第34話 大暗転

文字数 12,491文字



 幕府による江戸の薩摩藩邸焼き討ちがあったのは慶応三年(1867年)十二月二十五日のことで、その情報が大坂に届いたのは三日後の二十八日のことだった。

 この二十日ほど前に王政復古のクーデターがあった時も、当時二条城にいた幕府軍は今にも御所の薩摩勢に攻めかからん勢いだったが、その時は慶喜がなんとか抑えきった。
 けれども今回の薩摩藩邸焼き討ちは、そうはいかなかった。

 江戸の幕閣が怒りを爆発させたのと同様に、大坂の幕閣も堪忍袋の緒が切れたのだった。
 事実、江戸ではすでに薩摩と戦争を始めており、江戸の幕閣から
「こちらに(なら)って大坂でも、ただちに薩摩と開戦せよ!」
 と督促してきたに等しかった。

 江戸では敢然と薩摩に兵を挙げたのに、大坂では尻込みする、などといった臆病な態度は武士として許されない。
 大坂城内では幕臣たちが慶喜に対して薩摩との開戦を迫り、あまつさえ
「おそれながら上様を刺して脱走してでも、薩摩討伐に向かう!」
 といった声さえ聞かれるようになった。

 ひたすら戦争を避けてきた慶喜としても、これでは抑えきれなかった。
 慶喜は渋々ながら薩摩討伐を許可した。



 そうこうしているうちに大晦日も暮れて、卯年から辰年となった。
 すなわち慶応四年、戊辰の年が明けたのである。

 正月一日、慶喜は「討薩(とうさつ)(ひょう)」に署名して、幕府軍の京都進撃を裁可した。
 討薩の表とは、朝廷に対して
「王政復古の政変は朝廷の真意ではなく、薩摩藩の奸臣(かんしん)(西郷と大久保)の陰謀であることは明白で、特に江戸での無法行為は許しがたく、この奸臣どもをお渡しくださらない場合は、やむを得ず我々の手で誅戮(ちゅうりく)を加えます」
 といった内容のもので、幕府による薩摩討伐の決意を述べたものである。

 幕府軍が大坂に下向して以降、京坂間、特に大坂周辺の要地には既にそれぞれ幕府軍が配備されていたが、それらの兵も含めて、幕府軍は年明けから続々と大坂を出陣して京都へ向かった。
 幕府軍は京都攻略の拠点として淀城と伏見奉行所の二ヶ所を定めた。
 淀城からは鳥羽街道を北上して進軍し、伏見奉行所からは伏見街道あるいは竹田街道を北上して進軍する。

 世にいう「鳥羽伏見の戦い」の始まりである。



 大坂にいた寅之助は、薩摩藩邸焼き討ちの情報が届いてからの事態の推移があまりにも急激すぎて、戸惑っていた。
 まさに「一触即発」という言葉を形に示したような有り様だった。
 あれよあれよという内に薩摩討伐が決定され、数千の幕府軍が京都へ向かって出陣することになったのだ。

 大晦日(おおみそか)や正月の気分を味わっている余裕など、とてもない。
 ただし別手組に所属する寅之助はこの頃、玉造門(たまつくりもん)近くのイギリス公使館で警備の任についており、幕府軍の出陣に直接関わることはなかった。

 しかし一月二日、寅之助は警備の仕事もそこそこできりあげ、幕府軍の出陣の様子を見に行った。
 そして、かつて苦楽を共にした松吉たち農兵部隊の連中が出陣していくのを、切ない気持ちで見送った。
(なぜ俺は、彼らと一緒に行けないんだ……)
 せめて出陣の前に彼らと言葉を交わしたかったのだが、それをする暇さえ無かったのが残念だった。寅之助は、陰ながら彼らの武運長久を祈るしかなかった。



 松吉の部隊はこの日、淀城に入って一晩を過ごした。
 明けて一月三日。松吉たちは淀城から出陣して鳥羽街道を北上することになった。

 この鳥羽街道の幕府軍を率いるのは滝川具挙(ともたか)播磨守(はりまのかみ))である。
 有名な戦国武将、滝川一益(かずます)の一族に繋がる人物であるらしい。が、武人というよりも、どちらかと言うと外国奉行などの文人畑を歩んできた官僚タイプの人物である。少なくとも戦争の指揮をとるような人物ではなく、事実、その職分でもなかった。

 幕府軍の最高司令官は陸軍奉行の竹中重固(しげかた)丹後守(たんごのかみ))である。
 奇しくも、と言うべきか、この人物も有名な戦国時代の軍師、竹中半兵衛の縁者であるらしい。そして実際、竹中は全軍を指揮する立場の人物でもあった。にもかかわらず、竹中は滝川のような文人官僚に鳥羽方面の軍を率いらせてしまったのだった。その理由は不明である。だが、おそらく竹中も滝川も
(この圧倒的な幕府軍に対して、まさか薩摩も(いくさ)を仕かけてはくるまい。万一仕かけてくるとしても、入京してからのことだろう)
 とでも思っていたのだろう。
 戦力面でいえば、幕府軍は総勢およそ一万五千人である。それに対し薩長軍は五千人しかおらず、三倍の戦力差があった。

 慶喜も署名した討薩の表は滝川の懐中にある。滝川の役目は、この討薩の表を京都の朝廷へ提出することであり、戦をすることではなかった。
(この圧倒的な幕府軍の威圧と、さらに徳川家のご威光があれば、薩摩も黙って入京を許すに違いない)
 と滝川は思い込んでいたのである。

 実はこの日の午前、幕府軍は一度、京都の近くまで進んでいた。見廻組(みまわりぐみ)の四百名が偵察隊として鳥羽街道を北上し、鴨川にかかる小枝橋を渡ってその先まで進んでいたのだ。ちなみにこの見廻組は、清河や龍馬の暗殺に関わった佐々木只三郎が率いており、剣や槍などを得意とする白兵戦専門の部隊で銃を持っていなかった。そして彼らがその先へ進んで行くと、この鳥羽方面を守っていた薩摩軍が銃を構えて道をふさぎ、彼らに引き返すよう迫った。それでやむを得ず、佐々木たち見廻組は道を引き返したのだった。

 思わぬ妨害を受けて、滝川は驚いた。しかしそれでもなお、薩摩が幕府に手向かうとは考えなかった。
 そして今度は滝川が全軍を率いて鳥羽街道を北上していった。
 当然、その軍勢の中には松吉たちもいた。幕府軍は見廻組を先鋒にすえて縦隊で進軍し、松吉たち歩兵部隊は見廻組に続くかたちで進んでいった。

 ところが今度は小枝橋を渡る手前で早々に薩摩軍が立ちはだかり、幕府軍の進軍を止めた。そこは赤池という土地だった。
 ここで滝川が薩摩軍の隊長と談判をおこなった。しかし薩摩側は頑として道を譲らず、押し問答が続けられた。
 季節は真冬である。すぐに日が沈みはじめ、夕暮れとなった。

(もう日も暮れてしまうし、これじゃあ今日は入京できそうにないな……。一旦淀城へ引き返して、また明日以降、あらためて入京を試みることになるんだろう……)
 と隊列の中にいた松吉は思った。

 滝川と薩摩側との話し合いはようやく終わったようだった。

 それから滝川は幕府軍の隊列に戻って来た。そして
「全軍、ただちに京へ向かって前進せよ!」
 と命令した。

 命令を聞いて、松吉は驚愕した。
(強行突破するつもりなのか!しかしそれだったら、せめて我々に銃の弾込めぐらい、させりゃあ良いじゃないか!)
 と松吉は不安に思ったが、滝川は兵士の銃に弾込めもさせず、無防備な縦隊のまま突き進ませた。

 この時、薩摩陣営からラッパの音が鳴り響いた。
 と同時に、薩摩軍は大砲と鉄砲の一斉射撃を開始し、鳥羽街道に轟音が鳴り響いた。

 薩摩軍はあらかじめ、こっそりと幕府軍を取り囲むように兵の散開を済ませており、無防備な縦隊のまま鳥羽街道にならんでいた幕府軍の兵士たちは、薩摩軍の銃砲によって次々となぎ倒された。
 しかもこの時、薩摩軍の砲弾が幕府軍の前衛にあった大砲を直撃して吹き飛ばした。その爆発に、滝川の乗った馬が驚いて後続部隊に向かって暴走し、不意打ちをくらって混乱していた状況に拍車をかけるかたちになった。

 このあと、最前線にいた見廻組が何度か斬り込みを仕かけては次々と銃弾に倒されていった。が、この犠牲が貴重な時間稼ぎとなり、幕府軍もようやく反撃態勢を整えた。以後、幕府軍もそれなりに踏みとどまって戦い続けたのだが、すぐに日が沈んで夜となり、戦闘は一旦収まった。そして多数の死傷者を出した幕府軍は、いったん下鳥羽(しもとば)まで後退した。

 さらにこの夜、伏見方面でも戦闘が始まり、幕府軍では会津藩や新選組が奮闘したものの最終的には薩長軍に伏見奉行所を焼かれ、幕府軍は中書島(ちゅうしょじま)のほうへ後退した。

 結局、この開戦初日の戦闘は、薩長側の優勢を印象づけるかたちとなった。


 その勢いは、翌四日の戦闘にも持ち越された。
 鳥羽方面では一時薩摩軍を撃退する場面も作ったものの、結局はじりじりと幕府軍が淀方面へ後退させられるかたちとなった。
 一方、伏見方面でも幕府軍の劣勢が続き、最高司令官の竹中が軍議のためにいったん淀城へ戻ったのを「総大将が退却した」と勘違いした兵士たちがいっせいに退却してしまうといった失策もあり、こちらも淀方面への後退を余儀なくされた。



 大坂にいた寅之助は戦争の様子が気がかりで、戦場からの情報を今か今かと待ちわびていた。もちろんそれは寅之助だけではなく、寅之助の周りにいた幕臣たちも皆同じ気持ちだった。
 ところが入ってくる情報は、(かんば)しくない戦況報告ばかりだった。

 五日には、なんと「淀城が敵の手に落ち、淀からも退却した」と聞かされた。噂によると「淀藩(稲葉家)が幕府軍の入城を拒んだ」ということだった。
 そして六日。「橋本(石清水八幡宮のあたり)・山崎(秀吉と光秀の合戦があった所)からも幕府軍は撤退した。山崎にいた藤堂軍(津藩)が寝返ったせいだ」という情報が届いた。

 情報だけではない。
 この頃になると幕府軍の敗北が目に見えるかたちで大坂に届くようになった。
 東北の方向に煙が上がっているのが大坂からも見えた。おそらく枚方(ひらかた)あたりで火の手があがっているようだった。
 そして負傷兵を満載した川船が、前日以上に、この日はもっと多数、大坂へ下ってきた。さらに夜に入ると、退却してきた兵士たちが次々と大坂へ戻ってきた。

(まったく、あり得べからざる出来事が京坂間で起きている)
 というのが大坂にいた寅之助たち幕臣の(いつわ)らざる気持ちだった。
 京都の薩長軍に、幕府軍を撃退するほどの戦力などあるはずがない。おみくじで数回続けて大凶を引くぐらいの不運でもなければ、こんな事は起こり得るはずがない。
 が、それと同時に寅之助は
(松吉たちは無事だろうか……)
 と居ても立っても居られない不安な気持ちにおそわれた。



 この頃、大坂城内の幕臣たちの間では
「なんの、一度敗れたといっても、まだこの難攻不落の大坂城がある。しばらく籠城していれば海軍が江戸から援軍を運んでくるはずだ。勝負はまだまだこれからだ!」
「いや。それより、まだ後詰めの兵も十分にある。これを従えて上様が直々に御出馬なされば、籠城するまでもない。一気に薩長の軍勢を押し返してくれようぞ!」
 といった幕臣たちの願望がしきりと語られるようになっていた。

 いや、それは願望ではなくて現実となった。
 慶喜は自分が出馬する意向を家臣たちに伝えたのである。
 居並ぶ家臣たちの前で慶喜は
「これより予が直々に出馬して薩長の賊どもを成敗する!たとえ千騎が一騎になろうとも退くべからず。この城が焼け落ちようとも、死をもって守るべし。もしここで敗れても、江戸にいる忠義の者どもが必ず我らの志を継いでくれるであろう。もし江戸が敗れても、まだ水戸がある。最後の最後まで皆一丸となって戦い抜こうぞ!」
 と大演説をぶったので、将兵たちは皆おおいに奮い立ち、感涙にむせた。

 思えば一年半ほど前にも、幕長戦争で苦戦していた幕府軍が反撃を試みようとした際、慶喜はこれと似たような演説をして将兵たちを奮い立たせたことがあった。
 人の心をつかむ演説が得意なのである。その点、慶喜には大いに「政治家」としての素質はあったと言える。
 民衆の心を掌握して「上手く(だま)す」ことが、「政治家」に求められる資質であろう。

 慶喜は見事に将兵を騙し、その夜のうちに大坂城から消えた。
 城を脱出する時に、門を守っていた衛兵から誰何(すいか)された際にも
「我々は上様の御小姓である。御小姓の役目を交代したので城を出るのだ」
 と、これまた見事な嘘で衛兵を騙し、まんまと城外へ出た。ずる賢さでは天下一品である。
 そのあと慶喜は板倉、容保、定敬などの側近を引き連れて八軒屋の船着場から船に乗り、大坂湾にいる開陽丸へと向かった。
 そして開陽丸に乗ると、さっさと江戸へ逃走してしまった。

 すでに戦場では薩長側に「錦の御旗」が出ていた。

 水戸の生まれで、しかも有栖川宮家の血を引く慶喜は「朝敵」の汚名が歴史に残ることを、何よりも恐れた。
「将軍が将兵をだまして自分だけ城から逃げ去る」
 という汚名が歴史に残るよりも、それを恐れたのだった。



 翌朝を迎えるまでに、この慶喜の逃走は全軍の知るところとなった。
 当然の結果として、幕府軍は全軍瓦解(がかい)状態となった。
 徳川家の御大将が会津藩主や桑名藩主を引き連れて城から逃亡したのである。
 幕臣、会津藩士、桑名藩士、これら全員が城を捨てる決心をしたのも、無理はなかった。

 この日の早朝、渋沢成一郎(せいいちろう)が馬に乗って戦場から大坂城へ戻ってきた。成一郎は、かつて喜作と呼ばれていた渋沢篤太夫の従兄である。
 成一郎はあれ以降、篤太夫と同じく幕臣となり、軍の士官になっていた。そのため、この鳥羽伏見の戦いでも戦場を駆け巡り、何度も銃弾の下をくぐっていた。実際、陣羽織には弾丸の跡が数ヶ所あり、右足は負傷していた。このとき戦場から戻ってきたのは、夜のうちに枚方の幕府軍へ伝令を伝えに行き、今しがた戻ってきたところだった。

 成一郎は城門をくぐると馬を降り、それから急ぎ足で城内へ進んでいった。
 そしてそこでバッタリ、寅之助と出会った。
「おお、ちょうどよかった、吉田君。一つ尋ねたいのだが、今さっき良からぬ噂を聞いた。昨夜、上様が城をお立ち退きになったという噂だ。そういう風聞が今、城内で流行(はや)っているのか?」
「いいえ、渋沢さん。それは風聞ではなくて事実です。すでに御用部屋も御座の間も、もぬけの殻です。上様は昨夜、ご側近を引き連れて城をお立ち退きになりました。なんでも、船で江戸へ向かわれたのだと聞きました」
「嘘だ!」
「皆が最初はそう言います。信じられない話でしょうが、まぎれもない事実です」
「なぜだ?なぜ上様はそのようなことをされたのだ?」
「分かりません。おそらく誰にも分からないでしょう。むしろ、上様のお近くにずっと仕えていた渋沢さんのほうが、上様のお考えをご存知なんじゃないですか?」
「いや、そんな話はまったくなさっておられなかった。江戸へ帰って再起なさるおつもりなのだろうか?」
「ふふん。江戸で再起する気があるのなら、大坂城をあっさりと捨てたり、我々を置き去りにはしないでしょうよ。……今から思えば、あの方は一橋公の頃から、ずっとこうだった。いつも(いくさ)から逃げていた。ただの臆病者だったんですよ、あの方は」
「吉田君!上様に対して、そのような言い方は無礼だぞ!」
「だけど渋沢さん。私は戦場に出なかったから、まだこの程度で許せますが、あなたはここ数日ずっと戦場を駆け回っていたのでしょう?上様が逃亡したことへの怒りは、あなたのほうが私よりずっと強いはずです」
「ああああー!!!」
 と突然成一郎は叫び出し、号泣した。



 このあと寅之助は別手組の仕事に戻り、玉造門のすぐ近くにあるイギリス公使館へ行った。
 そこではイギリス公使館員たちが退去手続きに取りかかっていた。すでに大坂城周辺の各国公使館には幕府から
「もはや幕府は外国人を保護することができないので、各自が身を守るために適切な処置をとってもらいたい」
 と通告がなされており、戦場になることが予想される大坂城周辺からすべての外国人が脱出しようとしていた。脱出先は自国の軍艦、あるいは川口(現、大阪市西区川口)の外国人居留地である。
 なにしろ敵、すなわち薩長軍がいつ大坂へ攻めてくるか分からない状況なのだ。それゆえ外国人たちはこの日、慌ただしく脱出を開始した。
 イギリス公使館員たちは朝早くから書類などの荷物を次々と川船に積み込んで、退去作業に取りかかっていた。

 寅之助もその作業を手伝った。そしてその現場で、サトウ専属の別手組に所属する正木松次郎という男と話す機会があり、この異常事態について少し語り合った。
「ほう。吉田さんも関東の人か。じゃあ、これから皆と一緒に東帰することになるな」
「正木さんは東帰しないんですか?」
「もちろん、いずれは東帰することになるさ。でも、しばらくは戻らないんじゃないかな」
「まるで他人事のような言い方ですね」
「我々はサトウ殿の専属だからな。彼がこっちに残ると言えば残るし、帰ると言えば帰る。むろん帰る場合はイギリスの軍艦で帰るのだ。でも彼はもうしばらくこっちにいそうだから、多分すぐには戻らないと思う。ただそれだけのことだ」
「江戸へお戻りになった上様の後を追わないんですか?私などは元々百姓で、にわかの幕臣だからそんな気にもなりませんけど、正木さんのところは累代のお旗本でしょう?」
「旗本の兄上がどうされるかは存ぜぬが、俺は総領(そうりょう)(長男)でもないから好きにするさ。考えてもみたまえ。今や上様は朝敵になってしまわれたのだ。その上様の後を追うということは『朝敵の味方をする』ということだ。実際、すべての幕臣はそうせざるを得ないだろう。だが、俺は幸いにもサトウ殿の部下だ。言うなればイギリス公使館の一員だ。幕府からも薩長からも中立な立場にある。そんな訳でせっかくだから、もうしばらくは模様眺めをさせてもらうさ。君もイギリス公使館員と一緒にいたほうが安全だから、そうしたらどうだ?」
「我々は専属というわけでもないから、そうはいかないと思いますけど……」
「サトウ殿に申し出れば良いじゃないか。君は彼の知り合いで、彼から専属の誘いもあったのだろう?」
「ええ、まあ……」
「まだこの先どうなるか分からないが、おそらく上様よりも(みかど)中心の世の中になるだろう。もし帝の臣下になれるとしたら、幕臣でいるよりもずっと良いと思わないか?」
「……」




 こうして寅之助がイギリス公使館の退去作業を手伝っていると、かつて一橋家の農兵部隊で一緒だった弥助という男が寅之助のところへやって来た。
 弥助は幕府歩兵の西洋式軍服を着ており、いかにもついさっきまで戦場を駆け回ってきたという汚れと傷が、体全体に目立っていた。
「おお、無事帰ってきたか、弥助!」
「はあ、私はなんとか……。ですが、松吉が……」
 と言いながら弥助は、手に握った髪の毛の(たば)を寅之助に差し出した。

「松吉の遺髪です」
「!」
 寅之助は絶句した。
 その直後に、とめどなく涙がこぼれ出た。

 弥助は寅之助に、松吉の最期の様子を語った。
 松吉は開戦初日の戦いで薩摩軍が放った銃弾を体にうけていた。その時、すぐ近くにいた戦友の弥助が、松吉の最期をみとったのだった。

 松吉は最期に
「遺髪を吉田先生へ……。それから家族へ届けて……。仇を頼む……」
 と述べて息絶えた。

 弥助は松吉の遺言通り、松吉の髷を切り取って懐へ入れ、それをなんとか持ち帰ってきたのだった。

 それから弥助は続けて言った。
 松吉の他にも多くの農兵が戦死しました。我々は江戸へは行かず、このまま井原(いばら)村へ帰ります。上様は一橋公の頃からの御領主様ですが、我々戦場で戦った者に一言も声をかけずに、しかも自分が逃げるために兵士をだまして置いていくような御大将には、とてもついていけません。
 そう言って、弥助は去って行った。

 寅之助は松吉の遺髪を握りしめて絶叫した。
「松吉ー!」




 この時、大坂城は破局を迎えようとしていた。
 このおよそ二百五十年前、秀頼と淀殿が城を枕に討ち死にした時のような悲壮感はなく、また、その落城の際に起こったどさくさ紛れの落花(らっか)狼藉(ろうぜき)なども見られなかったものの、「御大将が将兵を(だま)して真っ先に遁走(とんそう)する」という前代未聞の珍現象をうけて、皆、腰が抜けたように三々五々、城を脱出していった。他の城ならともかく、天下に名だたる大坂城の落城場面としては(はなは)だ見苦しく、「皆で放り出して我先に逃げた」という無様な終わり方である。

 敗残兵たちの逃走経路はいろいろだった。
 とりあえず紀州(和歌山)藩へ逃れた者。これが一番多かった。御三家の紀州藩は幕府側だったので一旦ここへ落ちのび、それから船で江戸へ向かった。
 富士山丸や順動丸などの幕府軍艦に乗って江戸へ逃れた者。ただし軍艦には一万人からの兵士全員は乗り切れない。近藤勇たち新選組は運良くこれに乗れた。
 これら以外に、歩いて江戸を目指した者もいた。

 また例外的にいったん神戸へ逃れた者もいた。
 ここで外国船を手配して、それに乗って江戸を目指したのである。柴田剛中(たけなか)や福地源一郎など外国奉行で働いていた幕臣は、この方法をとった。

 そしてほとんどの外国人も、いったん神戸へ逃れた。戦争に巻き込まれるのを避けるためである。
 そのため、イギリス公使館員に付き添っていた寅之助も、いったん神戸に入った。それは一月十日のことだった。
 すでにその前日には長州兵が大坂城に入って城の受け取りを終えていた。しかしその際、幕府側と長州側のどちらが火を付けたのか不明だが、城内で大火災が発生し、主要な建物はこの時ほとんど焼け落ちてしまった。



 寅之助は神戸へ移ってからすぐに、松吉の遺髪を妻のお幸へ届けるため京都へ向かった。
 もちろん幕臣の格好をしていては京都へ入れないので、百姓の身なりに変装して西国街道を進んで行った。

 そして寅之助が神戸を出た直後に「神戸事件」が起きた。一月十一日のことである。

 神戸にある三宮(さんのみや)神社のあたりで備前(岡山)藩兵と外国人との間にいさかいがあり、それをきっかけとして両者が発砲し合った事件である。ただし小競り合いに終わったので死者は発生しなかった。とはいえ、外国人側はこの事件を問題視して海兵隊による軍事占領をおこない、さらに神戸に停泊していた日本側の船舶五隻を拿捕(だほ)した(※宣伝みたいで恐縮だが、筆者の前作『伊藤とサトウ』の終盤、第31話「神戸事件」で詳細に解説してある)。

 この事件は
「幕府を倒した薩長新政府が今後、外国人をどのように取り扱うのか?」
 それが試される試金石となるのである。



 一方、京都へ向かった寅之助はお幸の家を訪問した。
 寅之助は人と会うのに、これほど心苦しい気持ちになったことはかつて一度も無かった。自分が松吉と一緒に戦場へ出ていたのならまだしも、そうではないのである。そして何を言っても、もう松吉は二度と戻ってこないのだ。

 寅之助から、そのことを告げられるとお幸は、黙ったままただ涙を流しつづけた。
 そして寅之助も涙を流しながら、ただ黙って頭を下げつづけた。
 その脇で、まだ満二歳にもならない松吉の息子寅太郎は、何も分からない様子で無邪気に二人を見つめていた。



 このあと寅之助はいったん神戸へ戻った。
 いっそ京都へ行ったついでにそのまま江戸へ向かっても良かったのだが、ひょっとすると神戸から船で江戸へ帰れるかも知れないし、それに一応、別手組の一員としてのけじめもあるので、とりあえず再び西国街道を下っていったん神戸へ帰ってきたのだった。

 ところが神戸へ戻ってくると、出発した時とは打って変わって外国人が神戸を軍事占領していた。
 けれども、日本の軍隊が近づかない限り特に問題はなく、一般の住民が神戸へ入ることは可能だった。それで百姓の身なりをした寅之助も普通に神戸へ入った。

 寅之助が神戸の町を歩いていると偶然、見覚えのある外国人を見かけた。
 三ヶ月前に長崎で会った、あのフランス人のモンブランだった。

 モンブランはあの後、五代との共謀によって入手した春日丸(元の名前はキャンスー号)に乗って鹿児島へ行き、そこでしばらく滞在したあと、鳥羽伏見の戦いが始まる直前に、五代と一緒に船で神戸へやって来たのだった。

 モンブランが望んだ通り、日本の内戦は薩摩が勝利した。
 倒幕戦争が始まる前から薩摩に肩入れしていた有力な外国人を二人挙げるとすれば、イギリス人のアーネスト・サトウと、このフランス人のモンブランということになるであろう。

 そのためこの二人は、このとき起こった神戸事件でも薩長新政府と外国人との関係を取り持つ役目を担っていたのだった。薩摩藩の庇護(ひご)下にあったモンブランは五代や寺島などと一緒に諸外国への対応策を協議し、一方サトウは外国側の窓口として五代や寺島との交渉を受けもつ立場にあった。
 そしてもちろん、五代と寺島は薩摩藩を代表する外国通であり、発足したばかりの薩長新政府でも外国との交渉を担当する役職に就いていた。それゆえ神戸事件の交渉も、この二人が担当するのである。

 このとき寅之助は、友人の斎藤健次郎のことを確認したいと思い、モンブランに話しかけた。モンブランは一応、片言だが日本語を話すことができる。
 百姓の身なりをした寅之助から突然話しかけられたモンブランは最初、少し怪訝(けげん)な表情を見せたが、長崎でお政や健次郎と一緒だった男だと寅之助が説明すると、ようやく思い出してくれた。

「それで、通訳の健次郎も一緒にこちらへ来ているのですか?」
 と寅之助が尋ねると、モンブランの表情は急に真っ青になった。
 そしてしばらく沈黙があって、それからようやく返事をした。

「あなた、確か健次郎の友人だな……。健次郎、この前、海に落ちて死んだ……。私、とても悲しい……」
 これを聞いて寅之助は
「ええっ?!!」
 と叫んだあと、あまりの驚きで二の句が継げなかった。

 そのあとモンブランはフランス語と日本語をごちゃ混ぜにした言葉を何やら寅之助に話しかけたものの、意味が不明領で、しかも寅之助の頭も混乱していたのでよく理解できず、呆然と立ち尽くすだけだった。
 そしてしばらくすると、モンブランはその場から去っていった。



 この日の夜、五代と寺島が神戸のイギリス領事館を訪問し、サトウと神戸事件の善後策を話し合っていた。

 その三人が話し合っている会議室に、いきなりドアを開けて寅之助が入ってきた。
 三人が驚いてドアのほうを見ると、寅之助が無言のまま仁王立ちしていた。寅之助の身なりは既に別手組の姿に戻っていた。
「なんだ、寅之助か。ノックもせずに入ってくるとは無礼じゃないか。ここは君が来るところじゃない。さっさと出て行きたまえ」
 とサトウが強い口調で言った。すると寅之助が答えた。
「そこの二人に話がある」
「君は何をずうずうしいことを言っているんだ。今、我々は大切な仕事の話をしているところなんだ。部外者はさっさと出て行きなさい」

「外国人には関係ない!」

 と寅之助は大声で叫び、腰の刀に手を回した。
 サトウたち三人はドキッとした。
 が、寅之助は腰の大小を取り外して、サトウに差し出した。
「これをサトウさんに預ける。俺が差していると俺自身、何をするか分からんからな。頼む。少しだけ俺に時間をくれ」

 そこで寺島が言った。
「サトウさん。悪いが少しだけ彼に話をさせてやってくれ。我々も彼のことを知っている。彼は我々に、何か大事な話があるようだ」
 するとサトウは、軽く呆れたポーズをとりながらも
「分かった。じゃあ少しだけ外に出ている」
 と言って部屋を出て行こうとした。そして寅之助の横を通り過ぎる時に
「寅之助。決して暴力をふるってはいけないぞ」
 と言い、サトウは寅之助の二刀を抱えて部屋を出た。

 寅之助は、ついさっきまでサトウが座っていた席に座って、五代と寺島に向かい合った。
 寅之助は五代に尋ねた。
「先ほどモンブランから聞いたのだが、健次郎が海に落ちて死んだというのは本当か?」
「ああ、そのことか……。残念ながら、それは本当だ。彼は一月(ひとつき)ほど前、奄美大島へ向かう途中、事故で船から落ちて亡くなったのだ。まったく気の毒なことだった」
「本当に事故なのか?」
「何を言ってるんだ、君は?それ以外にどんな理由があるというのだ?」
「俺が長崎を去る間際に、俺と健次郎が刺客に襲われかけたことがあった。その刺客は薩摩人だった。そして狙いは俺じゃなくて健次郎のほうだった。事故で海に落ちたというのは嘘だろう?薩摩が健次郎を殺したのではないのか?」

 これを受けて五代は一変して驚いた表情になり、苦笑いをしながら
「ふっ、君ィ……、何をバカなことを……」
 と言いかけたが、寅之助が凄まじい殺気を放ちつつ鬼気迫る表情で五代をにらんだため、五代も言葉に詰まった。すると、五代の表情はみるみるうちに真っ赤に変わり、席を立って叫んだ。
(おい)の知ったことではなか!」
 そう言い捨てて、五代は足早に部屋を出て行こうとした。すると寅之助が
「待て!話はまだ終わっていない!」
 と叫んで、五代をつかまえようとしたところ、寺島が
「待ちたまえ!寅之助君」
 と言って寅之助を引き止めた。そして五代はそのまま部屋から出て行った。

 寺島は続けて言った。
「五代君が斎藤健次郎を殺したわけではない」
「殺したわけではない?」
「いや、君の想像の通り、我が藩が斎藤君を殺したのだ。君と斎藤君の関係は五代君から聞いていた。だが、これだけは信じてくれ。五代君が殺害を命じたわけではない。藩の上層部が決めたことだ。確かに斎藤君は我が藩の機密を外部に漏らしていたらしい。我が藩は機密の管理に(こと)のほか厳しいのだ。だからと言って、君には納得できんだろうが……」

 ガツン!
 と寅之助は拳を机に叩きつけて、悔し涙を流した。
(健次郎……。せっかく薩摩への士官が(かな)って喜んでいたのに、その薩摩に海で殺されるとは、さぞかし無念だったろう……)

 それから寅之助は顔を上げて、ぶっきらぼうに言った。
「聞きたかったことはそれだけだ。じゃあ、俺は帰る」
 そう言って寅之助が無造作にドアの方へ向かおうとすると、寺島が呼び止めた。
「待ちたまえ、寅之助君。君はこれからどうするつもりなんだ?君はもともと幕府に忠義立てするような立場でもなかっただろう?まさか我々と戦うつもりなんじゃないだろうな?」
 これを聞いて寅之助の足はピタッと止まった。寺島は寅之助の背後から、続けて語りかけた。
「聞けば君はサトウ君とも懇意で、イギリス公使館付きの別手組に所属しているそうじゃないか。だったら鳥羽伏見にも行ってなかったのだろう?私も五代君も、君の吉田家に助けられた恩義を忘れてはいない。君がこのままイギリス公使館付きとして残れるよう、我々が口添えすることも可能だ」

 寅之助は寺島の方を振り向いて、薄ら笑いを浮かべながら答えた。
「それじゃあ、地下であいつらに顔を合わせられないのさ」

 寺島は
「そうか……」
 としか答えられなかった。
 そして寅之助は部屋から出て行った。


 部屋を出るとサトウが寅之助の刀を持って立っていた。
 寅之助は
「わがままを言って済まなかった」
 と礼を述べて、サトウから刀を返してもらった。
「寅之助、これからどこへ行くつもりなんだ……?」

 寅之助は答えた。
「江戸だ」
 サトウは目を丸くした。

「さらばだ。サトウ」
 そう言って寅之助は去って行った。
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