十二歳で、昭武より三歳年下だった。
 それでウージェニーは息子と大して年も変わらない昭武に同情し、昭武の手を握って
「せっかくはるばる留学に来られたのに、お国で大変なことが起きて帰国なさるのは、さぞお(つら)いことでしょう。たくましく成長されることを心よりお祈りします」
 と優しく慰めの言葉をかけた。
 そして昭武が帰る時には皇太子が長い廊下を玄関まで案内して、そこで見送ってくれた。

 昭武や篤太夫たちはこのあと、九月四日にマルセイユを出港して日本へと向かった。
 昭武の教育係をつとめていたヴィレット中佐はマルセイユまで付き添って昭武一行を見送った。
 ウージェニーにしろヴィレット中佐にしろ、祖国で内戦が起きて帰国せざるを得ない立場の昭武に同情した。

 けれどもこのあと、たった二年でその立場が入れ替わり、彼らこそが同情される側になるのである。
 言わずと知れた、二年後の「普仏戦争」のことである。
 日本の戊辰戦争はあくまで内戦であり、同朋同士が殺し合う悲惨な戦争ではあるが、他国の軍に征服されるといった状況ではない。
 しかるにフランスは普仏戦争でプロシア(ドイツ)によって屈服させられ、ナポレオン三世は廃位させられるのである。
 さらに言うと皇太子だったルイ・ナポレオンは、十一年後にイギリスの植民地戦争に参加して戦死することになる。

 話を昭武や篤太夫たちに戻す。
 くどいようだが、日本とフランスを船で行き来した場合、約二ヶ月の月日を要する。
 そんなわけで一行は十月二十六日にようやく上海へたどり着いた。
 その頃日本では、すでに会津藩も降伏しており、東北の戦争は終わっていた。残るは榎本たちが立てこもっている箱館だけである。篤太夫たちも香港や上海まで来て、ようやくそのことを知るようになった。

 ところが上海に着いて二日後、篤太夫たちのホテルに旧幕臣の長野桂次郎(けいじろう)がヘンリー・スネルというドイツ人を連れてやって来た。
 この長野桂次郎は幕府の外国奉行で通訳として働いていた男で、外国人からは“トミー”という愛称で呼ばれていた。遣米使節の際にアメリカで人気となって『トミー・ポルカ』なる曲まで作られた男なのだが、米田桂次郎あるいは立石斧次郎(おのじろう)といった別名で呼ばれることもある幕末外交史ではちょっとした有名人である。
 そしてヘンリー・スネルは会津藩を軍事的に支援して「平松武兵衛(ぶへえ)」を名乗っていた男で、これもまた幕末外交史の有名人である。ちなみに弟のエドワルドも武器商人で長岡藩の河井継之助(つぎのすけ)にガトリング砲を売り込んだ。この兄弟は「スネル兄弟」あるいは「シュネル兄弟」と呼ばれている。

 篤太夫は大坂で長野と会ったことがあり、二人は知り合いだった。それで長野が篤太夫のところへ相談にきたのだ。
「このスネルさんは会津藩に武器の都合をつけていたのだが、さらに武器を調達するため上海まで来た。それで私は通訳として一緒に来た。そこで相談だが、民部様の横浜へのご帰国はおやめになって、このまま真っ直ぐ箱館へお連れ申したい」
「すでに会津は落城したという話を聞いたのだが、まだ(いくさ)が続いているのか?」
「我々が日本を発つ時はまだ落城していなかったが、もしかすると、もう落城したのかも知れない。しかし、まだまだ我が方の兵力は十分にある。それにスネルさんの応援もある。民部様に箱館の旗頭になって頂ければ、我が軍も大いに奮起するであろう。是非そのように民部様へお取り次ぎ願いたい」
「そのような事はもっての外だ!民部様をそのような危険なところへお連れするなど、できる訳がないではないか!そんな話は絶対に取り次げぬ」
 と、篤太夫は断固として長野の提案を拒否した。
 いくらフランスにずっといて日本の情報に疎いといっても、この段階で箱館の勢力に逆転の望みがないことなど分かりきった話であったし、何より勝ち負け以前の話として、幼年の昭武を戦場へ連れ出すなど篤太夫でなくても言語道断な話であった。

 そして十一月三日、昭武一行は横浜に帰国した。船が江戸湾へ入る際、雪に覆われた富士山を眺めながら篤太夫は、なぜか目に熱いものを感じた。
 出発したのは一年前の一月なので、およそ一年十ヶ月ぶりの帰国となった。長いようで短いような、少なくとも当初の予定よりは遥かに短い洋行となったのだが、日本の様子は出発時とは一変していた。
 なにしろ江戸が東京と名前を変えていた。
 また「幕府の権威は地に落ちているのだろう」と覚悟はしていたものの、新政府による上陸時の審査は、審査というより尋問といったような有り様で、篤太夫にとっては何もかもが不愉快だった。
 上陸後、旧幕臣たちの出迎えを受けた。彼らは一緒にヨーロッパへ行っていた杉浦愛蔵、田辺太一、川路太郎などといった面々だったのだが、皆がまるで主をなくした飼い犬のように落ちぶれた様子だった。
 なるほどこれは、二年後に普仏戦争に敗れるフランス程ではないにしても、篤太夫たちにとっては「亡国の臣」の帰国に他ならない状況だった。

 そのあと昭武は水戸へ戻り、旧幕臣たちは自宅へ帰っていった。
 ただし篤太夫はしばらく横浜や江戸で留学の残務処理をしながら、変わり果てた日本の様子をいろいろと見聞きして回った。そうしているうちに父市郎右衛門(いちろうえもん)が東京へやって来て、篤太夫は久しぶりに父と再会した。
 人々から聞く話は篤太夫にとって、まったく断腸の思いをさせられる話ばかりだった。

 篤太夫はここでようやく成一郎、新五郎、平九郎たちがおこなった飯能戦争の話を耳にした。
 新五郎は無事故郷へ帰っていたが、成一郎は榎本艦隊に参加して箱館へ行っているという話だった。
 そして平九郎は、確実な情報ではないものの、おそらく秩父の山中で討ち死にした可能性が高いと聞かされた。
 さらに、長らく伝馬町の牢屋に入れられていた長七郎は、ようやく釈放されたというのに、つい先日(十一月十八日)病死してしまった。

 また、これは少し先の話になるが、この翌月の十二月中旬、篤太夫は駿府へ行って、水戸から駿府へ移っていた慶喜と再会することになる。
 そこで再会した慶喜は御付きの小姓もおらず、ただ一人でしょんぼりと座っている様子だった。
(自分がパリへ行く前は堂々たる将軍様でいらしたのに、何と落剝(らくはく)されたお姿になり果ててしまわれたか……)
 そう思うと篤太夫は感極まって涙を流し、慶喜に言上した。
「こんな情けないお姿を拝見することになろうとは……、何と申し上げてよいやら……」
 すると慶喜は平然と答えた。
「今日はそのような愚痴を聞くために会ったのではない。お前が昭武のフランス留学の報告をすると聞いたから会いに来たのだ」
 これを聞いて篤太夫は、慶喜の冷然とした態度に唖然(あぜん)としてしまった。

 後年、渋沢栄一はこの時のことを次のように語っている。
「とどめを刺すとでも言うか、平然として言われた。まことに慶喜公にはああいった場合、人情があるのか無いのか、それとも感情があるのか無いのか、と思われる方である。それで私も『恐れ入りました。それでは何も申し上げますまい。ただただ残念でございます』と言って、それから民部様の御留学について詳しくお話し申し上げて、引き下がった次第である」


 こうして変わり果てた日本の様子を見聞きするにつけ、篤太夫が度々考えたことは
(もし自分がパリへ行っておらず、日本に留まっていたらどうなっていたであろうか?)
 ということだった。

 まさか自分一人がいたところで幕府の崩壊を防ぐことができたとは思えないが、平九郎を死なせるようなことは決してしなかっただろう。そして自分が鳥羽伏見や彰義隊の戦いに際していたらどうなっていたか、それを予想するのは難しいけれども、平九郎はまるで自分の身代わりとなって亡くなったようなものだ、と思った。

 それで篤太夫は、平九郎の死にそれなりの責任がある成一郎に対して
「もはや今日の形勢ではお互い生前の面会は望みがたいことである。よって、この上は潔く戦死を遂げられよ」
 と厳しい内容の手紙を書いて箱館へ送った。




 篤太夫は駿府の慶喜のところへ行く前に、一度地元の血洗島村へ戻った。
 それは十二月一日のことで、以後数日、地元に滞在した。嫁の千代や娘の()()と会うのも数年ぶりのことである。また、パリ帰りの篤太夫が帰郷したと聞いて多くの親類縁者が駆けつけて来た。
 その中には既に伊香保温泉から帰ってきていた新五郎もいた。
 新政府としては、振武軍などという小物のことは既に忘れ去っており、新五郎は素知らぬ顔で地元に帰って来ていたのだった。
 新五郎は篤太夫に彰義隊結成から振武軍崩壊までのいきさつを語った。しかし平九郎のことはやはり、新五郎にも確実なことは分からず、状況的に見て多分討ち死にしたであろう、という話だった。なんにせよ、新五郎はあまり振武軍のことは語りたがらなかった。

 この頃、篤太夫は西洋の手帳に日記を書いていた。日本の暦(旧暦)と西暦が併記してあり、おそらくパリで日記を付けていた習慣でそのまま書き続けていたのだろう。その手帳によると十二月七日に地元を出発して、中山道を東京へ向かった。

 そして篤太夫が熊谷に着くと、そこで寅之助が待ち受けていた。
「お久しぶりです。篤太夫さん」
「おお。これはこれは、寅之助さん、ご無事だったと聞いてはおりましたが、ようやくお目にかかれましたな」
「ふふ。あまり無事でもありません。この通り、もう左腕は以前のように使えず、もう剣術ではやっていけません。もっとも、その剣術自体がすたれそうなご時世ですけどね」
「実は今回の帰郷で、ひょっとするとあなたに会えるんじゃないかと思ってました」
「私もあなたに会いに血洗島まで行こうかと思いましたが、大勢の親類縁者が押し寄せているでしょうから遠慮しました。それにいろいろと訳があって、新五郎さんと顔を会わすのもちょっとお互いに気まずいですから……」
 立ち話も何なので、ちょうど昼飯時ということで二人は飯屋へ入って話を続けた。

「……そうですか。やはりあなたも平九郎の行方はご存知ないですか……」
「まったく面目ない。どこかで生きのびていることを願うばかりです。彼はあなたと再会することを大変楽しみにしていました……」
「平九郎は一本気な性格だったから、ひょっとすると生きることを選ばなかったかも知れません。だとすれば、実に惜しいことだ。これから時代は大きく変わる。若い者はいくらでもやれることがあるというのに……」
「ところで、パリでの生活はどうでした?あなたの話は卯三郎さんや健次郎から少しは聞きましたけど、ぜひ、あなたの口からも聞いてみたいものだ」
 それで篤太夫はパリでの経験について寅之助に語って聞かせた。その話の中で、寅之助は健次郎が死んだことを語った。

「なんと、斎藤健次郎さんもお亡くなりになったんですか」
「健次郎だけでなく、あの混乱の時に、多くの人が亡くなりました」
「私だけが、パリで難を逃れたかたちになって、実に心苦しいかぎりです」
「思えば、千葉道場や天狗党の人々、それに京で知り合った人々、本当にこれまで多くの人を亡くしてしまった。我々がこうして生きているのがまったく不思議なぐらいだ」
「もう、そういった時代は終わりにせねばなりません。徳川家の時代が終わり、薩長の時代になったとしても、人々の暮らし向きが良くなるのであれば、それで良いではありませんか」
「それで、篤太夫さんは薩長の政府に仕えるおつもりですか?いや、あなたのように有用な人材を政府が放っておくはずがありません。そうなるのは自然な話です」
「いえ。私はあくまで上様の家臣ですから、まずは駿府で上様にお会いしてからです。すべてはそれからの話です。もし徳川家から離れるとしても、二君に仕えるつもりはありません。これからの時代は、国や藩に仕えなくても仕事はいくらでもあるのです」
 と言いつつも篤太夫は、のちにいったん薩長新政府、すなわち明治政府へ入ることになるのである。
 まったく臨機応変というか、融通が利きすぎるというか、いつも立派な理念を口にしつつも、実際に事に臨むと現実に即した対応をしてしまう男なのだ。確かに理念だけの観念論者ではダメで、逆に何の理念もなく常にその場しのぎの即物論者でもダメで、篤太夫はそのバランス感覚が優れていたと言うべきなのだろう。まさに「論語と算盤(そろばん)」のバランス感覚である。経済人としては理想的な姿と言っていい。

「ところで、寅之助さんのほうこそ今、どうやって暮らしているのですか?」
「実家へ戻って百姓の仕事を手伝っています」
「なるほど。我々旧幕臣は新政府に仕えるか、徳川家に残るか、帰農または商売をするか、どれかを選ばねばなりませんが、我々は元々百姓なのだから元へ戻るのは自然なかたちです。私もあるいは、そうするかも知れません」
「私はもう、国の政治(まつりごと)に関わるつもりはありません。地元の熊谷で、この北武蔵の地で百姓を続け、この地域を豊かにする、ただそれだけを考えることにしました。それに、ようやく嫁も迎えることになりましたし……」
「ほう。あなたもいよいよ所帯を持つことになりましたか。それは実にめでたい」

 このあと、寅之助が篤太夫に質問した。
「……子どもの頃、あそこの高城(たかぎ)神社で剣術の試合をしたことを覚えてますか?」
「ええ、覚えてますとも」
「うろ覚えですが、あなたはあの時、これから戦国の時代に戻る、面白い時代になる、と嬉しそうに言っていたことを私は覚えてます」
「うーん、そんなことも言ったかなあ。よく覚えてないが……」
「いや、確かに私はこの耳で聞きました。だけど、私にとっては面白くもなんともない、実に酷い時代でした。こんな目にあうのは、もう二度とごめんだ」
「まあ、そうですな……。本当に多くの人が死んでしまった。あまりにも犠牲が大き過ぎましたな」
「ですが、こんな酷い経験でも、これから何十年か経って、私が年寄りになった頃には『面白い時代だった』と振り返ることになるんでしょうかね。何も無い、平和でつまらない時代に比べれば面白かった、と。またあるいは、ひょっとすると百年後の人々が書物か何かでこの時代のことを読めば、面白いと感じたりするんでしょうかね」
「うーん、そういうこともあるかも知れません。まあ、百年後にちゃんとした書物が残っていればの話ですがね。特に私としては、後世の書物に上様のことがどのように書かれるのか、それが心配です……。しかし、それにしても寅之助さん、何を年寄りくさいことを言ってるんですか。我々はまだまだ若い。これから新しい時代が始まるのです。我々の時代はこれからが本番ですよ」
「まあ、江戸に……、いや東京に帝が行幸(ぎょうこう)され、元号も新しく“明治”と変わりましたからね。もっとも『上からは明治だなどと言うけれど、“(おさ)まるめい(明)”と下からは読む』などと茶化している者もいるようですが……」
「明治の時代は、きっと我々にとって良い時代になりますよ」
「あなたが言うと、なぜかそんな風に思えてしまうから不思議だ」
 そして篤太夫は寅之助と別れて、東京へ去って行った。



 幕末の動乱は終わった。
 このあと寅之助は熊谷で農業にいそしみ、一埼玉人として静かに明治の時代を生きた。
 この北武蔵の地で、お多恵や子どもたちと共につつましくも幸せに暮らしたのだった。




<エピローグ>
 渋沢篤太夫こと渋沢栄一のこれ以降の事績については、これから新しい一万円札の顔になり、しかも今年、大河ドラマも放送されるのだからそういった本はいくらでも世の中に出回るであろう。それゆえ、ここで詳しく述べる必要はなかろうと思う。
 ということで、ここではそれ以外の人物についての後日談を述べる。

渋沢成一郎
 新五郎と伊香保温泉に潜伏したあと、新五郎は実家の下手計村へ帰ったが、成一郎は榎本艦隊に身を投じて箱館へ向かった。
 成一郎は箱館戦争においてもいくつかのエピソードを残している。ただしあまり好ましい内容のものではない。榎本艦隊でも成一郎は彰義隊の残党を率いることになったのだが、松前城を攻略する際に先陣争いを無視し、成一郎の部隊は真っ先に金蔵を目指したので彰義隊が内部分裂を起こした、という話が残っている。ただしこれは成一郎と対立していた彰義隊士、寺沢正明が書いた『幕末秘録』にのみ書かれている話のようだ。またこの『幕末秘録』を基にして司馬遼太郎大先生が『彰義隊胸算用』という短編小説を書いており、そこでも成一郎は「金の亡者」として描かれている。そして、箱館の榎本たちは後に降伏したのだが、成一郎はその直前に脱走してしばらく潜伏し、それから投降した。このことも、箱館にいた仲間たちから色々とひんしゅくを買ったようである。
 その後成一郎は投獄され、それが赦免されたあと名前を喜作に戻した。以後、栄一のツテを頼って大蔵省に入ったり洋行したりした。そしてのちに実業家や相場師となって財を成した。ただし何度か投機に失敗して大損を出したこともあったのだが、そのつど栄一が補填してくれたので事なきを得た。

尾高新五郎
 維新後は惇忠(あつただ)と名乗る。明治二年に静岡藩(旧幕府)に出向。そこで仕事ぶりが認められて明治政府の民部省に登用される。そして、当時同じく政府にいた栄一と共に富岡製糸場の建設に携わり、明治五年に完成。初代場長となる。またその際、工女募集の手本として娘(ゆう)を工女にした、といった有名なエピソードが残っている。明治九年に場長を辞めたあとは栄一が作った国立第一銀行(日本初の銀行で現在のみずほ銀行の源流)に入り、盛岡支店や仙台支店の支配人をつとめた。

渋沢平九郎
 黒山村で自刃したあと、その首は越生(おごせ)村にある法恩寺の門前にさらされ、後に境内に葬られた。首のない遺体は黒山村の全洞院(ぜんとういん)に葬られた。遺体には平九郎の辞世の句があったらしく、それは「惜しまるる 時ちりてこそ 世の中の 人もひとなれ 花もはななれ」と「いたずらに 身をくださじな たらちねの 国のためにと 生にしものを」の二首であったという。明治六年、栄一が首と遺骸を東京谷中の渋沢家の墓地に改葬した。
 また平九郎に傷つけられた芸州の兵士を治療した宮崎通泰という医師が、兵士からその時の様子を聞いて絵に描いたところ、その話が巡り巡って尾高惇忠のところへ伝わり、それがきっかけとなって平九郎が切腹の際に使った脇差しが渋沢家に戻されたという。これは明治二十六年の話らしい。

 ちなみに尾高長七郎は前述の通り、明治元年十一月十八日に下手計村の実家で病死した。長期の投獄によって衰弱しきっていた長七郎は、出獄後ほどなく病死したのだった。長七郎の墓はのちに栄一が建てた。


 渋沢家、尾高家に関する後日談は以上である。
 また、五代友厚、寺島宗則、伊藤博文といった明治の政財界で活躍した人物の話は、既にそこそこ有名な話なのでここでは割愛する。
 あとは、根岸友山、清水卯三郎、モンブラン、フランスお政のことに少しだけ言及しておきたい。


根岸友山
 維新後の活動としては特にこれといって目立ったものはない。友山はこの維新の年、すでに六十歳である。根岸家も跡取りの武香に譲っており、明治二十三年に八十二歳で亡くなるまで、悠々自適に暮らしたといったところである。ちなみに息子の武香は地元の大地主として県会議員や国会議員になり、広く政治に関与した。
 友山はこの戊辰の年の八月に「旧幕府の関東取締役、渋谷鷲郎を匿った」として新政府に逮捕された。渋谷鷲郎は出流山(いずるさん)で竹内(ひらく)たちを討伐した幕府軍の指揮官で、しかも反幕府思想が強かった友山がそんなことをするはずがない。完全な濡れ衣であり、当然ながらほどなく釈放された。またこの年、友山は『吐血論』を書いた。その中で神国日本を強調し、神道重視の観点から徳川家や新選組を激しく批判した。友山が「近藤勇という者は思慮もない痴人(ちじん)なり」と近藤を批判したのは本編で見た通りである。友山はその後も神道の啓蒙運動を続け、神道の普及につとめた。

清水卯三郎
 パリ万博のあとアメリカ見物へ行き、それから卯三郎が日本へ帰国したのはちょうど上野の彰義隊が騒がしかった五月のことである。そして帰国後も卯三郎は新しい物に次々と目を向け、活版印刷や書籍の出版などの仕事をするようになった。また近代的な歯科医療の機械を輸入し、歯科医療の書籍も出版した。
 ちなみに卯三郎は「ひらがな論者」だった。今でこそこういった「ひらがな論」は愚策と見られがちだが、当時の漢文の書物は「言文一致体」ではなかったので誰でも書物を読めるわけではなかった。それで当時は多くの識者が言文一致の「ひらがな論」を唱えていたのである。
 そして卯三郎は明治五年二月に「日本で万国博覧会を開催すべし」という建白書を明治政府に提出した。むろん、パリ万博を見たことによってこの計画に思い至ったのである。その建白書では詳細に計画案が記され、卯三郎自身が責任者となって国の役に立ちたい、と申し出ている。が、「時期尚早」として政府から却下された。以後、日本で万博が開催されるのは、昭和十五年の東京万博が延期されたあと、昭和四十五年の大阪万博が開催された時のことで、卯三郎が建白してから百年近く後のことである。

モンブラン
 神戸事件や堺事件さらにパークス襲撃事件といった一連の外国人襲撃事件の事態解決に尽力し(これらの事件については筆者の前作『伊藤とサトウ』で詳しく書いた)、そのあとモンブランはフルーリ・エラールに代わってパリ駐在の日本総領事となるように新政府から任命された。そして1869年12月(明治二年十一月)薩摩の若者である前田正名(まさな)(のち、明治時代の農業政策や殖産興業に大いに取り組む人物)などを連れて横浜を出発し、フランスへ向かった。そして翌年の春にパリへ着くと斎藤健次郎も住んでいたティヴォリ街のモンブラン家に入り、そこを日本総領事館と定めた。
 ところがそれからほどなく、1870年7月(明治三年六月)に普仏戦争が始まった。モンブランや前田はパリで普仏戦争を体験し、プロシア軍によって包囲されたパリで食糧不足に見舞われたこともあった。パリ市民たちはネズミまで獲って食べたという。
 そしてフランスの敗戦後、新しく日本から鮫島尚信(なおのぶ)(以前の薩摩スチューデントの一人)が日本の外交代表としてパリに赴任してくるとモンブランは解任となった。以後、モンブランはパリで日本学の研究会の会長になるなど日本文化の愛好者として活動したようだが、彼のその後の消息についてはあまり記録が残っていない。1894年、パリで亡くなった。享年六十一。

フランスお政
 長崎から上海へ渡ったあと、上海でもラシャメン稼業を営んだという噂だが、その後の消息はまったく不明である。当時上海へ渡った日本人が上海の水にあたって死亡するケースが時々あったようなので、おそらく、お政もそんなところだったのではないだろうか。

<終>
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