第21話 天下大乱の夏

文字数 7,863文字

 千葉道場の同志たちと共に筑波勢のところへ駆けつけるのか、それとも渋沢篤大夫(とくだゆう)の誘いを受けて一橋家へ行くのか、そのどちらにすべきか迷っていた寅之助は、根岸友山から「よく考えて自分一人で決断しろ」と勧告された。
 そのあと寅之助は四方寺(しほうじ)村の自宅に帰って来た。そして自分の部屋にこもって一人で熟考した。

 それからしばらくすると兄嫁の()()が部屋の外から寅之助を呼んだ。
 玄関のところに松木さんという方がお見えになっている、ということだった。それで玄関へ行ってみると、確かに松木弘安が立っていた。
「やあ、寅之助君、長い間世話になったね。江戸の藩邸から呼び出しが来たのでこれから江戸へ行くんだが、そこまで一緒に歩かないかね?」
 寅之助は熟考の最中だったので少し迷ったが
「じゃあ、せっかくだから熊谷宿まで送ります」
 と答えて、付き合うことにした。

 歩きながら松木は寅之助に聞いた。
「何かあったようだね。よかったら話してみてごらん。これまで世話になったお礼として相談に乗ろうじゃないか」
 それで寅之助は松木に、現在自分が置かれている状況について素直に話した。

「……ということです。今、私の悪い頭を使って、私なりによく考えているところです」
「ハハハ。そんなことか。いや、君にとっては生死にかかわる重大なことだ。そんなこと、などと言ってはいけないな。しかし君が言う通り、普通に考えれば一橋家の誘いを取るだろうし、私だったら迷わずそうするだろう。なぜならそうしたほうが、これからより大きな仕事が出来る、と思うからだ。……これは私が君を信じているから話すのだが、絶対内密にしてもらいたい。実は私は薩摩藩へ帰ったあと、若者を海外へ送り出す仕事をするつもりだ。これに参加する若者は将来、より大きな仕事に関わることができるだろう。だが、その機会を生かすも殺すも彼ら次第だ。剣術の友人たちと共に潔く死ぬほうを採るか、一橋家へ行ってより大きな仕事をするほうを採るか、あとは君がよく考えて結論を出すことだ」
 松木はそれだけ助言して、熊谷宿で寅之助と別れ、江戸へ向かった。

 そのあと寅之助は家に戻って再び熟考した。
 そして一晩考えて、結論を下した。



 翌日、寅之助は家を出発して、真田たちがいる浅草田島町(たじまちょう)誓願寺(せいがんじ)へ向かった。そしてさらに翌日、誓願寺に入って真田たちと合流した。
 寺には真田の他に千葉道場の旧友たちが五十名ほど集まっていた。その中には後輩の加藤もいた。

 真田は笑顔で寅之助を迎えた。
「おお、やっと来たか、寅之助。待ちわびていたぞ。これで我々の面子は全員そろった。近日中にここを出発して、筑波へ向かうとしよう」
「真田さん、実は大事な話があります。皆のいるところへ連れて行ってもらえませんか」
 真田は寅之助を塾生たちがいる境内(けいだい)へ連れて行った。

 寅之助は一同を前にして座り、それから皆へ告げた。
「皆には申し訳ないが、私は筑波行きに参加することはできない。理由は、一身上の都合、としか言えぬ。本日は皆に別れのあいさつをするため、ここに参上した」
 これを聞いて一同はざわめいた。そしてそれからすぐに怒号が飛んできた。
「臆したか!吉田!」「卑怯者め!」「恥を知れ!」
 中には「こんな裏切り者は今すぐこの場で斬り捨てるべきだ!」という声もあり、今にも斬りかかりそうな勢いの者もいた。

 すぐ隣りに座っていた真田が寅之助に聞いた。
「なぜだ?寅之助。なぜ今になってそんなことを言う?」
「申し訳ありません。私は水戸人ではない、ということです。それより真田さんこそ、皆のことをよろしく頼みます。決して彼らを無駄死にさせないでください。もし水戸の内戦が酷くなって、それに関わりたくないという者がいれば、決して無理強いせず、落としてやってください」
「何を言うか。皆、すでに死を決しているのだ。何がどうであれ、皆、最後まで戦い抜く覚悟だ。お前のような臆病者は、ここには一人もおらん」

 そこで寅之助は涙を流しながら言った。
「私も皆と一緒に死ねないのが残念です。されど、構えてお願い申し上げます。決して彼らを無駄死にさせないでください」
 この寅之助の言葉に、真田はうなずいて応えた。そして立ち上がって塾生たちに告げた。
「残念だが吉田は我々と(たもと)を分かった。だが元々吉田は、すでに千葉から離れている人間なのだから無理強いはできない。ここは大人しく立ち去らせてやってくれ」
 塾生たちはざわめいた。中には「チッ、臆病者め」と(ののし)る者もいたが、今にも寅之助に斬りかかろうとしていた者たちも、この真田の勧告を受けて抜きかけていた剣を収めることにした。

 寅之助は一同に一礼したあと境内から出て行った。しかしそのまま寺を去ることはしなかった。寅之助は寺の僧侶に頼んで、後輩の加藤を呼び出してもらった。
 加藤がやって来ると、目を丸くして寅之助に語った。
「驚きましたよ、吉田先輩。皆を前にして、よくもあんな思い切ったことを言いましたね」
「加藤。実はお前に話しておきたいことがある」
 と言って寅之助は、渋沢篤大夫から受け取った手紙を見せた。
「皆の前では、皆が激昂すると思って言わなかったが、実は京都の一橋家からこういう募集が来ている。お前は塾生たちの事情に詳しいはずだ。もし、今回の筑波行きから抜けたがっている奴がいるなら、この書状を見せてやってくれ。俺は浅草の瑞穂屋(みずほや)という店で三日間、待っている。一橋家に志願したい奴がいたら、俺のところまで来るように言ってくれ」
「なるほど。吉田先輩が筑波行きを断った理由は、これでしたか」
「やはり卑怯だと思うか?加藤は」
「私は思いませんよ。普通ならわざわざこんなところまで顔を出さずに、黙って一橋家へ行くでしょうから。ですが、塾生たちの大半は卑怯だと思うでしょうね。まあ、何人か心当たりがありますので、話すだけは話してみましょう」
「お前はどうするんだ?加藤」
「……考えておきます」

 寅之助が瑞穂屋で三日間待っているうちに、三名の千葉塾生がこっそりと寺を抜け出して寅之助のところへやって来た。しかしその中に加藤は入っていなかった。
 寅之助はこの三名を引き連れて江戸の一橋家を訪れ、篤太夫の募集に志願すると伝えた。

 ところが寅之助は、篤太夫から意外な事実を伝えられた。
「実は、京で平岡様が殺害された……」
 篤太夫は沈痛な面持ちで寅之助に言った。

 平岡円四郎は六月十六日の夜、京都で暗殺された。享年四十三。
 暗殺したのは水戸藩士の林忠五郎と江幡貞七郎であった。
「慶喜公が攘夷を実行できないのは側近の平岡が開国派だからだ。平岡が慶喜公の攘夷実行を妨げているに違いない」
 というのが暗殺の理由だった。これがまったくの誤解であることは、これまで見てきたとおりである。

 平岡は篤太夫を一橋家へ雇い入れた人物であり、さらに今回、篤太夫に関東で人選御用の仕事をするよう命じた人物でもある。
 この凶報を聞いた篤太夫は、とてつもない衝撃を受けた。そして大恩ある平岡の死に涙した。
 ただし救いだったのは平岡の後任である黒川嘉兵衛(かへえ)から「今回の人選御用の仕事をそのまま継続するように」と命じられたことだった。もし今ここで平岡の死によって梯子(はしご)を外されたのでは、寅之助たちの立つ瀬がなくなるところだった。
 とりあえず篤太夫は、関東で集めた人材を京都へ連れて帰ることにした。




 ところで、この年の夏は、天下大乱の夏だった。
 まず京都。
 前年の「八月十八日の政変」で京都から追放された長州藩はずっと再入京の許しを訴えていた。しかし池田屋事件などもあって談判は決裂した。それ以降、長州軍はぞくぞくと上京して京都郊外に陣を構えた。
 伏見、嵯峨(さが)、山崎に陣取っていた長州軍は七月十八日の夜に進軍を開始して、十九日未明から戦闘を始めた。
 世にいう「禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)」である。
 長州軍は、薩摩、会津、大垣、越前などの諸藩軍と各御門で激戦をくり広げた。が、奮戦およばず撃退され、久坂玄瑞などが戦死した。
 この戦いによって京都ではおよそ二万八千戸が焼失し、京都の中心部が焼け野原と化した。
 そして七月二十三日、朝廷から長州追討の勅命が下ったのである。



 禁門の変が発生した七月十八日は、パリで条約を結んできた池田使節が横浜に帰って来た日でもあった。
 前々回(第十九話で)書いたように、幕府は池田使節がパリで結んできた「パリ約定」を批准(ひじゅん)せず、破棄した。それは長州追討の勅命が下った七月二十三日のことだった。パリ約定では英仏蘭米の四ヶ国ではなくて、幕府とフランスが協力して下関を叩く計画だったのだが、幕府はこれを破棄したのだった。
 この条約破棄を受けて、英仏蘭米の四ヶ国艦隊は横浜を出発し、下関へ向かうことになったわけである。
 ともかくも、禁門の変に敗れた長州藩にとっては、まさに「泣きっ面に蜂」という有り様であった。

 その後、下関で長州藩と四ヶ国が戦争をした。
 いわゆる「下関戦争」である。
 十七隻の四ヶ国艦隊は八月五日の夕方、長州の下関砲台への砲撃を開始し、その多くを使用不能に陥らせた。
 翌六日、四ヶ国艦隊は約二千人の上陸部隊を下関へ上陸させ、大砲の撤去に取りかかったところ、その一部が長州軍と衝突して陸上戦に発展。その結果、お互い数十名の死傷者を出すに至った。
 この二日間で大規模な戦闘はほとんど終了した。
 この戦争は一般的に「四ヶ国側の圧勝だった」と言われているが、死傷者数では長州側47名(戦死者18名、負傷者29名)だったのに対して、四ヶ国側は72名(戦死者12名、負傷者60名)という事になっているようで、四ヶ国側のほうが多数の死傷者を出している(ただし、この数字がどこまで正しいのかは不明である。特に長州側)。とはいえ、長州藩は全砲台を占拠され、約120門の大砲をすべて撤去されたのであるから、勝敗はあきらかに長州の負けである。
 このあと、八月八日、十日、十四日の三回に分けて両者の間で講和会議が開かれ、賠償金の支払い(のちに300万ドルという破格の金額が設定され、下関などの開港との二者択一を「幕府が」迫られる)および下関海峡の非武装化が取り決められた。



 そして最後は水戸の天狗党である。
 七月初旬、筑波山にこもっていた八百人の筑波勢を攻撃するために幕府軍・諸藩軍、さらに水戸藩の市川三左衛門(さんざえもん)諸生党(しょせいとう)の軍、合わせて三千数百人の軍勢が、筑波山西方の下妻(しもつま)周辺に陣取った。
 そこで七月八日の夜、藤田小四郎ら筑波勢は下妻の幕府諸藩連合軍に対し奇襲を仕かけて連合軍を撃退した。
 この奇襲作戦の成功は筑波勢にとって大いに喜ぶべきことであったろう。だが、いろんな意味で、この成功は逆に筑波勢を窮地へと追い込む結果になった。

 敗れた市川たち諸生党は、このあと水戸へ戻って天狗派(尊王攘夷派)の家族を捕らえるなど弾圧を開始したのである。
 これを受けて筑波勢は諸生党を叩くために水戸へ向かうことになった。ただし、水戸人以外の志士たちの多くは、ここで筑波勢から脱退した。彼らは尊王攘夷、横浜鎖港を求めて筑波勢に参加したのであり、水戸の内乱に関わるつもりはなかったからである。
 七月二十五日、筑波勢は水戸に入った。そして諸生党軍と市街戦をおこなった。しかし敗れて退却した。これにより、水戸は市川たち諸生党が支配するかたちとなった。
 この自藩の内乱を鎮めるために藩主慶篤(よしあつ)の名代として支藩宍戸(ししど)藩主の松平頼徳(よりのり)が数百の兵を率いて八月四日、江戸を出発。水戸へ向かった。

 ところが皮肉なことに、これらの兵は内乱を鎮めるどころか、よりいっそう内乱を拡大させることになるのである。
 この頼徳の軍に加えて、筑波勢を説得するために遣わされていた武田耕雲斎(こううんさい)の軍までが「ミイラ取りがミイラに」なってしまい、結果的に筑波勢と合流することになって三千の兵に膨れ上がってしまった。以後、これら三千の筑波勢(天狗勢)が市川たち諸生党軍および幕府軍を相手に、那珂湊(なかみなと)などで泥沼の戦いを十月まで続けることになる。

 とはいえ、西ではすでに長州が禁門の変に敗れており、東の天狗勢が幕府軍を敵に回していつまでも戦えるはずがない。田沼意尊(おきたか)(有名な田沼意次のひ孫)が率いる幕府軍は数万の軍勢なのである。
 しかも長州はあくまで「藩」として幕府軍と戦っていたが、天狗勢は水戸「藩」ではない。むしろ水戸藩(諸生党)からも追討される立場であり、ただの叛徒(はんと)に過ぎないのである。それゆえ、幕府軍も水戸藩も、天狗勢には一切容赦せず、徹底的に攻撃を加えた。


 では、真田や千葉塾生たちはどうなったのだろうか?
 このような泥沼の状況となった天狗党の乱に進んで身を投じたのだ。悲惨な結果にならないほうがおかしいではないか。

 真田に率いられた千葉塾生約五十名は、筑波へ向かう途中、幸手(さって)宿に泊まっていた。その時、筑波へ攻撃に行く六百人の幕府軍も幸手宿に入って来た。
 千葉塾生たちを見つけた幕府軍は「不審なり」と言って彼らを尋問した。そこで真田が幕府軍の責任者のところへ出向き、適当に言いくるめたので幕府軍の尋問は無事終了した。
 と思っていたところ、翌朝、真田たちの宿は幕府軍によって包囲されていた。そして幕府軍は空へ向けて威嚇射撃を開始した。
 この危機に際して、真田は意を決して皆に告げた。
「表と裏の二手に別れて斬って出る。生きのびた者は筑波へ行け。負傷した者は自由行動を取れ」

 そして塾生たちは刀を振るって宿から斬って出た。が、この時、ここで多くの塾生が戦死した。
 寅之助の後輩の加藤もここで戦死した。
 斬り抜けた者は真田を含めた数名のみで、彼らはなんとか筑波勢に合流できた。しかし筑波勢に合流できた者も上記の泥沼の戦闘に身を投じることになり、結局、残らず戦死することになるのである。


 ちなみに、この東西の混乱に乗じて江戸を突こうと思っていた根岸友山は、最終的には決起をあきらめた。
 権田や竹内たちと相談して決起するための志士を集めていたのだが、長州が禁門の変に敗れたことを受けて
「この少人数ではとても事を成し遂げることはできず、むなしく有意の志士たちを死なせるのに忍びない。もうしばらく時を待とう」
 と志士たちに説明して、一同を解散した。
 解散した彼らは友山の言う通り、しばらく時を待った。そして三年後、そのとき彼らは本当に決起するのである。




 九月初旬、渋沢篤太夫は関東で集めた剣術家などの人材およそ五十名を引き連れて江戸を出発し、京都へ向かった。この中にはもちろん、寅之助も含まれている。
 通る道は中山道である。ゆえに、寅之助の地元である熊谷も、篤太夫の地元である深谷も通る。

 寅之助は一足先に出発して実家に帰った。家族と別れのあいさつをするためだった。
 一橋家に仕官する話を家族に告げると皆が喜んだ。「ようやく尊王攘夷の志士をやめて、まともな働き口に勤めることになったか」と。
 それから兄が寅之助に聞いた。
「それで、お多恵ちゃんはどうするんだ?」
「むろん、連れてはいけません」

 結局、こういうことになった。
 一橋慶喜はこの当時、将軍後見職を辞して禁裏(きんり)御守衛(ごしゅえい)総督(そうとく)および摂海(せっかい)防禦(ぼうぎょ)指揮(しき)の任についていた。そのため、禁門の変でも禁裏御守衛総督として長州軍と戦った。
 ただし慶喜の一橋家は、十万石格といえども大名ではないので(将軍家の家族みたいなものなので)兵の備えがほとんどなかった。これでは禁裏御守衛総督の大任が果たせない。それで一橋家の兵備を整えるために今回、篤太夫が江戸で兵員を募集したのである。要するに寅之助は「一橋家の私兵」となるために志願したわけである。
 末端の兵士であるのだから、当座のところ、それほどの給金は出ない。自分一人が食べていくのがやっとだ。

 しかしながら、お多恵を連れていかない一番の理由は、そこではない。
 まず、何よりも末端の兵士である以上、危険は常につきまとっている。天狗党の乱に参加するほどではないにしても「明日の命の保証がない」ということでは同じである。
 そしてそれ以上に、一番問題なのは「京都は危険だから」ということである。
 かつては長州などの尊攘派による「天誅」が横行し、今度は逆に長州などの尊攘派を掃討(そうとう)するために新選組による取り締まりが強化されている。京都というのはそれほど治安の悪い場所であり、さらに言えば、禁門の変で京都の中心部が丸焼けとなったように、京都は常に政争の中心であり、戦争やテロの標的なのである。
 そんなところに嫁や家族を連れていけるはずがない。
 事実、篤太夫ですら、嫁の千代や娘の()()を京都へ連れて行かないのだ。

 もし寅之助が数年後、一橋兵の隊長に昇進して、そのうえ京都の政情も落ち着くようになればお多恵を嫁として迎えることができるかも知れない。
 けれどもお多恵は今、十九歳である。数年後となれば二十をゆうに超えることになる。この当時であれば十分「行き遅れ」と言える年齢だ。

 そこまで待たせることはできない、と寅之助は思った。
 それで寅之助はこの帰郷の際、お多恵にも会うことにした。
 この前、あのように大言を吐いておきながら結局(いくさ)(天狗党の乱)にも行かず、生きのびてしまった。そのため再び顔を合わせるのは非常にバツが悪いのだが、どうしても最後に会って、言っておきたかった。

 寅之助は下奈良村の市右衛門家へ行って、お多恵に会った。
「こうして生き恥をさらし、再びお前に会うのは汗顔(かんがん)(いた)りだが、俺は京へ行くことになった。おそらく長く向こうにいることになるだろう。京のような危険なところへお前を連れては行けぬ。また、これ以上お前を待たせるわけにもいかぬ。だから、やはりこの前言った通り、別の男に嫁いで、幸せになってくれ」
「寅殿が生きておられただけでも私は嬉しく思います。生きてさえいえば、いつかまたきっと会えます。私は寅殿を待ちます」
 これで二人は別れた。

 そのあと寅之助は熊谷で篤太夫たちと合流した。
 そして篤太夫は篤太夫で、深谷宿、というかその隣りの岡部の陣屋でひと悶着(もんちゃく)あった。
 深谷宿で泊まった日に篤太夫は、その近くの宿根(しゅくね)というところで嫁の千代と娘の()()と面会した。わざわざこのような形で密会したのは、このころ地元岡部藩の役人は渋沢篤太夫や尾高新五郎のことを「天狗党に味方する悪人」とみなしており、篤太夫が実家に戻りづらかったからだ。

 岡部藩や岡部の陣屋については第五話で紹介したように、篤太夫が十七歳の時に五百両の御用金を命じられて嘲弄(ちょうろう)された相手が、まさにこの岡部藩の役人である。
 実際、この少し前に新五郎と弟の平九郎は「天狗党に味方した」という罪で数日間、岡部の陣屋に捕らわれてしまったことがあった。結局は何も証拠がなかったので無罪放免となったのだが、渋沢家と尾高家は事程(ことほど)左様(さよう)に、岡部藩から目の(かたき)とされていたのだった。五百両の御用金の時と同じく「渋沢家も尾高家も百姓のくせに、生意気な奴だ」という軽侮(けいぶ)の念が岡部藩の役人にはあったのだ。
 それでこの時も、篤太夫が岡部の陣屋の前を通ると聞いて、役人が篤太夫を捕まえようとした。
 ところが、篤太夫は一橋家の家臣として立派な格好をして、しかも寅之助たち五十人の剣士たちを堂々と引き連れていたので、岡部藩は篤太夫にまったく手を出すことができなかった。

 寅之助や篤太夫たちが京都に着いたのは九月中旬のことである。
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