第23話 渋沢と寅之助は備中へ、五代と松木は欧州へ

文字数 10,457文字

 元治(げんじ)二年(1865年)の二月下旬。
 二月といっても旧暦ではすでに梅の季節も過ぎ、そろそろ桜が咲き始める頃である。
 ちなみにこの二ヶ月後には元号が元治から慶応に改元されるので、この元治二年は通常、慶応元年と呼ばれることのほうが多い。

 寅之助は邸内の職務室に呼び出された。呼んだのは渋沢篤太夫(とくだゆう)である。
「私と一緒に備中(びっちゅう)までついて来てくれませんか?寅之助さん」
「備中?というと、どこの町でしたっけ?」
「いや、京や大坂の話ではありません。山陽の備中のことです」
「ははあ、山陽の備中と言うと岡山と福山の間ですか。いま一つ印象が薄いのでどういう場所なのかよく分かりませんが……」
「ハハハ、困りますな、そんなことじゃ。我が一橋家の領地は関東に二万石、摂州(せっしゅう)泉州(せんしゅう)に二万数千石、播州(ばんしゅう)に二万石、そして備中には最大の三万数千石があるのですよ」
「ほお、なるほど。で、その備中へ行って我々は何をするんですか?」
「この前、関東で人選御用の仕事をしましたが、今度は備中でも同じように人材を募集します。ただし今回は歩兵取り立ての御用という名目です。私が黒川様に進言して、歩兵募集の許可を得ました。まず手始めに一番領地が大きい備中から始めて、その後、残りの領地でも募集するつもりです。それで、あなたにも協力していただきたいのです」
「しかし私はただの剣術家です。そのようなお役目に役立てるとも思えませんが……」
「いや、あなたは人選御用で選ばれた人材の好例として、うってつけなのです。それにあなたの腕前に感服して参加する人がいるかも知れません。とにかく、責任はすべて私が取りますので、あなたは領内でも視察するつもりでついて来ていただければ結構です」
 そういう話であれば、別に寅之助としても断る理由がないので引き受けることにした。

 三月初旬、寅之助も加えた篤太夫の一行は西国街道を下って行った。
 目的地は、代官所がある備中の井原村(いばらむら)(現、岡山県井原市(いばらし))である。
 寅之助も篤太夫も山陽地方へ行くのは初めてだった。しかもちょうど桜の季節で、西国街道では至るところで桜が咲き乱れており、ついつい浮かれがちの気分になったが、大切な歩兵採用のお役目なので羽目(はめ)を外さないよう注意して井原村を目指した。

 篤太夫は先月、小十人(こじゅうにん)という身分に昇格して慶喜に御目見(おめみえ)できる身分になっていた。幕臣で言えば旗本と同じ立場である。
 そのためこの時、篤太夫は長棒駕籠(かご)という豪勢な駕籠に乗って、槍持ちや従者を引き連れての旅路となった。そして寅之助は、立派な一橋家の家臣、という姿をして歩いてついていった。
 一行が途中、宿場町に入ると先触れの者が「下にいろ」と町人たちを下座させ、宿泊所に入ると下へも置かない丁重な扱いを受けた。もちろん二人がこのような扱いを強いたのではない。一橋家の家臣である以上、周囲が「このように扱うのが当然だ」と、進んで頭を下げるのである。

 なにしろ二人とも(にわ)か武士である。まさか自分たちがこのような待遇を受けることになろうとは、少し前まで考えもしなかった。なので、なんとも決まりの悪い、妙な心地だった。
 現代で例えるなら、貧乏大学生が一流企業に入った途端、下請け企業の人たちから豪勢な接待攻勢を受けるといった、そんな感じであろうか。
 悪い気持ちがするはずはない。が、篤太夫はその昔、岡部の陣屋で役人から「百姓の分際で」と嘲弄(ちょうろう)された経験もあり、こういった武士を頂点とした身分社会に対する反発心も強い。

 今回、篤太夫が企画した歩兵募集、すなわち「農兵の募集」という発想自体が
「もはや武士だけでは立ち行かない世の中になっている。これからは武士以外の人間が世の中を支えていかねばならぬ」
 という篤太夫の確固とした信念の表れだった。
 その篤太夫が、こういった武士社会の特権を享受(きょうじゅ)したいと思うはずもなかった。


 余談ながら、幕末の農兵というとまっさきに思い浮かぶのは長州藩の「奇兵隊」であろう。
 厳密には「奇兵隊」以外にも長州藩の正規兵ではない「諸隊」と言われる各部隊があったのだが、ここでは便宜上、一般に広く知られている「奇兵隊」の名で呼ぶことにする。そして「奇兵隊」は厳密には農兵ではなくて、武士と庶民が入り混じった混成部隊であった。
 幕末の時代、農兵は至るところで組織されていた。有名なところでは伊豆の江川太郎左衛門(たろうざえもん)や幕臣の小栗忠順(ただまさ)上野介(こうずけのすけ))などが農兵の育成に力を入れていたが、それ以外にも各地の藩および幕府領で農兵は組織されていた。
 それらに共通していたのは「身近で戦争があった。あるいは外敵が接近して来たため危機感が生じた」という点である。
 外国の船がやって来て脅威を感じた沿岸部の人々とか、下関戦争や禁門の変、さらに天狗党の乱など実際に戦争を経験した各地の人々が、兵備の必要性を痛感して農兵を組織するようになったのである。

 それまで(いくさ)をするのは「武士の特権」であった。
 しかし二百年以上も太平の世に(ひた)りきっていた武士たちは、いざ(いくさ)になった場合、あるいは外敵が襲来した場合、思いのほか弱かった。
 もはや戦の主力は鉄砲である。農民でも銃を取って戦うことはできる。人数も農民のほうが武士よりも多い。そして役人化してひ弱になった武士よりも日頃から肉体労働をしている農民のほうが体も丈夫である。それで農兵が盛んに組織されるようになったという訳である。

「でも戦争に行くと、死んだり怪我したりするかも知れないんだから、農民は皆、兵士になりたがらないでしょ」
 と現代の人々は思うかも知れない。実際そういう風に「兵になることを拒否する」という事例もいくつかあったようである。
 けれどもこの当時は現代と違って、平等な社会ではない。
 武士には特権があった。武士は(いくさ)をするから特権があったのだ。であるならば、武士と同じように戦をすれば武士と同様の特権が得られる、ということになる。武士と同様の特権を得る、ということは政治に参加する権利を得る、ということでもある。これが後に、徴兵制度と引き替えに参政権を与える、という考え方にも繋がるのだが、それはともかく、農兵というものを考えるにあたっては「身分制度の打破」という問題が深く関わってくることになる。

 その典型例が「奇兵隊」であった。
 危機感によって立ち上がった義勇兵的な側面の強い「奇兵隊」は、武士社会を打ち倒す原動力となった。が、それはかえって維新後まで尾を引くことになり、九州各地および長州で勃発する士族の反乱、ひいては西南戦争まで繋がってしまうのであるが、そこまで行くといくらなんでも話が飛躍し過ぎなので、ここらへんで止めておく。

 ともかくも、長州びいきであった篤太夫が長州の「奇兵隊」のことをどれだけ知っていたかは不明だが、篤太夫が集めようとしている農兵が、その「奇兵隊」と敵対するために作られようとしているというのは、皮肉な話であった。



 井原村に着くと篤太夫はさっそく代官所で稲垣という代官に会って、今回の御用について説明した。
「一橋家の歩兵として御奉公(ごほうこう)させるつもりなので、次男三男で志のある者を領内から募集したいのです」
 すると代官は答えた。
「それでしたら、村の者を呼び出して、とにかく渋沢様が直接その旨を申し渡すのがよろしかろうと存じます」

 どうもこの代官は今回の御用に消極的だな、と篤太夫は感じたが、確かに代官が言うように、自分から直接説明したほうが話は早いだろうと思い、そのようにすることにした。
 さっそく各村落の庄屋たちを呼んでその旨を説明し、村の子弟(してい)たちに代官所まで来るように言った。
 そして翌日から篤太夫は、代官所に呼び出した村の子弟たちに対して
「皆も承知のことと思うが、外国の船が我が国へやって来るようになってから世の中は大変なことになっている。もはや武士だけでは国は守れない。次男三男で志のある者がいれば当家の歩兵として取り立てる。才覚次第では武士となることも夢ではない。希望する者は是非、名乗り出てもらいたい」
 と連日、何度も同じように説明した。

 ところがこれだけ多くの人々に話をしても、歩兵に志願する人間は一人もいなかった。

(そんなバカなことがあるか。決して悪い話ではないし、一人も申し出ないなどあり得ない。関東で募集した時も、ここまで酷くはなかった。何か訳があるな……)
 と篤太夫は(いぶか)しんだ。



 その頃、寅之助は井原村の町道場に顔を出していた。
 剣術修行の途中、ということでこの道場に顔を出したのだが、寅之助は武名録(ぶめいろく)の帳面も持っていなかったので道場の人々は不審に思った。
 この当時、諸藩の藩士たちは全国各地を剣術修行で回る場合、武名録という帳面を持ち歩いて立ち会った相手に姓名を書いてもらっていた。
 いや、別に自慢をしたり記念のため、というのではない。剣術修行は藩の公務として認められており、修行人が使う宿なども存在し、宿泊費も食事代も公務の必要経費として落ちたのだが、その証明書として武名録などの記録が必要だったのである。
 寅之助は実際のところ剣術修行として井原村にやって来た訳ではない。篤太夫に付き合って来ただけのことだった。ただ、自分は紛れもなく剣術家で、他人の道場に乗り込むにあたっては剣術修行と言わない訳にはいかなかった。ただそれだけのことである。

 さほど大きくない地方の町ということもあり、たまたま折りが悪かっただけかもしれないが、それほど強そうな剣士はいなかった。
 けれども一人、面白そうな若者がいたので、しばらくその男の稽古の様子を眺めていた。
 するとその男も寅之助のことに気づき、しばらくしてから寅之助のところへやって来た。
「あんた、見かけん顔だが、一手、俺と勝負してみないか?」
 なかなか気の強そうな男だ。歳の頃は十六、七といったところか。しかし武士ではないようだ、と寅之助はその男のことを推測した。
「よろしい。お相手してしんぜよう」

 その若者の剣術は、まったく無手勝流(むてかつりゅう)の荒っぽい剣術だった。この地方の水準であれば、これでもかなり強い部類なのだろう。しかし千葉道場で長年修行した寅之助からすればスキだらけだった。
 彼の打ち込みはことごとく寅之助にかわされ、たちまち返す刀が飛んで来て、次々と一本を打ち込まれた。
 彼はようやく寅之助の実力に気がついた。どうやらこの男はただ者ではない、と。
 すると彼はいきなり「すね斬り」をくり出してきた。昔、寅之助が子どもの頃に使っていた、あの技である。
 ところが寅之助はとっさに膝を曲げて、かかとで自分の尻を蹴るようにして、そのすね斬りをかわした。

 北辰一刀流の千葉周作は生前、すね斬りの対処方法として
「自分のかかとで尻を蹴るように足をあげてかわすか、あるいは竹刀で地面を叩くように相手の竹刀を叩くべし」
 と教えていた。なにしろすね斬りはかつて寅之助自身が得意としていた戦法で、しかも千葉周作の指導でこのように訓練していたので、対処方法は心得ていた。

 彼はすね斬りをあっさりとかわされて、少なからず動揺した。そしてその後も何度かすね斬りを試してみたものの、ことごとくかわされ、そのつど反撃されて一本を取られた。
 彼は最後に、とうとう竹刀を投げ捨てて寅之助に組み打ちを挑んできた。が、もちろん寅之助は千葉道場で、特に巨漢の真田範之助を相手に組み打ちの修行も積んでおり、あっさりと彼をねじ伏せて面をもぎ取った。

 それで彼は文字通り(かぶと)を脱いで、寅之助に頭を下げた。
「参りました。一体あなたはどこの剣術の先生ですか?」
 寅之助は彼に自分のことを説明した。自分は百姓の次男だが江戸の千葉道場で長年修行をした。そして今は一橋家の床几隊(しょうぎたい)に入っている、と。
 すると彼も自分のことを説明した。
 名前は松吉といい、現在十七歳である。百姓の三男だが剣術が好きで、時々こうしてここへ稽古をしに来ている。あなたのように強い人を見たのは初めてだ。どうか弟子にして欲しい、と。
 寅之助は、出張で来ているだけなので弟子に取る訳にはいかないが、ここで数日滞在している間は稽古をつけてやろう、と松吉に答えた。


 それで翌日以降も寅之助はこの道場に顔を出して、松吉に稽古をつけてやった。
 そのうち寅之助は松吉にいろいろと話を聞くようになった。
「今、私と同じ一橋家の渋沢篤太夫が、歩兵募集のためにこの地へ来ているのをお前も知っているだろう?」
「はい」
「なぜ、誰も歩兵に志願しようとしないのだろう?」
「さあ、なぜでしょう……」
「それこそ、お前にとっては実に良い話なのではないか?と私は思うのだが」
「……」
「お前は京の一橋家に行きたくはないか?」
 ここで、それまで下を向いて重苦しい表情をしていた松吉が、突然、寅之助のほうを振り向いて、静かな声ではあるが力強く言った。
「実は行きたいのです!」

 そして人に聞かれないように寅之助を隅の方へ連れて行って、改めて松吉は語った。
「これは、私が言ったとは絶対ほかで言わないで下さい。我々は庄屋様からきつく『志願してはならん』と命じられているのです」
「なぜだ?」
「理由は私にも分かりません。とにかく、そのように命じられているのです」
「ふーん、おかしな話だなあ。まあ、それはそれとして、もし京へ行けるようになったら松吉は何がやりたい?」
「そりゃもう、京のきれいな女子(おなご)を見てみたい。あとは美味しいものをいっぱい食べたい。実は私、お菓子が大好きなんです。ウチは貧乏なんで滅多にお菓子なんて食えません。京へ行って、腹いっぱい汁粉や大福が食べたいなあ」
 寅之助は心の中で松吉の無邪気さを笑い、もし京へ連れて行くことがあれば、腹いっぱいお菓子を食わせてやろう、と思った。



 一方、篤太夫のほうでも、誰も志願してこないことに対して調査を始めていた。
 普通の武士であれば、それこそ強制的に命令してでも歩兵として連れて行くところであろうが、元々百姓だった篤太夫としては、あまり百姓に手荒なことをしたくない。
 それでこの地域のいろんな人々と交流を重ねて、その原因を追究してみようと考えた。
 篤太夫も、寅之助が顔を出していた道場へやって来て剣術の腕前を披露した。昔は寅之助と互角の勝負をし、そのあとも千葉道場で少しは修行していただけあって、この田舎道場では篤太夫に勝てる人間はなかなかおらず、少しは評判になった。

 それから寺戸村(てらどむら)興譲館(こうじょうかん)という塾へ行ってみた。そこに阪谷(さかたに)希八郎(きはちろう)朗廬(ろうろ))という儒学者がいたので酒を飲みながら学問や時勢について語り合った。
 驚いたことに、この阪谷という学者は開国説を唱えていた。
「今の西洋諸国は昔のイスパニアやポルトガルのような侵略主義者ではなく、単に通商を求めているだけである。しかるに日本では『人を見たら泥棒と思え』とでも言うように『西洋人を見たら泥棒と思え』と決めつけている。これは人道的にも良くないし、世界共同の趣旨にも反する。私は徹頭(てっとう)徹尾(てつび)、開国主義である」
 篤太夫は、一橋家に入ってからは以前のような攘夷一点張りではなくなっていたが、それでも基本的には「攘夷は正しい」と思っている。ただし今回は話を聞きに来ただけだったので、特にそれほど強く反論もしなかった。それにしても江戸や京都の儒学者は全員攘夷を唱えていたものだが、こんな儒学者もいるのか、と興味深く思った。
 ちなみにこの阪谷希八郎の息子の阪谷芳郎(よしろう)は、のちに有名な政治家となり、子爵にまで登りつめる。のちの渋沢栄一の次女、琴子の夫である。
 そのあと篤太夫は興譲館の書生や近在の子弟たちと一緒に浜へ出て、鯛を獲る網漁に参加して井原の人々と交流した。

 こうして井原の人々と交流しているうちに、農村以外のところでは篤太夫の募集に志願する者が二人、三人と現れるようになった。
 篤太夫は「決して井原の人々全体が募集に反対している訳ではない」という事が分かり、次の手を打つことにした。




 その話をする前に、あまりに唐突で申し訳ないが、例の松木弘安と五代才助の話をしておきたい。
 寅之助も時々顔を出していた下奈良村(しもならむら)の吉田市右衛門(いちうえもん)家にながらく潜伏していた松木と五代は、この同じ三月、イギリスへ向かって出発した。

 二年前の十二月に五代は、弟分の吉田二郎と一緒に市右衛門家を飛び出して長崎へ向かった。この事は第十八話で書いた。
 長崎に着いた五代は友人のグラバーの屋敷などに(かくま)われた。
 薩摩藩はすでにイギリスと和解しており、薩英戦争の反省から藩の近代化を目指すようになっていた。五代にとっては良い環境が整いつつあった訳である。とはいえ、藩内の武断派には相変わらず五代に対する厳しい声もあった。薩英戦争において蒸気船三隻を無抵抗で敵に引き渡し、しかも敵の捕虜となったのに自決もしなかった、と非難したのだ。あまつさえ、蒸気船購入の際に英人グラバーと共謀して蓄財をしている、との噂まで立てられていた。

 が、五代はそんな事ではくじけない。
 前年の六月、五代は潜伏中から温めてきた「海外雄飛(ゆうひ)」の策を藩に上申した。いわゆる「五代才助上申書」と呼ばれる提言書である。
 概略としては「海外との交流を深めることによって富国強兵を目指す」という案で、それを実現するための具体的な手順、例えばどんな風に貿易を行なって利益を得るか、どんな風に留学生を海外へ送って人材を育てるか、さらにはどんな風に武器や機械を輸入して藩の近代化を図るか、といったことが事細かに記されていた。
 この上申書が提出されてからまもなく、薩摩藩は西洋学問所の「開成所(かいせいじょ)」を創設した。ただしこれは前藩主、島津斉彬(なりあきら)の時代からあった構想を実現に移したもので、五代の案が原案だったという訳ではない(実を言えば、ヨーロッパへの密航留学計画も斉彬の時代から既に発案されていたものだった)。

 そして秋になって、とうとう留学生をヨーロッパへ派遣することが決まった。
 五代の上申書の案が受け入れられたのである。
 これにより、五代と松木は藩から赦免(しゃめん)された。と同時に、二人は留学計画の担当者となって留学の実務を取り仕切ることになった。

 一方その松木は、五代が飛び出して行ったあとも半年ほど潜伏生活を続け、前年の夏に寅之助が熊谷まで送り、そのあと江戸へ行った、ということは前々回(第二十一話で)見たとおりである。
 松木はこの後しばらく江戸にいた。主に妻の実家で、妻と生後一年の娘と暮らしていたようである。そこへ藩から「長崎行き」の指令が来たので、すぐに長崎へ向かい、留学計画に参画することになった。松木としてもこの留学計画には大きな希望を抱いていたので、張り切って仕事に取りかかった。

 むろん、この留学計画は密航留学であり、幕府の法に照らせば大罪である。が、薩摩藩が幕府の意向を無視するのは別に今回のことに限らない、というのはこれまで見てきた通りである。ただし薩摩藩もそれなりに幕府の目は意識しており「甑島(こしきじま)や奄美大島へ渡航する」という名目で船を出発させる、という偽装工作を施し、さらに渡欧する十九人全員に変名を付けさせた。例えば五代は関研蔵(けんぞう)、松木は出水(いずみ)泉蔵(せんぞう)という風に名前を変えた。
 渡欧者十九人のうち五代と松木は「留学生」ではない。五代は視察および商用が目的である。そして松木は、留学の仕事にも関与するが、それよりもっと重要な「イギリス政府との外交交渉」という仕事がある。また、名門で大目付の新納(にいろ)刑部(ぎょうぶ)が全体の責任者として渡欧する。この三人は留学生ではなくて、留学計画の首脳陣ということになる。
 留学生は森金之丞(きんのじょう)(のちの有礼(ありのり))など十五名で、残る一名は五代や新納に随行する通訳の堀孝之(たかゆき)である。

 そう言えば、ついこの前(2020年9月30日)、長崎出身の堀孝之と土佐出身の高見弥一(やいち)の二人の銅像が、鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」に加えられた、というニュースがあった。二人は純粋な薩摩人ではないので、それまでは「若き薩摩の群像」の中に銅像がなかったのだが、この度、追加されたのである。
 彼らのことを「薩摩スチューデント」と呼ぶこともある。長州の伊藤・井上たち「長州ファイブ」ほど有名ではないが、こういうニュースもあったので「薩摩スチューデント」のことも、少しづつ認知されてはいるのだろう。多分。

 この留学計画はグラバーの協力によって行なわれた。彼らはグラバー商会所有の小型蒸気船オースタライエン号に乗って薩摩から香港を目指して出発した。
 出港場所は串木野(くしきの)羽島(はしま)で(現在そこには『薩摩藩英国留学生記念館』が建っている)、出発したのは三月二十二日のことである。




 井原村(いばらむら)の話に戻る。
 篤太夫は寅之助からの話も聞いて、村の庄屋たちが歩兵の募集に反対していることが分かった。
 そこで篤太夫は宿に庄屋たちを呼び集めて、一体どういった事情で歩兵の募集に反対しているのか?今、一橋家のお家が大変な時であることを分かっておらぬのか?と、きつく問いただした。

 すると庄屋たちもついに観念して、実情を話し始めた。
「どうか何卒(なにとぞ)、我々が申したという事はご内聞(ないぶん)に願います。実はお代官様が密かにおっしゃるには、一橋家も近頃は山師が多くなって困ったものだ。こういう成り上がり者が山っ気を出していろいろと厄介なことをやろうとしているが、そんな話を真に受けていては領民の迷惑になるので、のらりくらりと断っておけば良い。一人も志願する者はございませんでしたと言えば、それで済む、と。実を言えば志願者は沢山おりましたが、このような次第で、子弟(してい)たちには志願せぬよう申し渡しておりました」

 篤太夫としては、薄々そんなところだろうと思っていた。
 あの稲垣とかいう代官がこの仕事に消極的であることは分かっていた。それでもまさか、ここまで強硬に邪魔してくるとは思わなかった。
「なるほど分かった。お主たちの迷惑にならぬよう代官に掛け合うから、心配せずとも良い」
 と言い渡して庄屋たちを帰した。

 幕府の役人というのは、この乱世の時代であっても前向きに仕事をする気がないのだ。また、百姓から成り上がった自分に対するやっかみもあろう。このような組織だから幕府は駄目になるのだ、と篤太夫はあらためて実感した。

 この場合、篤太夫は稲垣代官を強く糾弾し、一橋家の上司にも訴えて罷免(ひめん)させることもできる。しかしそのような遺恨(いこん)を残すやり方では一橋家のためにも良くない。ここは一つ、稲垣代官の心を入れ替えさせるよう仕向けるのが上策であろう、と篤太夫は考えた。

 数日後、篤太夫は代官所で稲垣代官と面談して次のように述べた。
「どうも思ったように歩兵が集まりませんので、これからも粘り強く領民に対して説得を続けようと思います。ただ、お断りしておきますが、今回の御用は君公(くんこう)(慶喜)が強く仰せ出されたことであり、歩兵が集まらなければ禁裏御守衛総督の任に差し障りが出るでしょう。しかるに拙者がここまで出向て来ても、一人も志願者が出てこないとは全く不思議なことです。これは本当に一人も志願者がいないのか、あるいは人選の仕方が悪いのか、まさか代官たる貴殿のご指導に問題があるのか、この点よくお考えの上、善後策を承りたい。拙者は歩兵が集まらない原因を詳しく調べて、責任の所在を明らかにせねばなりません。その際、貴殿にご迷惑が及ばぬかどうか、深く憂慮しております」
 と真綿で首をしめるように稲垣代官の責任を追及したところ、案の定、彼は顔色を変えた。事なかれ主義の人間にとっては「責任を追及される」というのが一番の恐怖なのである。

 翌日以降、稲垣代官が率先して歩兵の募集にあたるようになり、庄屋たちと協力してあっという間に二百人余りの志願者が集まった。
 まったくもって、この変わりようである。
 篤太夫としてはバカバカしい限りであった。
 最初から代官がこのようにやっていれば、なんのことはなかったのである。それでもまあ、おかげで井原村の人々と交流できたのは怪我の功名だったとでも言えようか。

 もちろんこの二百余名の志願者の中には、松吉も含まれていた。
 寅之助が井原村を去る際に、松吉が別れのあいさつを告げに来た。
「吉田先生。後日、京でお目にかかります」
「おお。京で稽古の続きをつけてやる。お菓子も腹いっぱい食わせてやるぞ」


 このあと、篤太夫は摂州、泉州、播州で同様に歩兵を募集して合計およそ四百五十人ほどの歩兵が集まった。すでに備中で前例が出来ていたので他の領地では特に問題もなく、すんなりと歩兵を採用することができた。

 歩兵採用の御用を成功させた篤太夫は、京都に戻ると一橋家から褒美(ほうび)をもらった。しかし篤太夫はこの仕事に満足してはいなかった。
 篤太夫は寅之助に語った。
「いずれ各地から集まる歩兵は紫野(むらさきの)大徳寺(だいとくじ)に入ります。そこで幕府から派遣される教官たちによって訓練を受けます。それにあなたも加わってください。そして今後、歩兵のことはあなたに任せます」
「承知しました。私も一度ちゃんと(いくさ)のやり方を習いたいと思ってましたから。ところで、あなたはこのあと、どうするんですか?」

「私は一橋家の(あきな)いのやり方を改善するつもりです」

 あまりにも意外な答えを聞いて、寅之助はあぜんとした。おそらく今の一橋家で、そんなことを思いつく人間は篤太夫の他に一人もいないであろう。
「それこそが、私の能力を一番活かせる仕事だと思うのです」
 篤太夫は笑顔で寅之助に答えた。



 ともかくも、篤太夫は歩兵の募集という、自分にそれほど向いているとは思えない仕事から手を引くことになった。
 そして寅之助がそれを引き継ぐことになった。

 薩英戦争、下関戦争、禁門の変、天狗党の乱。
 こういった本当の(いくさ)というものを見たことがなかった篤太夫と寅之助は、この農兵たちが将来、実際に大規模な戦争に参加することになるとは、この時まったく想像していなかった。
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