第19話 パリの池田使節団

文字数 12,836文字



 年が明け、文久四年(1864年)となった。
 それからしばらく経った二月二十日、甲子(かっし)改元(かいげん)の慣例に従って元号が元治(げんじ)に改元された。元治元年である。

 まずは京都の話から始めたい。
 渋沢栄一郎と渋沢喜作の話である。二人が昨年の暮れに京都へ来て以来、すでに数ヶ月が経っていた。
 その間、二人は予定通り伊勢神宮へ行ってみたり、京都で志士と目される人々と会ったりしていた。むろん、道中、家来の名目を許可してくれた一橋家の平岡円四郎にもあいさつに行った。
 栄一郎が故郷を出発する時、父市郎右衛門(いちろうえもん)は最後の餞別(せんべつ)として栄一郎に百両を渡した。大金である。けれども、こうして京都で数ヶ月ぶらぶらしていると、さすがに手元の金も心細くなってきた。

 そんな時に、故郷から衝撃的な手紙が届いた。
 尾高長七郎が人を斬って伝馬町の牢屋へ入れられた。しかもそのとき長七郎は、栄一郎が京都から送った手紙を懐中に持っていた、というのである。

 長七郎が人を斬ったのはまったくの異常行動だった。江戸から実家へ向かって歩いている途中、中山道の戸田のあたりですれ違いざまに飛脚風の男を斬ってしまった。何かに取り()かれたような発作的な行動だったらしい。
 そして長七郎が懐中に持っていた手紙については、もちろん栄一郎は自分自身が書いた内容をよく覚えていた。
「思っていた通り、幕府は鎖港交渉に失敗して潰れるに違いない。今こそ我々が国家のために尽くす時です。貴兄も早く京都へ来られたし」
 といった内容である。これが幕府の目に入ったとすれば、かなりマズい。

 栄一郎は故郷からの手紙を読みながら
(横浜襲撃計画の是非を論じていた際、身をていして我々を止めたあの長七郎さんが、なぜこのような事になってしまったのだ?)
 と心の中で嘆いたが、その一方で
(しかし確かに、あの論じていた時の長七郎さんは、何やら異常な号泣の仕方だった。あの時すでに、精神に異常をきたしていたのかも知れない……)
 とも思った。

 この手紙を読んで二人はしばらく絶句した。それから喜作が叫んだ。
「こんなことになるんだったら、やはりあの時、横浜襲撃を実行しておけば良かったんだ!こうなってしまっては我らの身の上も危ない!すぐに江戸へ戻って、長七郎を牢屋から救い出そう!」
「いや。いくらなんでも、我ら二人だけで長七郎さんを牢屋から救い出すのは無理だろう。今、江戸へ戻ると我々も捕まってしまうかもしれない。そうなったら、それこそ長七郎さんを救い出す手だてがなくなってしまう」
「じゃあいっそ、我々はいったん長州へ逃げるか?何人か面識のある人間もいるし」
「しかし、そう簡単に長州は受け入れてくれまい。幕府の回し者と疑われて首を斬られるかもしれんぞ」
 こうして、ああだこうだと言い合ったものの、結論は出なかった。

 そして翌朝、平岡円四郎から
「ちょっと相談したいことがあるから、すぐに来てくれ」
 という手紙が来た。

 二人はすぐに平岡のところへ行った。すると普段とは違う特別な部屋へ通された。そこで平岡は厳しい表情で二人に尋ねた。
「実は君たちに聞きたいことがあって呼んだのだが、江戸で何か計画したことがあるのなら、隠さず話してもらいたい」
「いや、何も計画したことはございません」
「だが、何かあったのだろう?実は君たちの事について、幕府から一橋家に問い合わせが来た。私は君たちの事をよく知っているから悪いようにはしない。すべて隠さず話してくれ」

 栄一郎としても、平岡が幕府の中では特別な人物で、自分が頼みとする人物でもあるのだから、この際、隠し立てしても仕方がないと観念した。
「そう言えば少し心当たりがございます。我々の身内の者が何か罪を犯して捕まった、という書状が昨日、実家から届きました」
「その捕まった者は君たちとどういう関係なのか?」
「我々と同じく攘夷を主張する者で、私の妻の兄でございます」
「しかしそれだけではあるまい。他にも何かあるのではないか?」
「実は、彼が捕まった際、その懐中に私たちが書き送った書状がございました。おそらく、幕府からの問い合わせはその件についてでございましょう」
「その書状には何と書いてあったか?」
「確かに幕政に対する批判なども書いて送りました。元より我々は、今の幕政を正さねば国が危うくなる、というのが持論ですから、そういったことも書きました。幕府はこれを(とが)めているのかも知れません」
「それはまあ、そうだろう。君たちのような攘夷家は荒っぽくていけない。まさか君たちは人を殺したり、金を奪ったりはしておるまいな?もしそうなら正直に言ってくれ。知らないと後で私が困る」
「いいえ。それは決してございません。なるほど確かに奸物を斬ろうとしたことはございますが、あいにくと、その機会がございませんでした」
「確かに相違ないか」
「相違ございません」
「それならそれでよろしい」
 こうして二人に対する平岡の尋問は終わった。

 当然のことながら、二人が一番心配していたのは「横浜襲撃計画」がバレることだった。が、そのことは、とうとう隠しおおせた。

 このあと、平岡は話を変えた。
「それで、これから君たちはどうするつもりか?」
「はあ……、実は困っております。天下を憂いて京へ出て来たものの結局我々ではどうすることもできず、あきらめかけていたところ、今また身内が故郷で捕まり実家へも帰れません。まったく進退に(きゅう)しました」
「そうか。ではこの際、攘夷の志を転じて我が一橋家の家来になってみてはどうだ?君たちが知っての通り、たとえ幕府が悪いと言っても一橋公は幕府でも特別な存在であられるから、このお方の草履(ぞうり)取りをするのであれば不足はあるまい。節を曲げて仕える気があるなら、私が尽力してやろう」

 この平岡の勧誘を受けて、二人はいったん自分たちの住み家へ戻って相談することにした。
 長州に味方する気持ちの強い喜作はこの話に反対したが、することも無くぶらぶらしているばかりで所持金も乏しく、しかも幕府から目をつけられつつある現状からすれば、この際、一橋家に仕えるのも悪くはないのではないか?と栄一郎は喜作を説得した。

 そして結局二人は、一橋家の家臣となることに決めた。

 その際、栄一郎は「もとより一橋家に仕えるために京都へ来たのではありませんから」とか、「金や居所が無くなって困った末に仕えるようになったと思われては残念ですから」とか、一旦辞退するようなそぶりを見せてから出仕した。
 要するに「最初からそのつもりだった訳ではないですからね」と言いたかったらしい。

 だが、“あの水戸の慶喜公”にお仕えしないか?と平岡から誘われた時、栄一郎は天にも昇る気持ちであっただろう。
 なにしろ栄一郎の師匠、尾高新五郎は熱烈な水戸学の信奉者であり、烈公(れっこう)斉昭(なりあき)の崇拝者でもあった。そして慶喜は、その斉昭の後継者として攘夷を実行する人物と人々から思われていた。もし慶喜がそれをできないとすれば「きっと周囲の人間が悪いのだ」と思われていたのだ(これまで見てきたように、それは完全な誤解なのだが)。それで栄一郎も、その慶喜の部下であれば喜んで出仕した、ということである。

 ただ、栄一郎としては「江戸の伝馬町に捕らわれている長七郎を助け出すためには、一橋家の後ろ盾があったほうが何かと都合が良い」という理由も、確かにあったであろうが。




 次に、話はいっきに離れたところへ飛ぶ。
 離れたところ、といっても尋常ではなく離れたところまで飛ぶ。なにしろ地球の裏側だ。

 パリである。
 昨年末に横浜を出港した池田使節団が、パリのリヨン駅に降り立ったのは三月十六日のことだった。
 横浜を出てから実に三ヶ月半もかかっている。
 念のために述べておくと、この当時、日本とヨーロッパを行き来するには大体片道二ヶ月かかった。ただしこれは中東のスエズを通った場合のことで(スエズ運河が完成するのはこの五年後である。当時は紅海と地中海を鉄道が結んでいた)、アフリカの喜望峰(きぼうほう)を回っていくと片道四ヶ月かかった。

 この池田使節団の目的は前回書いた通り「横浜鎖港を求める朝廷や攘夷派の声をそらすための時間稼ぎ」である。それゆえ彼らは途中の停泊地でのんびりと滞在しながら、スエズ経由であるにもかかわらず三ヶ月半もかけてようやくパリまでやって来た。
 まずこのフランスで横浜鎖港交渉を行ない、次にイギリス、オランダ、プロシア、ロシアなどを回って、果ては、この当時、南北戦争中のアメリカまで行って時間稼ぎをするつもりなのである。

 ヨーロッパへ日本から使節団が来るのは、これが二度目となる。
 この二年前、竹内下野守(しもつけのかみ)保徳(やすのり)を代表とした使節団が渡欧した。ヨーロッパへ日本使節がやって来たのは初めてのことで、この時は各国で盛大に歓迎された。
 ただし竹内使節の目的はただの表敬訪問ではなかった。この時も今回同様、攘夷熱によって予定通り港を開くことができず、江戸・大坂・兵庫の開市・開港を延期してもらうためにヨーロッパまで来たのだった。

 その結果、開市・開港は1868年1月1日まで(後の元号で言うと慶応三年十二月まで)延期することが各国に了承された。

 ただし、この延期を了承するにあたっては各国から厳しい条件が課された。
 その条件とは、貿易面での規制撤廃などに加えて
「日本が約束不履行の場合は即座に開市開港を要求できる」
 と規定されたのである。
 今回、池田使節が各国に求める横浜鎖港は、明らかに「日本の約束不履行」である。
 言うなれば今回の横浜鎖港交渉は、交渉を始める前から将棋で言うところの「詰み」の状態だったという訳だ。


 ここで幕末の日本とフランスの関係について、少しだけ述べておきたい。
「幕末、イギリスが薩長を、フランスが幕府を支援していた」
 と、よく言われる。しかし、事はそれほど単純ではない。
 この当時、日本駐在のフランス公使はベルクールという人物だった。
 彼は別にイギリスと対立していた訳ではない。イギリスに激しいライバル心を燃やし、イギリスと親しい薩長を毛嫌いして過度に幕府と関係を深めようとするのは、ベルクールの後任となるロッシュが日本に来てからのことである。
 そのロッシュが横浜に到着するのは、池田たちがパリに到着した七日後、すなわち三月二十二日のことで、ベルクールはその一ヶ月後、ロッシュへの引き継ぎを終えて日本を去る。
 要するに、この池田使節を日本から送り出した時点でのフランス公使はベルクールだった、ということだ。

 これは筆者の個人的な印象に過ぎないが、幕末に日本を訪れたフランス人というのは、やたらとクセの強い人間が多い。
 ベルクールという男は、その中では比較的大人しい印象ではあるものの、クセが強いという点では他と大して変わらない。日本に着任したのは五年前のことで、この当時日本にいた外交官の中では最古参の部類に入る。幕末の日仏関係を語る上では絶対に欠かせない重要人物と言っていいはずなのだが、おそらく歴史好きな人でも、ロッシュは知っていてもベルクールを知っている人は皆無であろう。が、それはともかく、この五年ちかくのあいだ日本にいたということは、ベルクールは横浜開港当初からの激しい攘夷運動をすべてその目で見てきた、ということである。

 そのベルクールが、この池田使節派遣について幕府から相談された際に
「まあ、とにかく、やってみるだけの価値はあるんじゃないですか」
 と楽観的な意見を述べた。
 他国の公使たちは皆、こんな「詰んでいる」問題を持ち出されたので「ふざけるな!」と門前払いだった。池田使節がヨーロッパへ向かう途中たまたま上海で、日本に帰任する途中のイギリス公使オールコックに出会った時も
「横浜を鎖港するどころか、約束不履行の罪でさっさと江戸・大坂・兵庫を開け!」
 と説教される始末だった。

 実はこの池田使節は横浜鎖港交渉だけが目的ではなくて「フランスに対する謝罪使節」という側面もあった。
 前年五月に下関でフランス船が長州藩から砲撃され、その直後にフランス軍艦二隻が報復攻撃したことは以前書いた。この砲撃事件についての謝罪と賠償のため、ということもあるのだが、この事件のあと、さらに横浜近郊の井土ヶ谷(いどがや)村でフランス人士官アンリ・カミュ少尉が殺害されるという事件が発生した。九月二日のことで、犯人は結局見つからなかった。

 一言で言えば、ベルクールはキレたのである。
 横浜開港以来、数々の外国人襲撃事件を目の当たりにし、下関では自国船を砲撃され、さらに井土ヶ谷村で自国民を殺された。
 そこへもってきて「フランスへ行っての横浜鎖港交渉」の相談である。
 それはまあ、キレるのも致し方ない。
 ベルクールの言動をつぶさに見ると、彼は日本に対して相当高圧的かつ威圧的な人間である。攘夷派が暴れる日本の政治状況、という特殊な背景があるにせよ、日本に対する興味や愛着などはほとんど感じられない。というよりも「こんな危険な日本からはとっととおさらばしたい」と本国政府へ転任希望を出しており、池田使節の派遣を幕府から相談されたのはロッシュとの交代が近づいていた頃だった。
 そんな訳で
(ダメに決まってるけど、やりたいんなら好きにやりな)
 という嘲弄(ちょうろう)した気分のもと、皮肉な笑みを浮かべながら
「まあ、とにかく、やってみるだけの価値はあるんじゃないですか」
 と幕府に対して投げやりな返事をしただけのことだった。
「どうせもう他国へ転任するんだし、反論するのもバカバカしい」
 と思ったに違いない。

 が、しかし、幕府はこれを「フランスの好意」と受け止めてしまった。
「他国は一切相手にしてくれなかったのに、ひょっとすると、フランスだけは横浜鎖港に応じてくれるのでは?」
 という淡い望みを抱いてしまったのである。

 以上が、パリで池田使節とフランス政府が交渉する前の背景説明、ということになる。



 池田使節の一行はリヨン駅から北西へ向かい、宿泊先となるグランドホテルに入った。
 このホテルは皇帝ナポレオン三世がいるテュイルリー宮殿の少し北のほうにある。そしてこの十一年後に、すぐ隣りにオペラ座(ガルニエ宮)が建つことになる。さらに現代になると「インターコンチネンタル・パリ・ル・グラン」という名称になる。開業したのはこの二年前のことで、六階建ての当時最高級のホテルだった。ちなみに二年前の開業時には、その直後に竹内使節一行がこのホテルに泊まっており、日本使節とは縁の浅からぬホテルである。

 使節の正使である池田長発(ながおき)、それに事務方トップの田辺太一(たいち)などはこのあと二ヶ月間、フランス外相のドルーアン・ド・リュイスと数回にわたる折衝を行なうことになる。

 一方、使節団の残りの人々は視察のため、パリの各地を見て回った。
 その団員の中に三宅復一(またいち)という青年がいた。年齢は十七歳。田辺の従者という名目で使節に加わったのだが、外交交渉などに加わることはなく、ヨーロッパの視察が主な任務である。
 有名な蘭学者、三宅艮斎(ごんさい)の息子で、身近にも有名な蘭学者(例えば清水卯三郎が学んだ佐藤泰然(たいぜん)箕作(みつくり)秋坪(しゅうへい)など)が大勢おり、蘭学・洋学界ではエリート学生と言っていい。
 田辺と同じように洋行に憧れていた三宅青年は、パリに着いて以来、日本とはまるで風習が異なり、しかも高い文明によって構築された街の様子を興奮しながら見て回っていた。

 まだパリについてから数日しか経ってないある日のこと、三宅が他の団員数名とパリの街路を歩いている時に、洋服を着た若い東洋人と遭遇した。一見したところ、その男は日本人と似ていた。そしてこちらへ近寄ってきた。
 幕府は日本人の海外渡航を禁じている。こんなところに日本人がいるわけがない。
 そう思った三宅は「多分、清国人だろう」と考え、清国人だと会話は通じないが筆談なら通じるから「紙と筆が必要だな」と反射的に思った。

 ところがその男は、何やら嬉しそうな表情をして日本語で話しかけてきた。
「はじめまして、皆さん。突然お声をおかけして申し訳ございません。私は日本人で斎藤健次郎と申します。日本人に会うのは久しぶりなので大変嬉しく思います」

 三宅はギョッとした。例えるなら、死に分かれた親類から突然声をかけられたようなものだ。本来、ここにいるはずがない、いや、いてはいけない存在なのである。
 そこで三宅は尋ねた。
「本当に日本人ですか?なぜ日本人がこんなところにいるんですか?」
「私は二年前、横浜でフランス人に誘拐されてここまで連れて来られました。ですが、ここでモンブランという偉い人に助けてもらい、それ以来、彼の従者をしているのです。モンブランは日本と日本人が大好きなのです。この度、日本の方々が来られたと聞いて、彼の代わりにごあいさつに参りました」
「斎藤さんはどちらのご出身ですか?」
「こちらではケンと呼ばれていますので、ケンとお呼びください。生まれは熊谷です。医者の息子で、日本橋本町の薬問屋で働いていたこともあります」
「へえ。じゃあ私と同じですね。私も医者の息子です。それで……ケン、さんは、日本へは帰らないおつもりですか?」
「まあ、帰りたくても帰れない、ということはお分かりのはずでしょう。帰れば厳罰に処されますから。ですが、私は幸い偉い人に助けてもらいました。フランス語も話せるようになりました。せっかくですからこのフランスで精一杯学んで、いつか日本のお役に立ちたいと思います」
 三宅は、同じ医者の息子で、しかも同じ洋学を志す若者ということで健次郎に親しみを感じた。
 それからは、三宅や他の団員たちは興味津々となって健次郎にフランスのことで質問を浴びせまくった。添乗員のいなかった団体ツアーに、いきなり現地在住の添乗員が現れたようなものだ。健次郎はそれらの質問に丁寧に答えた。そして最後に「後日、皆さんが宿泊しているグランドホテルへ伺います」と言って帰って行った。

 二年前、横浜で寅之助と別れた健次郎は、パリでモンブランの従者となっていたのだ。

 健次郎が言っていた「横浜でフランス人に誘拐されて」というのは、むろんウソである。自発的に海外へ密航した、などと言えば犯罪を自白するようなものだ。それで「不可抗力だった」と言い訳しただけのことだった。
 とにかく健次郎は寅之助と別れて以降、無事パリへやって来て、モンブランの従者となって暮らしていたのである。


 このあと一部の団員は、これまた奇妙なフランス人と出会うことになった。
 フランス語の習得を命じられていた(せき)振八(しんぱち)、矢野次郎兵衛(じろべえ)(のち、一橋大学の源流となる商法講習所の初代校長)、益田(ますだ)(たかし)(のち、三井物産初代社長。鈍翁(どんおう))などこれら数名の若者は、レオン・ド・ロニーという若いフランス人からフランス語を学ぶことになった。ロニー、この時二十七歳。
 現在、動画投稿サイトなどで時々見かける「日本マニア・日本オタク」な外国人のハシリとも言えるような存在で、独学で日本語を勉強していた。
 幕末の日本使節がパリを訪れた際には必ずと言っていいほど顔を見せており、「奇書生ロニー」として有名な男である。独身で母親と二人暮らし。しかも「家産寒貧(かんぴん)にもかかわらず勉強三昧の生活」だったという。
 前回の竹内使節の際には通訳として自発的にヨーロッパ各国まで使節について来た、という変わり者で、今、下奈良村の吉田家に潜伏している松木弘安も、その竹内使節の時にロニーと親しく交友していた。ところがその時あまりにも日本びいきであったために、今回フランス政府から「日本使節に近づいてはならん」とくぎを刺されてしまっていた。とりあえず、日本人にフランス語を教えるこの授業だけは許可されたようである。
 こうしてフランス語の授業をしているうちにロニーは、さりげなく生徒たちに語りかけた。
「モンブランという人物が使節の方々と会いたがっています。是非、彼と会ってもらえませんか?」

 それと時を同じくして、健次郎がホテルの三宅たちを訪ね
「モンブランに会っていただけませんか?」
 という話をした。

 モンブランはとにかく日本の使節と関係を作って、日本と関係する仕事がしたかったのだ。
 目的はもちろん、富と名声を得ること、である。
 以前、第八話で書いた通り、この男の興味は「富と名声と女」しかない。確かにロニー同様、日本マニアとして日本に対する学術的な興味はあるが、それよりも
「まだ誰も日本に手を付けていないから、今なら先物買いが出来る」
 という名利的な野心のほうが大きく、ロニーのような知識優先の日本マニアではない。ちなみに伯爵で城持ちのモンブランと、寒貧書生のロニーとでは立場が大きく異なるものの、パリで数少ない日本マニアの一員として二人は友人関係にある。それで今回このように、モンブランと池田使節を結びつけるためにロニーが協力しているのだった。

 これ以降、モンブランの話は池田や田辺にも伝わり、彼らもモンブランに興味を持つようになった。
 そして健次郎などはしょっちゅうホテルへやって来て、率先して彼らをパリ見学に案内した。
 中でも三宅は特に健次郎と仲良くなり、健次郎の勧めで、数人と一緒にモンブランの家を訪問することになった。
 モンブランの家はグランドホテルの少し北西のティヴォリ街というところにあり、歩いてすぐに行ける場所だった。現在で言えばサン・ラザール駅のあたりである。
 彼らは健次郎の案内でモンブランの家へ行き、モンブランとその母および妹などと会ってお茶を飲みながら談笑した。通訳は当然、健次郎がつとめた。モンブランは横浜でお政と暮らしていたので多少日本語が話せる。三宅たちはモンブランのたどたどしい日本語を聞いて、驚いたり笑ったりして、モンブランを喜ばせた。

 三宅と健次郎はこれ以降も、何度か連れ立ってパリの観光に出かけた。
 三宅は、フランス語ができる健次郎と一緒にいると何かと有益であったし、健次郎は、この素直で大人しい若者が気に入っていた。
 なんといっても健次郎は、日本人の知り合いがパリに一人もいない。久しぶりに会った日本人と日本語で会話ができるのは何とも心地が良かった。
 しかもこの三宅は、自分と違って蘭学エリートなのである。その恵まれた人間よりも自分は今、フランス語が話せる優越的な立場にいる。そして自分を頼りにして兄のように慕ってくれている。少年時代にいじめられ、「威張ってる奴らを見返してやりたい!偉くなりたい!」と強く願ってきた健次郎としては、これほど心地良い経験をしたことは今までなかった。

 しかし健次郎のフランス語は、日常会話では不自由しないものの、少し難しい言葉、特に医学の専門的なフランス語となるとまったく知らなかった。
 医学を志す三宅としては、本来、それが知りたいのである。けれども三宅がそういった医学の専門的なことを聞くと
「多分、それはフランス語には無い」
 と言って健次郎はいつもごまかした。
 相当オランダ語の知識がある三宅としては、それらの単語がフランス語に無いなどあり得ない、というのはすぐに分かった。
(この人のフランス語の知識はこんなものか……)
 三宅はそう、心の中で感じとったが、根が優しいので、パリを去るまでは健次郎を師と仰ぐが如く、(うやま)い続けた。



 さて、パリに到着して以降、池田や田辺たちはフランス政府と何度か交渉を行なっていた。
 一応予想はしていたものの、やはりフランス政府の反応は厳しかった。
 日本を発つ前にベルクールから聞かされた甘い話はどこへやら、といったところで、フランス政府はことごとく日本の要求をはねつけた。
「おかしい。こんなはずではなかった。ベルクールもあの時、少しは望みがあるようなことを言っていたではないか」
 と一同は首をひねるばかりだった。

 下関の砲撃事件と井土ヶ谷の殺人事件については非は一方的に日本にあるのだから言い争う余地はない。謝罪と賠償を承認するだけである。
 問題は横浜鎖港である。
 しかしくり返しになるが、これは既に「詰んでいる」話であり、日本が無理にこれを強行しようとすれば余程のメリットをフランスに差し出すしかない。

 そんな中、田辺はワラにもすがる思いでモンブランの家へ相談に行った。
 モンブランは田辺を歓迎し、食事をごちそうした。
 食事の給仕役として、健次郎の他に黒人の召し使いがもう一人いた。
 この時、健次郎と黒人の召し使いはチョンマゲのかつらをかぶり、羽織(はおり)(はかま)を着ていた。
 モンブランがわざわざこのように趣向を凝らしたのだが、これには田辺も面食らったであろう。まったくフランス人のセンスというのは度外れている。

 この席でモンブランは田辺に助言をした。その概要は次の通りである。
「攘夷を唱え、幕府に反旗を(ひるがえ)している諸藩を討ち滅ぼしてしまえば良いのです。そのための兵力はフランス政府が喜んで貸してくれます」
 この当時のモンブランからすると、幕府の権力は揺るぎないように見えた。それに薩長などの諸藩との付き合いも全くなかった。だからこそ、幕府に取り入ろうとしたのである。幕府に取り入っておけば、のちに自分のビジネスにつなげることができる。特に自分の準地元であるベルギーと幕府をつないでビジネスにしたいと考えていたのである。

 それから数日後、モンブランと同じような、いやモンブラン以上に日本マニアの老人が、田辺たちの前に現れた。
 薩英戦争の時、卯三郎と一緒にユーリアラス号に乗っていたアレクサンダー・シーボルトの父、フィリップ・シーボルトである。この時、六十八歳。
 この「大シーボルト」は三年前、まだ安藤老中が幕政を握っていた頃、いっとき幕府の外交顧問をつとめたこともあった。
 そしてシーボルトも田辺たちに助言をした。その概要は次の通りである。
「私はフランス皇帝(ナポレオン三世)からの助言を伝えに来た。幕府はフランスから軍事力を借りて反幕府勢力を討ち滅ぼすべきだろう。その際、日本への友情のため、フランスは世界でも最新鋭の軍艦を幕府へ譲り渡すつもりである」
 日本に息子や娘(楠本(くすもと)イネ)がいるシーボルトの日本に対する思いは、モンブランとは比較にならない。が、シーボルトも、モンブランほどではないが、名誉欲、自己顕示欲の強い男で、特にヨーロッパで日本のことが問題になっていると聞いては口を出さずにはいられず、高齢の身でありながら、わざわざこうやって南ドイツからパリまで出て来たのだった。
 田辺は翌日、このシーボルトの話が真実であるのかどうかをフランス政府に問い合わせたところ、真実である、という返事が返ってきた。



 正使の池田長発(ながおき)は決断を迫られた。
 池田はこの時二十八歳。田辺より六つも若かった。
 美丈夫(びじょうふ)ではあるが、頑固で融通がきかず、忠義一途(いちず)直情(ちょくじょう)径行(けいこう)の男である。
 そのためフランス政府との交渉ではすぐに喜怒哀楽を表情に出し、時には怒って席を立とうとすることもあった。
 そんな池田は、老練なフランス外相ドルーアン・ド・リュイスにいいようにもてあそばれていた。確かに池田の資質自体も不適格ではあるのだが、それ以上に、こんな無理難題を背負わされた交渉では、やむを得ない面もあったろう。

 元々池田は攘夷意識が強かった。
「イギリスやフランスごとき、何するものぞ」
 という意識が強かったのだ。だからこそ、こういった横浜鎖港の交渉には適任者とみなされ、今回正使に任命されたのだった。
 しかし、まことに逆説的な話だが、こういった攘夷意識の強い人間に限って、いったん「攘夷は不可能だ!」と悟ると、逆に「日本のためには開国するしかないのだ!」という強烈な開国派に転じることが、ままある。
 彼がまさにそうだった。フランスへ来てみて、攘夷の不可を悟ったのである。

 池田は苦悩の末、一つの決断を下した。
 二、三年、欧米を歴訪して時間を稼ぐという策をあきらめ、まだ半年も経ってないのに日本へ帰国する、という決断である。

「開国と攘夷とで迷っているから幕府はだめなのだ。開国と決めたら断然、開国で突き進むべきなのだ。横浜鎖港など無意味だ。もはやフランスと手を結んで、その力を借りて長州や攘夷派を討ち滅ぼすしかない。そのためならフランスが言うように関税も引き下げ、フランスとの貿易を促進しようではないか。これが最善の策である!」
 池田は断然このようにする、と決心した。だめなら切腹するまでである、と。

 そして五月二十二日、池田長発はドルーアン・ド・リュイスと「パリ約定」を結んだ。
 その内容は上記の池田の決意に示されている通りで、要約すると
「幕府軍とフランス軍が協力して下関を攻撃し、日本の貿易関税を大幅に引き下げる」
 という条約である。
 もちろん幕府がこれを批准(ひじゅん)しなければ、この条約が発効することはない。

 こういった訳で、使節団は急きょ帰国することになった。

 はからずもこの頃、池田たちが上海で出会ったオールコックが、下関海峡の長州砲台を破壊するため横浜で英仏蘭米の四ヶ国艦隊を編成しようとしていた。
 このパリ約定の通り、幕府がフランスと共同して下関を叩くとなると、オールコックが四ヶ国艦隊を横浜から出発させる前に横浜に着かねばならない。
 五月二十六日、池田使節団は南仏マルセイユの港を出て横浜へ向かった。


 といった訳でモンブランとしては、今回の池田使節から直接便宜(べんぎ)を受けることはできなかったものの、日本使節はこれから何度もフランスへやって来るであろうし、今回の縁を活かして次の日本使節とはもっと上手くやろう、と心に秘めて、次の機会を待つことにした。



 大急ぎで日本へ戻ってきた池田使節団は七月十八日、横浜に到着した。
 奇遇なことに、この日、横浜で幕閣とオールコックが四ヶ国艦隊の下関派遣について最後の協議をおこなっていた。四ヶ国艦隊は、今まさに下関へ向けて出発するところだったのである。
 オールコックが数ヶ月かけて準備してきた四ヶ国艦隊にはフランス軍も入っている。もし幕府が、パリで結んだパリ約定を批准すれば、フランスは四ヶ国艦隊から抜けることになり、四ヶ国艦隊派遣の計画は白紙になる。オールコックは思わぬかたちで自身の計画に水を差されるかたちとなった。

 とはいえ、オールコック以上に衝撃を受けたのは幕府である。
 二、三年、時間稼ぎをしてこい、と言って送り出した使節団が、たった半年ちょっとで戻ってきたのだから幕府上層部は驚愕した。
 が、それ以上に驚愕せざるを得なかったのは、池田が結んできた約定の中に「横浜鎖港」の文字などどこにもなく、逆にフランスとの関係強化、貿易促進が記されていたことだった。

「何を考えとるんだ!池田の奴は!」
 という反応になるのも無理はない。

 幕府は目付や若年寄などの重役を横浜へ派遣して、池田が横浜から江戸城へやって来るのを止めようとした。が、池田は切腹する覚悟で江戸城へ向かった。けれどもやはり、江戸城へは入れず、その夜のうちに自宅へ押し込められ、即日隠居、石高半減、蟄居(ちっきょ)処分ということになった。

 使節に随行した他の幹部たちも処分され、田辺も免職となった。
 ただし田辺としては、この時の条約締結交渉には本人としても忸怩(じくじ)たるものがあったようで、後年自著の中で当時のことを振り返り
「恥ずかしさも極まって、思わず背中一面に汗がにじみ、涙がとめどなく流れてくる」
 と述べて、フランス政府の口車に乗せられたことを恥じている。

 もちろん、幕府がこのような条約を批准するはずもなく、数日後、フランス公使のロッシュに条約の破棄を通達した。
 これにより、オールコックが手配した四ヶ国艦隊は当初の予定通り、下関へ出発できるようになったのである。
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