第30話 1867年のパリ万博(後編)

文字数 11,925文字

 前回は幕府と薩摩の政治闘争ばかりに注目したが、そろそろパリ万博そのものについても、その中身をいろいろと見ていきたい。

 世界で最初に万博が開催されたのはロンドンで、これより十六年前(1851年)のことだった。その後ロンドンでは1862年に二回目の万博が開催され、その時はたまたま日本の竹内使節が万博を見学することになった。しかし日本は公式参加をしていなかったため、駐日イギリス公使のオールコックが独自に日本から送ったわずかな展示物が紹介されたに過ぎなかった。
 パリでの万博は1855年に初めて開催され、今回が二度目のパリ万博である。そして今回、日本は初めて公式に参加することになった。

 余談ながら「博覧会」という日本語はこのパリ万博から使われるようになったらしい。
 竹内使節がロンドンで万博を見ていた頃は「展観場」「エクセルビジョン」などと呼んでおり、何か定まった呼び名があった訳ではなかった。まあそれを言えば、現在使われている経済、自由、文明、哲学などと言った言葉の多くは明治になってから福沢諭吉や西(あまね)などが作った言葉であり(西洋の概念を翻訳して作った言葉であり、それがのちに中国などの漢字文化圏にも逆輸出された)、こういった言葉を大河ドラマや時代劇および時代小説でセリフとして使うのは本来誤りなのだが、そのようなわざわざ自分の墓穴を掘るような話はさておき、幕府がこのパリ万博に参加する準備をしている際にカションが栗本(こん)に「“エキスポジション”は何と訳すべきなのか?」と尋ねたところ、栗本は「天下の物品を広く(博く)人々に見せるものであれば“博覧会”と訳すべきである」と答えてこの言葉が使われるようになった、と少なくとも栗本は後年、そのように述べている。

 パリ万博は、現在のエッフェル塔のあるあたりで開催されていた。むろん当時はまだエッフェル塔はない。現在のシャン・ド・マルス公園のあたりに直径約五百メートル、横幅約四百メートルの楕円(だえん)形の建物が建てられ、そこで各国の展示物が紹介されていた。そしてその周囲ではシャン・ド・マルス、すなわち練兵場(れんぺいじょう)だった広場を利用して様々な催しが行なわれていた。
 篤太夫(とくだゆう)が書いた『航西日記』には展示の様子が次のように書かれている。
「あまりにも展示物が多すぎてヨーロッパ人でも一週間はかけないと見つくすことはできず、ましてや学問や科学に関わる展示物についてはその根本原理の知識がなければ理解不能である。私は外国語が分からず学識も無く、しかも仕事や付き合いがあったので数日しか見ることができず、まったくもって神仙境で夢や幻を見ているような心地だった」
 なにしろこの当時は、その最後の年とはいえ、まだ江戸時代なのである。その江戸時代の人間である篤太夫の目からみれば、万博で紹介されていた蒸気機関、電気、機械、大砲などの文明の利器、さらに生物化学や芸術などの分野も含めたそれらの展示物は、まさに「想像を絶する奇観」としか思えなかったであろう。

 展示スペースの半分はフランスが占め、次いでイギリスが六分の一、さらにプロシア、ベルギー、オーストリア、ロシア、アメリカ、イタリア、オランダ、スイスなどがそれぞれ展示スペースを割り当てられ、東洋からは日本、清国、タイの三ヶ国が参加し、比較的小さめのスペースが割り当てられた。
 日本の展示物に関しては、再び篤太夫の『航西日記』から引用して紹介するが、これはフランスの新聞記事を翻訳したものらしい。
「アジア、アフリカのような遠い国からわざわざ博覧会に参加するためやって来るのは、フランスにとって名誉なことである。全アジアの中でもっとも整理され、もっとも華やかな産物はもちろん日本であった。その産物を集めて、これをフランスへ送ってきたのだった。その品物は、小箱、鏡の付いた銀や象牙細工の小家具、青銅器、磁器、玻璃器(はりき)、日本では(こと)に珍しく貴人以外は持つことができない卵殻(らんかく)という磁器、よく鍛錬された刀を収めた銅または木材で作られた(さや)、天然の水晶で細工した玉、日本婦人の美しさを想像させるような人形、その他すべて、ヨーロッパの好事家(こうずか)を誘惑するようないろいろな玩具、家具として使う蒔絵(まきえ)漆器(しっき)。この漆器にはあたかも彫刻でもしたかのように(うるし)を盛りあげて模様が描かれており、まことに高価なものである」
 現代のマンガやアニメなどにも続く「ジャポニスム」、それは特に美術、芸術の分野でゴッホ、モネ、ルノワールなどに影響を与えたことで有名だが、その源流はこのパリ万博における日本の展示物にあった、とも言われている。

 日本独自の文化として海外でもてはやされるのが「ムスメ(娘)」や「ゲイシャ」である、というのは今も昔もさして変わらないようで、このパリ万博における日本の「展示物」としてもっとも人気を集めたのは三人の芸者がいた水茶屋だった。もちろん、これは清水卯三郎が手配した水茶屋である。

 卯三郎は通常の展示物の手配も請け負っていたが、独自にこういった水茶屋の催しを企画していたのだった。(ひのき)の木材を日本から運んでいって万博会場の一角に水茶屋を建てさせ、そこに、かね、すみ、さと、という三人の芸者を置いたのである。
 再度、篤太夫の『航西日記』から引用する。
「この茶屋は全体が(ひのき)造りで、六畳敷きに土間を添え、便所もあって、もっぱら清潔を旨とし、土間では茶を煎じ、味醂(みりん)酒などを(たくわ)え、もとめに応じてこれを供している。庭の中の休憩所に腰掛けを設け、(かたわ)らには観賞用の(いき)人形が置かれている。座敷には、かね、すみ、さと、という三人の妙齢の女性が閑雅(かんが)な様子で座っており、皆に観賞されている。その衣服や装飾品が西洋人にとって風変わりで、しかも東洋の婦人が西洋に渡ったのは未曾有(みぞう)のことなので、西洋人はこれを子細に見ようとして、縁側の近くに立ちならび、眼鏡もつかって熟視している。座敷は畳敷きなので彼らはこの上にあがることができない。それゆえ、芸者たちに近づくことはできないが、蟻が群がるように絶え間なく観衆が集まり、後ろにいるものはなかなか見ることができず、実際見られなかった者も少なくないという。ある良家の少女が母と一緒にやって来て、芸者から衣服を借りて試着してみたところ、ついにはその衣服を買いたいと言い出したそうである。物好きな連中が多く、驚くべきことである」

 このパリ万博における卯三郎の水茶屋を紹介する本では必ず使用されるネタとして、小説『カルメン』(オペラの『カルメン』の原作)の作者であるプロスペル・メリメが女友達に送った手紙の話を、一応ここでも紹介しておきたいと思う。以下『ある女への手紙』(岩波文庫、訳・江口清)より引用する。
「先日は博覧会へ参りまして、そこで日本の女を見ましたが、たいへん気に入りました。彼女たちは、牛乳いりのコーヒーのような肌をしていまして、それが見た目になかなかいいのです。彼女たちの着ている服の線から判断するに、彼女たちは椅子の棒のような細い脚をしているらしく、それが痛ましく思われました。彼女たちをとりまいている物見高い連中といっしょになって眺めながら、わたしはヨーロッパの女が日本の群衆の前に出たとしたら、こうまで落ちつきはらってはいられまいと考えました。いつか、あなたが江戸でこんなふうにみせものにされ、薩摩公の町人風情が、“あの女の着物の後にある(こぶ)は、たしかにほんものの瘤かどうか知りたいものだ”などと言っているところを想像してごらんなさい。瘤については、そんなものなんか全然ありゃしないのです。これは、瘤なんかなかった何よりの証拠で、いったい女というものは、そのときに応じて流行に従っているものですからね」

 この水茶屋の様子はイギリスの『ザ・イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』やフランスの『ル・モンド・イリュストレ』でイラストが紹介された。また写真としては、日本カメラ博物館に所蔵されている「かね、すみ、さと、と言われる写真」を筆者は見たことがある。
 この当時ロンドンに留学していた幕府留学生の中に川路聖謨(としあきら)の孫で川路太郎という青年がいた。彼もロンドンからパリへやって来て万博を見学したのだが、この水茶屋を見た時の記録を残している。以下『慶応二年幕府イギリス留学生』(新人物往来社、宮永孝)より川路の記録を引用する。
「座敷には種々の日本の品物を並べ、その(かたわ)らに三人の日本婦人が座せり。これは御国の商人清水卯三郎連れ来りしものなり。(しか)(はなは)醜婦(しゅうふ)(不美人)のみ、少しく恥に近し。(しか)し金縫の振袖を着し美しく(よそお)へり」
 パリ万博に関する別の本を見ると「写真を見ると三人ともなかなかの美人で」と書かれているものもあるのだが、これはまあ、美しいか美しくないか、ということについては結局のところ人の好みにもよるので何とも言いようがない。筆者が見た写真の印象では「それぞれ多少丸顔で、ふとましい感じはするものの、醜婦という程ではない」といった感じである。

 ちなみにこういった茶店を出していたのは日本だけではなく、トルコ・コーヒーを飲ませるチュニジアのカフェなどもあり、他に清国のパビリオンでも三人の若い娘がいる茶店を出していた。この清国の茶店のことは篤太夫の『航西日記』にも載っており、娘の名前も記載されている。また「仏人の目論見(もくろみ)にて支那(しな)(清国)の形容を摸擬し」て、三人の娘を連れてきた、と『航西日記』には書いてある。
 駐日イギリス公使館にいたウィリアム・ウィリスはこの前年、故郷へ宛てた手紙で次のように書いている。以下、『ある英人医師の幕末維新』(中央公論社、ヒュー・コータッツィ、訳・中須賀哲朗)より引用する。
「何人かの日本のお茶屋の娘がパリ万国博覧会に出席し、そこで日本風のお茶屋を開設するそうです。フランス公使館の書記官はイエズス会士で、琉球諸島で以前に宣教師をしていて日本語を覚えたのですが、これらの若い日本の婦人を商業的投機としてパリに送ったのも、この男にほかならないと思います。というのは、上海のお茶屋が失敗したために彼は大損をし、お祈りよりもお金のほうにずっと愛着があるという風聞(ふうぶん)がひろまっているからです」
 ウィリスが耳にした風聞の信憑性は不明だが、このイエズス会士というのは間違いなくカションのことだ。そして篤太夫の『航西日記』にも「仏人の目論見にて支那の形容を摸擬し」とある。パリ万博における日本と清国の茶店にカションがどれほど関与していたかは謎だが、カションが卯三郎に助言していた可能性も考えられる。もしウィリスの推測が当たっていたとしたら、カションは神父の身でありながらムスメ(娘)で商売をしようとしていたことになる。カションは横浜で“メリンスお梶”という愛人を抱えていたというし、まったくもってとんだ破戒僧(はかいそう)だ、と言うべきであろう。

 それはともかく、この卯三郎の水茶屋は高く評価され、ナポレオン三世から銀メダルを授与された。そのメダルの表にはナポレオン三世の横顔が、裏側には「OUSABOURO」と名前が彫られていた。また日本の出品物では養蚕(ようさん)、漆器、美術工芸品、和紙などが最高のグランプリを獲得し、昭武はナポレオン三世からメダルなどを授与された。




 万博会場以外にも目を向けると、昭武たちはパリに着いて以降、あちこちに出向いて見聞を広めていた。
 昭武は連日、各国の王族、貴族、政府高官などに招待されて催しに参加し、また兵器庫や裁判所、上下水道などを見学して回った。これらの見学には篤太夫が付いていく場合もあった。
 またブローニュの森にあるロンシャン競馬場でパリ大賞典のレースを観賞したりもした。
 ちなみにその四日後には同じブローニュの森で六万人の兵を動員した閲兵式(えっぺいしき)が行なわれ、各国の王族、貴族、政府高官が参集し、昭武も従者と共に参列した。この時は篤太夫も随行することになった。
 ところがこの閲兵式の終了後、招待された王族たちが馬車で帰途についた時にロシア皇帝アレクサンドル二世がピストルを持った暴漢に銃撃された。が、弾は馬の鼻に当たって銃撃は失敗した。ただし馬の鼻からまき散らされた血がロシア皇帝にかかって、あたかも銃弾が当たったかのように見え、一時現場は騒然となったという。犯人はすぐにその場で取り押さえられた。ロシアに恨みをもつポーランド青年が犯人だった。

 六月には日本の松井源水(げんすい)浜碇(はまいかり)定吉(さだきち)といった芸人たちがアメリカ経由でパリへやって来た。松井源水の一座はコマ回しや手品(紙で作った多くの蝶々を扇であおいで本物が飛んでいるように見せる手品など)を得意とし、浜碇定吉の一座は足芸(よく分からないが寝そべって足で梯子(はしご)を操り、その梯子の上で別の人間が軽業を行なう芸?)と、やはりコマ回しや手品を得意とする芸人一座だったようだ。彼らは見事な芸を披露して欧米でなかなかの人気者となった。浜碇はアメリカで大統領と会見して握手もしていた。
 この二つの一座の興行を昭武も観賞した。そして昭武は彼らに多額のご祝儀(しゅうぎ)を与え、そのことがフランスの新聞で「これほど多額の祝儀を与えるということは、彼らは日本政府お抱えの一座であるに違いない」と報じられた。

 いや。単に経済感覚が欠如していただけのことだろう。
 当時の武士は「金銭に頓着(とんちゃく)してはならぬ」「金銭は汚いもの」という、およそ現代の我々からは想像もつかない金銭感覚だったのだ。それで彼らは出し惜しみせず、おおいに散財した。
 確かにある意味それは太っ腹で、清々(すがすが)しい感覚と言えないこともない。もしそれが「自分で稼いだ金」であったとすればの話だが。しかしこの場合、彼らが使っている金は「税金」なのである。彼らはその「税金」を自分の金であるかの如く、躊躇(ちゅうちょ)なく散財していたのだ。
 そのため昭武一行はたちまち資金不足に陥り、一行は二ヶ月滞在したグランドホテルから借家へ転居することになった。こんな超高級ホテルに二ヶ月も長逗留(ながとうりゅう)していれば、そりゃ資金不足にもなるだろう。それが分かっていたから、篤太夫などは最初から借家住まいを実行していたのだった。

 そして昭武一行が転居する借家も篤太夫が探すことになった。
 ブローニュの森に近いペルゴレーズ街というところにロシア人貴族の未亡人が住んでおり、その館が要望に近いということで篤太夫は通訳の山内文次郎と一緒に下見に行った。
 そして家賃の話となり、篤太夫は未亡人が提示してきた金額が少し高すぎると思って値下げの交渉をするよう通訳の山内に言ったところ、山内は「そんな失礼なことは言えない」と言い張って、いくら篤太夫が「いや、これは真っ当な商取引だから失礼ではない」と説明しても聞き入れず、外国人の前で口論するわけにもいかないのでこの日は交渉を打ち切ってそのまま帰った。それで翌日、同じ山内は山内でも山内六三郎を通訳として連れて行って、ようやく値下げ交渉は成功した。

 彼ら武士たちの金銭感覚は一事が万事この調子で、もし篤太夫がこの使節にいなかったらあっという間に財政破綻していただろう。
 というか、篤太夫がいたにもかかわらず、この使節は財政破綻に向かって一直線に突き進んでいたのである。

「フランスから六百万ドルを借りて軍事力を整え、薩長を討伐して幕府による中央集権、すなわち藩を潰して郡県制を(廃藩置県を)おこなう」
 という話を小栗上野介(こうずけのすけ)が勝海舟にした、という有名な逸話がある。逸話を作ったのはもちろん勝海舟で、ホラ吹きの勝の話は幾分割り引いて聞く必要はあるとしても、こういった「フランスから金を借りる(借款(しゃっかん)契約を結ぶ)」という計画があったことは事実らしい。しかし結局この借款計画は失敗に終わった。

 理由はいろいろとある。
 まず一番大きいのは、この当時、前年の1866年から「全世界的に不況に陥っていた」ということである。その前年の1865年にアメリカの南北戦争が終戦となったことで不況がはじまったと言われている。
「綿花の一大生産地だったアメリカで戦争が起き、世界的に綿花の価格が高騰して好景気になった。しかし終戦になって綿花の価格が下落した。それにつられて世界中がデフレ(不況)になった」
 ということらしいのだが、筆者は経済評論家ではないので詳しいことは分からない。とにかく不況になったのは事実で、この当時、横浜でジャーディン・マセソン商会に次ぐ巨大商社だったデント商会も不況のあおりで破綻した。

 こういった世界経済の不況に加えて、フランス自体が危機的状況に直面していた。
 この頃のフランスはメキシコ遠征で大失敗をしでかして外交的にも財政的にも窮地にあった。しかも前年(1866年)の普墺(ふおう)戦争で隣国のプロシアがオーストリアを破ってドイツ統一を進め、フランスを圧迫しつつあった。

 要するに「フランスには日本に金を貸してやるなどという余裕はない」のである。

 日本ではロッシュが勝手にイギリスのパークスと張り合ってはいるものの、この危機的状況にあるフランスがわざわざイギリスを敵に回すなどあり得ない話で、フランスもイギリスに歩調を合わせて「日本の内政には深く関与しない」という方針に変わりつつあった。日本に深入りして「メキシコの覆轍(ふくてつ)を踏む」のを恐れたのだ。
 その上モンブランの策謀(プロパガンダ)によってパリにおける幕府の威光は地に落ち、これがダメ押しとなった。もはやフランス政府も幕府を見放そうとしていたのである。

 という訳で、小栗がフランス郵船の副支配人クーレに相談した600万ドルとも言われる借款(しゃっかん)計画はまったく話が進んでおらず、フランス側も金を貸す気は無かった。
 実のところ向山たちは、この借款による大金をアテにしていたので気楽に散財していたのだった。「もし金が足りなくなってもフランスがいくらでも金を貸してくれるはずだから大丈夫だろう」と。

 そういった向山たちの散財に対し、フランス側はとうとうキレた。
 フルーリ・エラールとクーレ、それに昭武の教育係のヴィレット中佐が相談した結果
「あなたたちの浪費は常軌を逸している。金を出すのは我々の側であり、今後は我々の忠告を聞かなければならない」
 と向山に対して通告した。そして向山が申し込んできた十万ドルの借金もフランス側は拒絶したのである。


 篤太夫の気持ちは複雑だった。
 エラールは銀行家で、篤太夫に西洋の銀行システムや株式会社のことを教えてくれた友人だった。
 なにより「西洋では官尊民卑(かんそんみんぴ)がない」ということを身をもって教えてくれたのがエラールだった。民業家、すなわち商人のエラールが、官僚であるヴィレット中佐と対等に話しているのを見て、篤太夫はショックを受けた。
 篤太夫は十七歳の時に、岡部陣屋の代官から五百両を出すように言われて口答えしたため、武士から嘲弄(ちょうろう)され、「官尊民卑の打破」「幕府打倒」を志した人間である。エラールがヴィレット中佐と対等に付き合っているのを見てうらやましく思い、「日本も必ずこのようにならなければいけない」と強く決心したものだった。

 けれども、今の篤太夫は「岡部陣屋の代官」と同じ立場なのである。
 何とかして商人、すなわちエラール達から金を引き出さねばならないのだ。

 エラールが向山に金を出したくない気持ちはよく分かる。この武士たちの金銭感覚、というか金銭感覚の無さには身内である篤太夫でさえ、ほとほと手を焼いているのだ。
 とはいえ、このあと昭武はスイス、ベルギー、オランダ、イギリスなど欧州各国へ親善訪問する予定となっており、会計係である篤太夫としては何とかしてその費用を捻出(ねんしゅつ)しなければならなかった。

 篤太夫とエラールが相談した結果、使節団のうちの十数人を早々に日本へ帰し、昭武が欧州各国を回る際のお供も極力減らし、資金はイギリスのオリエンタル銀行から引き出す、といった方向で話を進めることになり、エラールはそのように向山に勧告した。

 ところが向山は、このエラールの勧告に猛反対した。
 向山はずっとフランス政府のことを嫌っていた。
 金は貸してくれないし、カションなどという愚劣な人物を推奨しようとしてくるし、その上モンブランの策謀を真に受けて幕府に対する態度も冷たくなった。
「徳川幕府の威光をないがしろにするとはけしからん!」
 と腹立たしい思いだった。ただしそうは言っても武士の体面を保つためには金を惜しむつもりもない。向山はエラールに対して
商人(あきんど)のくせに武士に命令するとはけしからん!」
 と言ってやりたかった。日本だったら間違いなくそうするのに、と。事実、幕府は幕長戦争で金が足りなくなった時、大坂の商人たちに命じて無理やり金を出させたのである。が、このフランスでは商人(あきんど)(エラール)が武士の言うことを聞かない。

 武士の権威が通用しないフランスでは、向山としても金主の言うことを聞くしかなかった。
 そして結局、向山は駐フランス日本公使の職を解かれ、帰国することになったのである。その向山の代わりとして栗本(こん)がフランスへやって来ることになった。また使節団の滞在費用はイギリスのオリエンタル銀行とオランダの商事会社から融通してもらえることになった。

 フランスへやって来た栗本は、ギクシャクした日仏関係の改善を試み、親友のカションにも翻訳の仕事を与えてなだめることに成功する。それ以降、カションは以前新聞に投稿した薩摩寄りの主張を撤回する記事を新聞に発表することになるのである。



 さて、ここで薩摩藩とモンブランのことについても、少し触れておきたい。
 前回書いたモンブランの活躍場面ばかりを見れば、薩摩藩はパリで幕府を窮地に追い込んだかのように見える。
 なるほど幕府が窮地に追い込まれたのは事実だが、薩摩藩が幕府を圧倒して優位に立った、というわけではなかった。

 確かに幕府はフランスからの借款を得られなかった。しかしながら、金が無いのは薩摩藩も同じだった。
 なにしろこの当時は全世界的に不況だった。薩摩藩といえども、その影響からは逃れられない。母国の薩摩では家老の小松帯刀が資金繰りに苦慮し、これまで揃えてきた蒸気船の売却を進め、ヨーロッパへ派遣していた留学生たちも続々と引き上げさせた。それと同時に、万博の展示も中途で引き上げさせた。
 そしてグラバーやオールトといった長崎の商人たちも薩摩藩から資金を回収しようとしていた。ちなみにグラバーはこの不況を乗り切ることができず、三年後には破産するのである。

 要するに薩摩藩も幕府同様、経済的に行き詰まっていたのである。
 薩摩藩と幕府の経済的な地力を考えれば、長期的には幕府のほうが有利であったかも知れない。「あのタイミングで薩摩が挙兵」したのは、こういった経済的な事情から「イチかバチかでやったのでは?」という憶測をしたくなってしまうほどである。


 そして薩摩藩とモンブランの関係にも亀裂が生じ始めていた。
 まず、以前も書いたように五代とモンブランとの間で契約した「薩摩・ベルギー商社」は薩摩側がキャンセルしてボツとなった。
 さらにこの時、薩摩使節の岩下が養蚕(ようさん)用の種の見本をモンブランのところへ持ってくる約束だったのに、岩下がその約束を反故(ほご)にした。

 実はこの頃、薩摩藩はモンブランと距離を置こうとしていたのだった。
 モンブランは、反幕府的な人物ではあるが、フランス人である。
 薩摩藩はパークスやグラバーといったイギリス人との関係が密接で、松木などはイギリス外務省とも接触しており、イギリスとの関係を重視していた。
 そこで駐日イギリス公使館は、薩摩藩がフランス人のモンブランと親密になっているのを怪しく思い、「薩摩はイギリスからフランスへと乗り換えたのか?」と追及し始めたのである。
 またイギリスに留学していた薩摩留学生たちも、当時イギリスに帰国していたグラバーからモンブランの悪い噂を聞き、鹿児島への手紙で「決してモンブランを信用してはいけない」と書くほどモンブランを嫌っていた。こういった事情から薩摩藩はモンブランと距離を置き始めていたのだった。

 けれどもモンブランは、薩摩藩との関係を切ろうとはしなかった。
 それどころか逆に、再びモンブランが訪日して、もっと積極的に薩摩を支援することにしたのである。
 モンブランは訪日の際に軍事教官や鉱山技師を連れて行くつもりだった。鉱山技師を連れて行くのは、まさに文字通り「一山当てる」つもりだったのである。

 そして健次郎も、モンブランと一緒に再び日本へ戻ることになった。



 ある日、健次郎は卯三郎の水茶屋を訪れた。水茶屋は相変わらず西洋人の見物客でにぎわっていた。
 健次郎は、水茶屋の脇で店を差配していた卯三郎に声をかけた。
「お久しぶりでございます。あの……、あなたは吉田寅之助の親戚の方ではございませんか?」
 卯三郎は見知らぬ男から寅之助の名前を聞かされて驚いた。いや、卯三郎は昔のちょんまげ姿の健次郎とは一応面識はあったが元々それほど深い付き合いがあったわけでもなく、洋服を自然と着こなしたその男が健次郎であるとは、まったく気がつかなかった。それで健次郎は、自分の素性を卯三郎に説明した。

「ああ、熊谷で寅之助と一緒に遊んでいた、あの健次郎さんですか。それにしても見違えるほど、ご立派になられましたねえ」
「寅之助は元気でやってますでしょうか?」
「寅之助はここ数年、京へ行っているので私はしばらく会っておりません。伝え聞くところでは、元気にやっているようです」
「ははあ、なるほど、京に。ところで卯三郎さんはいつごろ日本へ戻る予定ですか?」
「実はこの博覧会が終わったら、次はアメリカを見に行こうと思ってます。ですから日本へ帰るのは多分来年になるでしょう」
「そうですか。それじゃ私の方が先に日本へ戻ることになりそうですね。実は私、モンブランというフランス人と一緒に日本へ戻ることになったのです。もし卯三郎さんが先に日本へ戻るのであれば、寅之助に伝えてもらおうと思っていたのですが……」
「そうですか……。分かりました。寅之助のことを詳しく知っている人をここへ呼んで差し上げましょう。たまたま本日、幕府の展示場にその人が来てますから、今、呼びに行かせます」
 卯三郎はすぐ用紙に伝言を書いて、幕府の展示場にいる篤太夫のもとへ人を送った。

 しばらくすると篤太夫が水茶屋のところへやって来た。
 篤太夫もこの頃には洋装になっていた。ただし、まだ着慣れていないため健次郎ほど洋装が板についていない。ちなみに卯三郎は和服のままだった。

 奇しくもこの時、パリ万博の会場で、北武蔵の三人の男が顔を合わせることになったのである。

「あなたが熊谷で寅之助の幼なじみだった方ですか。私は血洗島村生まれの渋沢篤太夫です。京の一橋家では寅之助の同僚でした。彼は今、幕臣になって大坂で別手組として働いてます」
「あの攘夷家だった寅之助が幕臣になっているなんて、奇怪(きっかい)な話ですねえ」
「いやなに、私も似たようなものです。ここだけの話ですが、私は昔、寅之助と一緒に横浜を焼き討ちしようとしたこともあります」
「私が横浜にいた頃が、まさにそんな感じでしたよ。だけど、昨年私が鹿児島にいた時、とうとう横浜が焼き払われたと聞きました」
 ここで卯三郎が口を挟んだ。
「いや、あれは豚肉屋が火事になったのが燃え広がっただけで、横浜が焼き討ちされたわけではありません。幸い私は、その頃には横浜の店をたたんでいたので被害を受けずに済みましたが」
「それで、渋沢さんはいつごろ日本へ戻られるんですか?」
「分かりません。これから民部(みんぶ)(昭武)様のお供をして欧州各国を回り、そのあとは、おそらくパリで民部様の留学のお世話をすることになるでしょう。何年先の帰国になるか、見当もつきません」
「という事はやはり、この中では私が一番先に帰国することになるのか……。といっても長崎と鹿児島しか行く予定がないので、今のところ関東へ行く予定はないんですけどね。それに寅之助が大坂にいるということは、今回も会うのはちょっと難しいかな……」
「実は私もながらく関東へ帰っておらんのですよ……。あー、関東のソバが食べたいなあ。関西は、うどんは良いがソバが良くない。なにより味が薄い。パリに来てからも、醤油がなくてまったく困ってるんですよ。食卓に醤油みたいな黒い汁が置いてあったので醤油だと思って使ってみたら、味が全然違ってガッカリしました。聞けばソースとかいうらしい。フランスの食べ物は、最初は珍しくて美味しいとも感じたが、こう長くいると醤油が恋しくてたまらん。やはり日本人は醤油ですな!」
 三人とも、関東の濃口(こいくち)醬油の味を思い出して、思わずツバを飲み込んだ。



 このパリのテュイルリー宮殿で昭武がナポレオン三世に謁見していた頃、兄の将軍慶喜は大坂城で英仏蘭米の四ヶ国代表との謁見式にのぞんでいた。そして寅之助はそれを警護する任務に就いていた。

 といった事を知る由もない篤太夫は、使節の実情を幕府へ説明するために帰国する杉浦愛蔵に自分の写真を託して、血洗島村にいる妻の千代に届けてもらった。
 写真に写っていた篤太夫は、(まげ)を切ったザンギリ頭で洋装スタイルだった。

 写真を受け取った千代は、すぐにパリの篤太夫へ返事の手紙を書いた。
「なにゆえ、あなた様はこのようにあさましいお姿になられましたか。手計(てばか)村の兄上様(尾高新五郎)にとても写真をお見せできません。早く元の姿にお戻りください」
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