第38話 彰義隊戦争(上野戦争)

文字数 10,249文字

 上野の山で彰義隊と新政府軍が戦ったのは五月十五日のことである。

 五月十五日というと一見「春頃かな?」と思ってしまうかも知れないが、さにあらず。
 この日は西暦に直すと7月4日だ。すなわち「梅雨」の時期である。
 通常、旧暦を西暦に直すと大体一ヶ月のズレが生じるものだが、この時は二ヶ月近いズレがある。それは、この先月が「(うるう)四月」で閏月を入れたばかりだった(要するに四月が二回あった)ために、このように西暦と大きくズレているのである。

 が、そんな話はさておき、とにかく梅雨ということでこの日も雨が降っていた。というよりも、ここ最近は毎日のように雨が降り続いていた。梅雨なのだから当たり前といえば当たり前だが、諸々の記録を見てもこの頃の江戸は非常に雨が多かったらしく、(くだん)の塚原渋柿園(じゅうしえん)も『明治元年』の中で「無政府状態の江戸で強盗や泥棒が多かった割に、火事の被害が少なかったのはそのころ雨が多かったからだろう」と述べている。

 いわゆる江戸無血開城によって江戸を無傷で手に入れた新政府としては
「彰義隊を砲火によって撃滅したいが、火災の延焼で江戸を焼いてしまう事は避けたい」
 と考えていたので、この雨は実におあつらえ向きだった。これで遠慮せず彰義隊に砲火をあびせることができる、と作戦を統括する大村は胸をなでおろしたことだろう。砲火をくらう側はたまったものではないが。

 新政府軍はこの二日前、上野攻撃に従軍する諸藩へ攻撃準備の命令を出し、前日には彰義隊に対し宣戦布告を送りつけ、また寛永寺には輪王寺宮に退去するよう警告した。さらに周辺住民にも事前に十五日の攻撃を触れ書きで伝えて退去を促した。

 この新政府軍の断固たる姿勢を受け、一時は三千人から四千人と言われた彰義隊は、十五日の当日には千人ほどに減ってしまった。前回書いた通り、この頃の彰義隊は寄せ集めの集団にすぎず、軍隊としての秩序や規律は崩壊しており、命が惜しい者はさっさと逃げてしまったのだ。

 その一方、輪王寺宮や義観などはそのまま寛永寺に留まった。諸藩へ檄文をばらまくほど反新政府を煽っていた義観としては引くに引けない状態だったのだろう。それとも新政府軍の布告をただの脅しと取ったか、あるいは万一攻撃されるとしても小規模な戦闘で収まり、最深部の本坊(輪王寺宮や義観がいる所。現在の国立博物館の辺り)まで被害が及ぶことはなかろう、と思ったのかも知れない。

 それでも勝海舟や山岡鉄太郎はギリギリまで彰義隊や輪王寺宮に上野からの退去を勧めた。山岡は攻撃前日の夜に彰義隊のところへ行って下山するよう説得したが、結局失敗に終わった。
 ちなみに、このころ池之端(いけのはた)(寛永寺に隣接する不忍池(しのばずのいけ)の西側)に住んで『江湖(こうこ)新聞』を出していた福地源一郎は、前日に友人から上野攻撃のことを知らされ避難するよう勧められたが「攻撃予告はただの脅しだろう。それに万一攻撃するとしても、どうせ彰義隊はすぐに皆逃げ出すだろう」とタカをくくってそのまま家で寝たところ、翌朝、いきなり砲声が鳴り響いて妻子ともども一目散に家から逃げ出すことになった。あとで帰宅すると家の壁にはいくつも弾痕(だんこん)が残っていたという。


 さて、その彰義隊。
 以前頭取だった渋沢成一郎が抜けたあと、大身(数千石)の元旗本が隊の「頭」に就くことになり、この当時は池田大隅守(おおすみのかみ)という人物が頭だった。しかし最前線で戦闘の指揮を執ることになったのは、やはり「頭並」の天野八郎だった。
 上野寛永寺には八つの門があり、その各門を彰義隊が守っていた。城でいえば南の正面入り口にある黒門(くろもん)が大手門にあたる。とはいえ、寺なのだから城のような立派な城門はない。黒く塗った木の柵があるだけである。
 その黒門をのぼった先が、現在、西郷隆盛の像が立っている山王台(さんのうだい)で、彰義隊はここに数門の大砲を据えた。そして西の谷中(やなか)門、清水門、穴稲荷(あないなり)門が城の(から)め手にあたり、さらにその外の天王寺(現在の谷中霊園の辺り)にも守備隊を置いていた。

 実際、これに対峙する新政府軍も黒門口に薩摩藩を中心とする主力部隊を投入し、西郷に指揮を執らせた。ただし作戦全体を指揮するのは長州藩の大村益次郎である。
 そして西の谷中方面には長州藩を中心とする別働隊を配置し、さらに不忍池をこえた向こう側の台地、すなわち本郷台の加賀藩邸(現在の東大の場所)に佐賀藩を中心とする部隊を置いて十数門の大砲を配備した。これらの大砲の中に、有名な「アームストロング砲」も二門含まれている。
 新政府軍の総勢は一万数千人だが、多くは上野の周囲を遠くから取り巻くように配置されており(敵が敗走した後、都心部へ侵入させないように)、上野攻撃の最前線に投入された部隊は千人とも二千人とも言い、人数で見れば彰義隊とそれほど差はない。



 そして五月十五日の朝となった。むし暑く、梅雨の雨が降り続いていた。
 七時頃、彰義隊の天野が同僚の春日(かすが)左衛門(さえもん)らと馬で山外を巡回していると根岸(山の東北の辺り。現在の鶯谷(うぐいすだに)駅の北側)で砲声を聞き、馬を駆って天王寺まで戻ると銃声が七発聞こえてきた。天野は急いで陣地へ戻り八番隊を率いて黒門口の戦闘に加わった。

 とうとう上野戦争、すなわち彰義隊戦争が始まったのである。

 黒門口では激しい銃撃戦が展開された。彰義隊は高台から撃てるため開戦当初、優勢に戦いを進めていた。
 新政府軍の黒門口の前線本部は現在の上野松坂屋の辺りにあったのだが、彰義隊が山王台に据えた大砲から激しい砲撃があり、その砲弾は新政府軍の前線本部をかすめる勢いで何発も飛んで来た。
 この山上からの攻撃によって黒門口を受けもった薩摩兵には相当な数の死傷者が出た。山岡と一緒に駿府へ行ったあの益満(ますみつ)も、どの場面で負傷したかは不明だが銃弾を受け、後日その傷が元で戦死した。

 一方、搦め手である谷中方面では銃声もまばらで、まだ本格的な戦闘は始まっていなかった。
 ここの新政府軍の主力である長州兵が加賀藩邸へ引き上げてしまっていたからである。
 というのは、長州兵は最新鋭の元込め式スナイドル銃を手渡されていたのだが、使い慣れた先込め式のミニエー銃(これも二年前の幕長戦争の時は新鋭だったのだが)とあまりにも使い方が違うため操作方法が分からず、持ち場を大村藩兵に任せて銃の使い方を習うために本営へ戻ったのだった。「泥棒を捕まえてから縄をなう」これを略して「泥縄」と言うが、この命のやり取りをしている戦場で何という悠長さか。泥縄すぎるにも程があろう。
 とにかく長州兵は銃の使い方を習ったのち再び団子坂(現在の地下鉄千駄木(せんだぎ)駅の辺り)から谷中の天王寺方面へ攻め込んだ。
 この辺りは寛永寺の外ということもあって守備は比較的手薄で、彰義隊は少し抵抗を試みたのち、ほどなく寛永寺の中へ退却した。その際、谷中の家屋が数多く火災で焼かれた。火を放ったのは新政府軍とも彰義隊とも言われている。この戦争は「火災を避けるために雨の日を選んだ」とよく言われるが、実は火災の被害がけっこう出ている。それでもまあ、江戸の広範囲を焼くほどの大火災にならなかったのは、やはり雨のおかげではあったのだろう。

 余談ながら、この谷中には現在、谷中霊園がある。そしてそこに徳川慶喜の墓と渋沢栄一の墓がある(おそらく他にも、もっといろんな有名人の墓もあるだろうが)。
 さらに谷中霊園を少し西へ下った所に山岡鉄舟(鉄太郎)が建てた全生庵(ぜんしょうあん)がある。山岡が維新戦争で(たお)れた殉難者、すなわちこの彰義隊戦争で戦死した人々を弔うために建てた寺で、山岡本人の墓の他に、知友である石坂周造、さらに同じく知友で現代落語の基礎を築いた初代三遊亭円朝の墓もある。

 さて話を戦争に戻すと、昼頃の段階では、戦況は膠着(こうちゃく)状態が続いていた。
 公平に見て、彰義隊がかなり善戦していたと言って良い。
 正直、新政府軍としても彰義隊がここまで善戦するとは思っていなかった。
 そしていよいよ新政府軍は本腰を入れて、彰義隊の撃滅に乗り出すことにした。

 まず高低差の不利を克服するため、黒門口の近くにあった雁鍋(がんなべ)松源(まつげん)という店の二階に狙撃隊を置き、山王台の敵を狙撃させた。これにより、山王台で大砲を撃っていた彰義隊の隊士たちが数多く死傷した。
 そして、この戦争における最大の見せ場としてよく扱われることがあり「彰義隊戦争と言えばアームストロング砲」みたいなイメージもあるが、アームストロング砲だけに限らず、本郷台の加賀藩邸に集中配備された十数門の大砲によって砲弾が雨あられと撃ち込まれ、山上の一番手前にある巨大な楼門「吉祥閣(きっしょうかく)」が砲弾によって燃え上がるなど山上に大きな被害がもたらされた。

 ただし、これで戦争にケリがついたという訳ではなかった。
 とは言うものの、この激しい砲撃によって彰義隊に乱れが生じたのは確かである。その乱れを突いて午後二時頃、黒門口の新政府軍が黒門を突破して山内への突入に成功した。
 この黒門口の新政府軍を指揮していた西郷が京都の大久保へ送った手紙によると「朝六時から(いくさ)が始まり、夕方五時に終わった。まことに長い戦にて大いに疲れ申し(そうろう)」とあるので、山内突入後もまだまだ戦闘は続いていた。

 実際この時、山内を馬で駆け回って彰義隊を指揮していた天野は、黒門が破られたと聞いて味方の部隊のところへすぐさま駆けつけた。そこでは負傷者が続出して危機的な状況となっていたが天野は
「ここを去って何処(いずこ)に生を欲せんとするや!すみやかに乱戦職掌(しょくしょう)を尽くして、死を潔くせよ!」
 と大声で叫んだ。
 するとこれに、元大身の旗本で大久保紀伊守(きいのかみ)という老人が応えた。
「今こそ徳川家三百年のご恩に報いる時ぞ!」
 紀伊守はそう叫ぶと百人ほどの手勢を呼び寄せた。これを受けて天野は馬から降り、紀伊守の部隊と共に決戦の場へと向かった。天野は小脇に七連発のスペンサー銃を抱えて駆け足で進んだ。そしてその前を、紀伊守が東照大権現の旗をかざして真っ先に突き進んで行った。

 が、そのとき紀伊守の頭に銃弾が当たり、彼はドッと仰向けに倒れた。これを見て百人の部隊は「うわあ」と叫んで、一人残らず一目散に逃げ去ってしまった。
 のちに天野が獄中で書いた『斃休録(へいきゅうろく)』に、このとき感じた衝撃のことを書いている。
「ここに徳川氏たるものに(また)愕然(がくぜん)たり」

 ここにようやく戦いの帰趨は決した。
 生き残った彰義隊の隊士たちは山の北側(根岸側)から逃走した。この方面は新政府軍もわざと逃げ道を開けておいたのだ。
 新政府軍としては敵を包囲して殲滅(せんめつ)戦をやった場合、逆に「窮鼠(きゅうそ)猫を嚙む」の例えの如く被害が大きくなる恐れもあり、なにも彰義隊を皆殺しにする必要などないのだからさっさと北へ敗走させて逃がしたのだ。南へ行かせないようにしたのは都心部でゲリラ戦をやられるのを避けるためである。

 この逃走の際、輪王寺宮や義観などの僧侶たちも北側から逃亡した。
 輪王寺宮は戦争が起きることをまったく知らず、この日もいつも通り朝のお勤めをしていたところ突如として戦争が始まり、宮は義観を呼びつけてこれまでのいきさつを問い質したという。
 この戦争によって寛永寺一帯の大伽藍(だいがらん)は、現在も残る清水観音堂などの一部を除いてほとんどが灰燼(かいじん)に帰した。
 砲弾によって焼かれたものもあれば、戦後、彰義隊の残兵が潜まないように新政府軍があえて火をかけて焼いたものもある。谷中の火災もそうだが、雨の日を選んだにもかかわらず、結局、寛永寺はほぼ一山丸々焦土と化してしまったのである。
 輪王寺宮と義観はのちに東北へ行ってそこでも戦争に巻き込まれ、仙台でようやく新政府軍に投降することになる。輪王寺宮は以前触れたように後年、台湾の戦役で病没することになるのだが、義観はこの翌年、獄中死する。
 この彰義隊戦争は義観のせいで起きた、と見る人も多い。確かに全部とは言わないまでも相当程度は彼の責任だった、とは言えるだろう。この義観の態度を見るにつけ、筆者はなぜか「信長の比叡山焼き討ち」を思い起こしてしまうのだ。もちろんその中身は全然違うので(同じ天台宗の叡山といえども)同列にすべき話ではないのだが「権威のある寺だから絶対に攻められるはずがない、という過信から起きた」という点では似ているのではなかろうか、と思う。

 新政府軍の死傷者は約百二十人。彰義隊の戦死者は約三百人で、負傷者はおそらくそれ以上であったろう。
 そして逃走者の捜索は厳重を極め、多くの逃走者がのちに捕まった。天野は七月に潜伏先で捕縛され、のちに獄死した。
 このあたりの逸話は『幕末百話』や『戊辰物語』にもいろいろと載っているが、多くの隊士たちは水色のぶっさき羽織を着て裾のつぼんだ義経(よしつね)(ばかま)をはき、それに朱鞘(しゅざや)の刀を差した出で立ちだったのだが、逃走する際には(まげ)も町人髷に結い直し、衣服も職人や馬丁の姿に改めて変装したものの、どうしても刀だけは捨てられず、刀を持ち歩いていることによってすぐに新政府軍から見破られたという。また戦争の三日後に捕まった男が「いやもう、この三日間は広い江戸が小箱のように狭かった」と逃走の難しさを嘆いており、「打ち首寸前だったのが恩赦(おんしゃ)によって助かった」という体験談を述べている。
 実は「敗残兵を匿った者は厳罰に処す」という触れ書きが江戸中に出ていたので、誰も彼らを匿おうとはしなかったのである。

 この体験談の中にある「打ち首」という話は決して大袈裟な話ではない。
 事実、この「戊辰戦争」を通して敗残兵の首が斬られるという事例は数多くあった。「敗残兵を捕虜として扱う」という近代の国際法的な考え方は、この当時はなかったのである。




 箱根ヶ崎(はこねがさき)にいた渋沢成一郎の振武軍(しんぶぐん)が「上野で戦争が始まった」との知らせを受けたのは、五月十五日の夜のことだった。
 前回の終わりで見たように、知らせを受けた振武軍は彰義隊の援軍として駆けつけるため、すぐに江戸へ向かって出陣した。

 言うまでもない話だが、振武軍の援軍は間に合わなかった。
 いや、間に合わないどころか、知らせを受けた時点で既に戦争は終わっていた。

 そんな事になっているとはつゆ知らず、振武軍は夜通し進軍した。そして翌十六日の朝、高円寺(現、杉並区高円寺)まで来てみると
「上野は昨日陥落し、敗れた彰義隊は四方へ逃れて散り散りとなった」
 という知らせを受けた。

 これを聞いて寅之助は
(やはり間に合わなかったか……)
 と悔しがった。他の兵士たちも皆、同様に悔しがった。

 仕方がないので田無(たなし)まで引き返して今後の方針を首脳陣が相談していると昼頃、江戸のほうから彰義隊の敗残兵たちが次々と田無へやって来た。彼らの中には腕や足を負傷して白い木綿でぐるぐる巻きにしている兵士も数多くいた。最終的には数百人の敗残兵が振武軍に合流することになった。

「どうします?兵をまとめて、いっそ破れかぶれで江戸へ攻め込みますか?それとも、いったん引き返しますか?」
 と寅之助が成一郎に聞いた。
「やはり、ここはひとまず後図(こうと)を計るため、いったん引き返すべきだろう」
「それじゃあ、とりあえずまた箱根ヶ崎へ戻りますか?」
「いや。私は以前、一橋家の人選御用で飯能(はんのう)へ行ったことがある。あそこはよく知っている土地だから、飯能まで引き上げるとしよう」
「飯能ですか」
 寅之助は飯能という土地のことをまったく知らないわけではなかった。寅之助の地元の熊谷は秩父(ちちぶ)往還(おうかん)で秩父とつながっており、飯能もまた秩父と道がつながっている。現代で言えば前者は秩父鉄道、後者は西武秩父線とほぼ同義と言っていい。
 それで寅之助は子どもの頃に家族と一緒に秩父の寺社(もう)でへ行った際など、過去に秩父経由で飯能を通ったことが数回あったが、何か特別な印象や思い入れがあったわけではなかった。その周辺の村落がほとんどそうであるように、織物や木材といった特産品があるだけの何の変哲もない静かな村である。



 ちなみにこの彰義隊戦争の結果は、寅之助たち振武軍のみならず、諸方へ大きな影響を与えることになった。

 この時、東北や北越で戦っていた奥羽越(おううえつ)列藩同盟の諸藩は、江戸の彰義隊が奮戦することを期待していた。
 また関東の諸藩も、もし彰義隊が勝つか、あるいは数日持ちこたえていれば、いくつかの藩が蜂起する可能性もあったと言われている。

 また伊豆箱根方面では房総半島から船で渡ってきた遊撃隊の人見勝太郎や伊庭(いば)八郎、さらに元請西(じょうざい)藩主の林忠崇(ただたか)などの一隊が沼津にいた。
 彼らが彰義隊戦争の勃発を知ったのは二日後の十七日のことで、やはり彼らも寅之助たちと同じく江戸へ援軍に駆けつけようとした。そして二十日、箱根の関門で小田原藩兵と戦って勝利し、箱根を管理する小田原藩を手なづけた。
 ところが数日後、小田原に新政府軍がやって来ると小田原藩兵は一転して遊撃隊へ攻めかかり、二十六日、箱根山崎(箱根湯本の少し東の辺り)で戦いとなった。この戦いは伊庭八郎の左手首が斬られた戦いとして有名である。そして遊撃隊自体も敗退して熱海へ逃れ、そこから再び船で房総半島へ戻った。以後、伊庭たちは東北、箱館へと転戦していくことになる。

 ともかくも、新政府軍が上野の彰義隊を撃滅したことで、関東一円はすっかり新政府の手に落ちた。
 鳥羽伏見の戦いによって西国の諸藩や民衆が否応なしに薩長新政府を正式な政府として認めさせられたように、彰義隊戦争によって関東一円の諸藩や民衆もまた、薩長新政府に帰服させられたのである。
 政治家がどれほど言葉を尽くしても民衆を納得させるのは難しいが、戦争という非常手段を見せつければ民衆は一発で理解するものだ。理屈よりも本能に訴えかけたほうが手っ取り早いということである。

 彰義隊は、そのための見せしめとなったのだ。
 しかも自ら進んで生贄(いけにえ)となった観すらある。
 哀れむべし、彰義隊、と言うしかない。

 そして新政府は戦争が終わってからほどなく、もとよりこのタイミングを狙いすましていたのだが
「徳川家の駿河移転。新石高は七十万石」
 という徳川家の処分を発表した。

 当然ながら、異論を唱える者は誰もいなかった。
 これが彰義隊戦争によって旧幕府に突きつけられた冷徹な結果である。



 さて、寅之助たち振武軍は二隊に別れて飯能(はんのう)へ向かった。
 本隊の成一郎や新五郎はいったん箱根ヶ崎へ戻って本営を引き払ったのち、日光脇往還を北上して扇町屋(おおぎまちや)宿(現、入間(いるま)市)に入り、そこから北西に流れている入間川を渡って飯能へ向かった。
 別働隊の寅之助や平九郎たちは田無から所沢へ行き、そこから扇町屋宿に入って本隊と合流したのち飯能へ向かった。この田無、所沢、飯能、そして秩父へ行くルートが江戸と秩父を結ぶ最短ルートで秩父往還、秩父街道、江戸秩父道などと呼ばれていた。

 それにしても、飯能へ向かう寅之助たち振武軍の足取りは重かった。
「彰義隊の援軍に間に合わなかったのは返す返すも残念だ」
 ということもあるが、上野の彰義隊が消滅したことによって関東における反新政府の足がかりを失ってしまったことが、彼らの心に重くのしかかっていたのだった。

「もはや関東では我々に勝ち目は無いのではないか?」

 そう感じている者もいないわけではなかった。けれども、それを口にする者はいなかった。
 この後の歴史を知っている後世の目からすれば、客観的な状況分析も容易な話ではあるが、この当時渦中にあった当事者からすれば先のことなど何も分からない。また入手できる情報も不確かなものばかりで、客観的な状況分析などそう簡単にできるわけがないのである。

 しかしそれ以前に、そもそもここにいる連中は「勝ち目のあるなし」を考えて集まった連中ではない。
 そんな分別のある人間なら、最初からこんな無謀な戦いに進んで参加するといったような愚かな事はしない。
 そして実際、彰義隊が負けたことによって密かに振武軍を去った者も少なくなかった。ただし上野からやって来た彰義隊の敗残兵も新たに加入したので全体で見ればいくらか人数が増えた勘定となった。上野で一度痛い目にあっていながら逃亡や潜伏を選ばず、再びここへやって来た時点でこの連中の戦意は筋金入りと見ていい。

 ハッキリ言ってしまえば、ここにいる連中は「死んでも屈服なんかしねえ!」と半ばヤケクソ気味に意地を張っている奴か、それとも死に場所を求めている奴か、またあるいは、ただ単に暴れたいと思ってやって来た奴ばかりなのである。
 が、そんな向こう見ずな奴らの集団といえども、実際に勝ち目が消えつつある現状を突きつけられると、暗い気持ちにならざるを得なかった。

 飯能へ向かう途中、中軍の頭取である寅之助が組頭の平九郎に話しかけた。
「覚悟はしていたが、とうとうこういう事態になってしまったな」
「彰義隊のことですか?」
「ああ。当事者が我が軍に加わってきているから、あまり負け戦についてとやかく言うのも気の毒だがな」
「でも彼らから聞いた話によると、西軍(新政府軍)は離れた場所から大砲ばかり撃って彰義隊を破ったっていうじゃないですか。そんな(いくさ)のやり方なんて、我が国の歴史で聞いたことがないですよ。なんて卑怯で臆病な奴らでしょう」
「だが、連中は着々と力を強めている。見くびるわけにはいかんぞ」
「大丈夫ですよ。こんな遠くまでたくさんの大砲を運んではこれないでしょうし、第一、我々が山へ入れば大砲は使えないでしょう。この辺りは山も近いし、万一退くことになっても、山にこもって戦えば勝てますよ」
「相変わらず戦意旺盛で頼もしいな、平九郎君は」
「あんな薩長賊に負けるぐらいなら死んだほうがマシですよ」
「その心意気は立派だが、あまり死に急がないでくれよ。生きてこそ敵に抵抗を続けることができる、というのもまた事実だ。第一、君に万一のことがあったら、いずれ篤太夫さんと会った時に会わす顔がない」
「我々は再び養父(ちち)に会えますかねえ」
「会えるさ、きっと」
「でも、あの養父(ちち)なら多分『万一の時は潔く戦死せよ』って言うんじゃないかなあ」
「あの人は負けず嫌いだから負け惜しみでそんなことを言うかもしれないが、本当はそこまで武張(ぶば)った性格じゃない。きっと『臨機応変にやれ』と言うんじゃないかな」
「まあ、幕府を倒そうとしていたのに幕臣になった人ですからね」
「それは俺も同じだし、成一郎さんだってそうだ。皆、以前は尊王攘夷の念に燃えていたからな」
「その尊王攘夷の志士たちが今や、朝廷から賊呼ばわりされているとは……。こんな奇怪な話は滅多にないんじゃないでしょうか」
「まず、あるわけないな」
 と、二人は自嘲(じちょう)的な笑みを浮かべながら話していたが、笑い声をあげる気にはなれなかった。



 振武軍の一団が飯能に入ったのは五月十八日のことだった。
 本営は能仁寺(のうにんじ)に置かれた。そしてここ以外にも智観寺(ちかんじ)観音寺(かんのんじ)など五つの寺に各部隊が分宿した。
 本営が置かれた能仁寺は羅漢山(らかんざん)という、現代は天覧山(てんらんざん)と呼ばれている小さな山の(ふもと)にある。
 余談だが、後に明治の末頃、有名な東大教授の林学者本多静六(せいろく)が当地へ来て「飯能遊覧地設計」という講演をおこない、それがきっかけとなってこの天覧山を中心とした飯能の観光地化が進められたという。この本多静六は、元一橋家家臣で彰義隊の幹事の一人だった本多敏三郎(としさぶろう)の娘婿である。ちなみに本多敏三郎は幹事となったあと足を痛めて彰義隊戦争や振武軍には参加しておらず、また同じく元一橋家家臣で幹事となっていた篤太夫の従弟、須永於菟之輔(おとのすけ)も、そのあと水戸へ行ったので参加していない。

 振武軍が飯能へ入ってすぐに、頭取である成一郎が例によって近在の村々に対して金穀や必要物資の供出を要請した。
 もとより村民たちがこのような要請を快く受け入れるはずはないのだが、この辺りには一橋家の領地もあり、また薩長新政府や西国人に対する反感も少なからずあったので、この振武軍に好意を抱いた人も中にはいたようである。
 とにかく村民としてはあまりに突然の出来事にうろたえるばかりで、何をどう対処していいのか判断がつきかねた。そして、まさかこの地で「金穀の供出などでは済まない事態が起こる」とは予想だにしていなかった。

 成一郎は新五郎や寅之助などの首脳陣を能仁寺に集めて、今後の方針を決めるための会議を開いた。
 なにしろ上野の彰義隊が消滅した今となっては、振武軍のような小さな勢力では新政府軍によってあっという間に打ち破られてしまうことは自明の理である。
 それゆえ「越後や会津へ行って奥羽越列藩同盟の諸藩と協力して新政府軍と戦うべきだ」という案も出た。
 寅之助はこの意見に賛同した。寅之助は薩長、特に薩摩憎しの気持ちだけで振武軍に参加しているのだから、新政府軍とちゃんと戦える戦場であればどこでも良いと思っていた。
 その他には武蔵御岳山(みたけさん)(青梅の少し奥にある山)へ陣を移す案や、江戸湾にいる榎本艦隊へ乗り移る案なども出たが、決定を見なかった。
 そして「しばらく様子を見て、事の成り行きを見極めた上で判断する」ということになり、しばらくこの飯能で力を蓄えることにしたのだった。


 しかし敵がそれほど悠長に待ってはくれなかった。
 振武軍が飯能に到着してから幾日もたたない内に、新政府軍が近くまでやって来たのである。

 そして、すでに飯能は新政府軍によって包囲されつつあった。
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