第27話 お多恵との一日

文字数 8,273文字

 慶応二年(1866年)の年が明けた。
 年末年始、寅之助は酒を飲みまくった。が、実のところを言えば、それは年末年始だけに限らなかった。
 ここ最近、寅之助は酒ばかり飲んでいる。飲まずにはいられないのだ。

 寅之助の主君、一橋慶喜の活躍によって条約が勅許(ちょっきょ)された。
 これでもはや、外国と結んだ条約は朝廷、すなわち孝明天皇によって正式に承認された訳である。
 こうなってしまっては「外国人を打ち払え!」と攘夷を唱えるのは無意味となった。
 もう、攘夷は死んだのだ。
 だもんで、寅之助は酒を飲みまくった。
(俺は一体これから何のために戦えば良いのだ。なんだか何もかも、どうでもよくなった……。あとはもう、どうとでもなってしまえ!)
 要するに自暴(じぼう)自棄(じき)、ということである。
 そういった訳で寅之助はここ最近、酒は飲むわ、遊女屋へ行くわで、生活の乱れが著しい。

 この日も寅之助は、妓楼(ぎろう)篤太夫(とくだゆう)と酒を飲んでいた。
「今日も何事もなく、一橋家のお家は安泰!篤太夫さんのおかげで商売も繁盛!天下泰平、万々歳といったところですな!」
「ハハハ、今日も荒れてますな、寅之助さんは」
「本来、我々は攘夷をやるために烈公の後継者である君公のところへ参ったはずだった。しかし結局、君公は攘夷をなさらなかった。全くなんたることか。それでもあなたは良い。攘夷をやらなくても(あきな)いという得意な仕事があるんだから。だが、私などは攘夷を取り上げられたら、それこそ他にやることがない。だからこうして酒ばかり飲んでいる」
「当家における年貢米や木綿の(あきな)い、それに藩札の発行などは、まだまだ(ちょ)についたばかりです。私もかつては攘夷のことばかり考えていたが、今は商いのことばかり考えている。とにかく一橋家を()ましたいのです。そうすれば兵備を(ととの)えることもできる。国も同じことでしょう。富国強兵。(とみ)がなければ国は強くならない。だから私は最近、攘夷よりも商いに夢中です」
「まったくおかしな人だ。攘夷家から商売人になるなんて、そんな人はあなた以外、絶対いませんよ。でもまあ、あなたの場合、元々藍玉(あいだま)の商いもやっていたから元に戻っただけ、とも言えますけど」
「そう言えば、天下泰平どころか、つい先日、伏見で事件がありましたよ。私はその日、君公のお供をして宇治まで行ってきたのですが、同じ日に伏見の寺田屋という船宿で捕り物があったのです。二人の下手人が拳銃や槍で抵抗したようで、数名の捕り方が死傷したようです」
「ほほう、そりゃまた物騒な話ですなあ。亡くなった捕り方はお気の毒だ」
「噂によるとその下手人は薩摩藩の息がかかった浪人で、そのあと薩摩藩邸へ逃げ込んだとか。それで取り押さえた証拠書類によると、そ奴はなんと薩摩と長州のあいだを周旋しようとしていたらしい」
「ハッハッハ、無茶苦茶な奴だなあ。仇敵(きゅうてき)同士の薩摩と長州を組ませようなんて、無理に決まってるじゃないか」
「うーん、それはどうでしょう。商売人のカンとしては、これは案外、見込みがないでもない、と思う。お互いの利害を考えれば、不自然な組み合わせではないでしょう。なにより薩摩は最近やけに反幕府的で、会津藩の人も『最近薩摩は会津に非協力的だ』とボヤいている。それに『薩摩は征長軍に参加しないのではないか?』というのがもっぱらの噂です」
「へえー。それじゃあ、万一その男のおかげで薩長が手を結んだら、幕府にとってその男は天下の大罪人ってところですなあ。まあ薩長が手を結ぶなんて、あり得ないけど」
「まあ確かに難しいでしょうね。ですが、もし万一それが成し遂げられたら幕府だけではなくて、我が君公の敵でもあるわけです。その男は」
「でも、正直言うと少しだけ、その男に期待する自分もいる。いや、それはきっと、あなたも同じなんじゃないですか?」
「……」
「まあ、今のあなたの立場では答えられないでしょう。『ひょっとすると、その男のおかげで長州が生きのびるかも知れない』などという事は。しかも、万一長州が生きのびれば、“攘夷”も生きのびることになる。だけど、もしそうなれば幕府は大変なことになる。おそらく我が一橋家も、ただでは済まない……。ふっふっふ。とか何とか言っても、幕府軍は十数万の大軍だからなあ。結局は、どうあがいても長州に勝ち目はないでしょうよ……」




 寅之助はこのあとの記憶がない。
 翌日は非番ということで、しこたま飲みまくったからだ。目が覚めると、自分の家にいた。
 ところが、いつもと何かが違う。懐かしい香りがする。米が炊かれて、味噌汁が作られている香りだ。
 だが一人暮らしのこの家で、そんなことがあるはずがない、と思って炊事場のほうを寝ぼけまなこで(のぞ)いてみると、誰かいるらしい。

 お多恵だった。
 まだ夢の続きでも見ているのか?と寅之助は思った。

「おはようございます、寅殿」
 お多恵は笑顔でニッコリと寅之助にあいさつをした。
 夢ではない。間違いなく、あのお多恵だ。

 相変わらず美しい。
 二十歳(はたち)を過ぎて、この当時ではすでに「年増(としま)」の領域だが、以前より美しさに磨きがかかっているように見える。
「なぜ、お多恵がここに……?」
「それはまた後ほど。さあさあ、すぐに朝餉(あさげ)が出来上がりますよ。何はともあれ、起きてくださりませ」
 寅之助は狼狽(うろた)えつつも起き上がって、布団を片付けた。そして寅之助が顔を洗っているうちにお多恵が朝食の支度を整えた。

 それから二人は一緒に朝食を食べ始めた。
「今日はお休みなのですね?」
「ああ、そうだが……」
「ふふっ、良かった。実は私、伊勢神宮へお参りするために、こちらへ来たのです。お供にお松も連れて来ておりますけど、お松は宿に残してきました」

 そして二人は朝食を食べ終え、そのあとお多恵がお茶をいれてきた。
「このお部屋の様子では、誰もお世話をする人はおられないようですね。いつもお食事などはどうされているのですか?」
「まあ、適当に外で食べて済ませている……」

 このあと、二人の間に少し気まずい空気が流れた。
 お互いが相手の結婚について「今、どうなっているのか?」と聞きたいところなのだが、なかなかそれを切り出せなかった。

 しばらくの沈黙があり、それからようやく寅之助のほうからお多恵に聞いた。
「あの……、その……、お多恵はまだ、嫁に行っておらぬのか?」
 お多恵はやや下を向いて、伏し目がちに答えた。
「はい……。まだ……」

 寅之助は複雑な気持ちになった。
 二年前に別れを告げた際、すでにお多恵のことはあきらめたつもりだった。にもかかわらず、お多恵はまだ結婚していなかったのだ。「自分のせいでお多恵の婚期を遅らせてしまった」という申し訳ない気持ちと、「まだ自分の嫁として迎える機会が残っていた」という嬉しい気持ちが混ざり合った、なんとも名状し難い複雑な気持ちだった。

「寅殿は、なぜお嫁さんをお迎えにならないのですか?」
「自分が京の一橋家に来て以来、いろんなことがあり過ぎて、それどころじゃなかった。結局は一度も(いくさ)をしなかったが、その寸前だったことは何度もあった。今も長州征伐を目前に控えて、戦の準備をしているところだ。やはり、嫁を迎えるのに相応(ふさわ)しい状態ではないと思う……」
「そうですか……。でも、とにかく、今日はお休みだから一日一緒にいられるのでしょう?寅殿、せっかくですから私のために、京の町を案内してくださいませんか?」
 寅之助には長年、お多恵を待たせ続けたという罪がある。これぐらいのことは引き受けねば罰が当たろうというものだ、と本人も自覚している。それで、あっさりと引き受けた。



 ちょうど梅の季節なので、二人はまず北野天満宮へ行ってみた。そして天満宮でひとしきり梅を見たあと、二人は東へ向かい、下鴨(しもがも)神社を経由して東山(ひがしやま)へ向かった。途中、買い物や食事などもして楽しんだ。

 考えてみれば、こうして一緒に町へ出歩くというのは二人にとって、これが初めてだった。
 寅之助としては、最初は罪ほろぼしのつもりだったのだが、こうしてお多恵と一緒にいるうちに段々お多恵が恋しくなってきた。
(もう攘夷に入れ込む必要もないのだし、俺の一橋家での身分もある程度、確かなものになりつつある。幸いお多恵もまだ嫁に行ってなかったのだし、そろそろ一緒になるべきなのかな……)
 といった考えが寅之助の頭をよぎった。

 二人は歩いているうちに東山の、とある神社の一角へやって来た。
 そのあたりは人気(ひとけ)が無く、(ほこら)がポツンと建っていた。
 そこを通りかかった時に、寅之助は突然お多恵の手をつかんだ。
 そしてお多恵と顔を向き合わせて、告げた。

「俺と夫婦(めおと)にならぬか?」

 お多恵はハッとした表情をして、そのあと、嬉しそうな表情で涙を流した。
 寅之助はお多恵を抱き寄せた。それからお多恵の手を引いて祠の中へと導いていった。幸い祠の中には誰もいなかった。

 そこで寅之助はお多恵の口を吸った。そして思いっ切りお多恵を抱きしめた。
 寅之助は(たかぶ)る気持ちを抑えられず、自然な流れとして、手をお多恵の下半身へと回した。

 その時
「ダメ……」
 と、お多恵は体を引いた。
「えっ?」
 と、寅之助は当惑した。

「神様の前で嘘はつけませぬ……」
「嘘?」

 お多恵はその場にペタリと座り込んでしまった。
 そして泣きながら寅之助に説明した。
「私、確かにまだ、嫁には行っておりませぬが、すでに先月、お父上が私の嫁ぎ先をお決めになったのです……。嫁ぎ先は親戚の商家です……」
「……」
「この度、私が京へ来たのは、最後に一目、寅殿にお会いして、お別れを申しておきたかったのです……」
「……」

 お多恵は泣きながら
「どうして?どうして、寅殿は、もっと早く、今日のようにおっしゃってくださらなかったのですか!何年も何年も、待っていたのに!」
 と叫んで寅之助の胸を何度も叩いた。

 寅之助はその叱責を胸に受けつつ呆然と虚空(こくう)を見上げて
「すまぬ……」
 と、つぶやいた。

 この当時、結婚は基本的に親が決めるものだった。
 しかもお多恵の父は寅之助もよく知っている親戚の市右衛門(いちうえもん)だ。市右衛門は、寅之助がお多恵をほったらかしにしていた事をよく承知している。いまさら寅之助がどう言い訳したところで手遅れだった。
(後悔先に立たず、か……)
 と寅之助は悔やんだ。

 このあと二人は別れ、お多恵は下女のお松と一緒に伊勢神宮へ行って、それから下奈良(しもなら)村へと帰っていった。




 さて、前年の末にパリを発って日本へ向かった五代や健次郎たちは、この年の三月、鹿児島に到着した。

 健次郎にとっては三年半ぶりの帰国となったわけだが、関東育ちの健次郎としては鹿児島へ来るのが初めてということもあり、あまり母国へ帰ってきた感じがしなかった。
 自然の風景が関東と違うのはともかくとして、人々が話す鹿児島弁が「ここは本当に日本か?」と思うぐらい、健次郎には異質な世界として感じられたのだ。
 健次郎はここ三年ほどフランス語ばかりしゃべっていて関東弁すらたどたどしくなっていたが、そんな健次郎からすると鹿児島弁はまるで外国語同然で、彼らと話す度に「フランス語のほうが楽なんですけど」と言いたくなった。
 このような環境の中で健次郎は、八ヶ月後に再びパリへ向かうまで、鹿児島の開成所(かいせいじょ)でフランス語を教えつつ、パリ万博に参加する薩摩藩の仕事、すなわち展示物の選定や出荷の仕事に従事することになった。

 余談だが、健次郎が教えた開成所には他に教師として中浜万次郎(ジョン万次郎)や前島(ひそか)(のちに「郵便制度の父」と呼ばれる。当時の名前は(まき)退蔵(たいぞう))などがいた。前島はここで大久保一蔵と知り合って、それが後に大久保へ「江戸遷都(せんと)」の献策をすることにも繋がるのだが、そんな話はとりあえず脇へおくとして、豪農の息子として生まれ、長崎で洋学を学んでいた前島は開成所で教えているうちに薩摩藩士としての身分を得るようになった。
 ちなみに前島も開成所で生徒たちに教える時に「鹿児島弁が分からず難儀した」と後に語っている。そして、まさかそれが原因でもあるまいが、のちに前島が江戸へ出張した際、そのまま鹿児島へは帰らず、あまつさえ江戸でそのまま幕臣(前島家)の養子になってしまった。この前島の動きを見て薩摩藩では「なんという不義理な奴だ。ひょっとして幕府の密偵だったのではないか?見つけ次第、斬り殺してしまえ!」という声も上がったという。

 一方五代は、パリから帰ってきたあと藩の貿易業務に大きく関わるようになった。そして「薩長同盟」を結んだ長州とも話を進めて、下関を起点とした一大貿易圏を作り上げようとした。
 なにしろ下関海峡は日本海と太平洋を結ぶ、西日本における貿易の最重要拠点である。この有利な地勢を活かして長崎、鹿児島、琉球、大坂を結び、そしておそらくは上海など海外への貿易ルートも確立するつもりだったと思われるが、薩摩と長州が共同で運営する合弁商社を作ろうとしたのだった。
 しかし、モンブランとの「薩摩・ベルギー商社」の時もそうだったが、五代の話はいつもスケールがでかすぎるのだ。十年早すぎた、というか、藩の単位を超えて国家規模でやるべき話だった、というか、この計画は長州側が参加を辞退して、結局お蔵入りとなってしまうのである。


 そして五月下旬には松木もロンドンから鹿児島へ帰ってきた。
 まったくの偶然なのだが、松木が帰ってきてから程なく、イギリス公使のパークスが鹿児島を訪問した。六月十五日のことだった。
 このパークスの鹿児島訪問をお膳立てしたのは長崎のグラバーである。グラバーは五代の友人で、そのうえビジネスの相手でもあり、薩摩との関係が深かった。そのグラバーが事前に鹿児島と江戸のパークスを訪問して、今回のパークス薩訪を実現させたのだった。

 そしてパークスはイギリス外務省から「ロンドンで薩摩藩の松木という男がクラレンドン外相と面談した」という情報も受け取っていた。パークスは、松木がロンドンで行なった外交交渉についてはそれほど高く評価しなかったが(おそらく駐日公使である自分の頭越しに、直接イギリス外務省と交渉したのが(かん)(さわ)った、という点もあったのだろうが)薩摩藩がイギリスと(よしみ)を通じようとしている前向きな姿勢は理解できた。
 パークスは薩摩藩主親子(藩主・茂久(もちひさ)国父(こくふ)久光(ひさみつ))と面会して親睦を深め、さらに西郷吉之助とも面談して「兵庫開港」などについて協議した。

 大坂と兵庫は薩摩藩にとって非常に重要な商業地だった。松木もロンドンで訴えたように「幕府による貿易独占の廃止」すなわち「幕府独占による兵庫開港の阻止」というのが薩摩藩の目的なのである。
 西郷はパークスに、幕府独占による兵庫開港が日英にとっていかに不都合であるか、ということを訴え、パークスも西郷の主張に一定の理解を示すに至った。こういった薩摩藩とパークスの交渉を通訳したのは、もちろんロンドン帰りの松木だった。

 こうして薩英両者は、この鹿児島湾で薩英戦争をやったことは水に流し、いまや逆に、お互いの関係を強化しつつあったのである。




 鹿児島で薩英が関係を深めていたのと時を同じくして、長州では戦争が始まっていた。
 いわゆる「幕長(ばくちょう)戦争(第二次長州征伐)」の開始である。
 六月七日に幕府軍が周防(すおう)大島を攻撃して、戦争の火ぶたがきられた。

 長州再征のために将軍家茂(いえもち)が数万の幕府軍を率いて大坂に入ったのは、一年前の(うるう)五月のことである。
「前回、尾張公を総督とした幕府軍にあっさりと降伏した長州なのだから、今回、将軍自らが大坂まで進発すれば、ひとたまりもなく降伏するであろう」
 などと長州を甘くみていた幕府軍は、結局一年以上、大坂でじっとしていた訳である。

 大軍勢が長期間、大坂に駐留することによって物の需要が高まり、物価はどんどん上がっていった。
 さらに(たち)の悪いことに、この大坂の幕府軍は長州へ出征しないのである。
 薩摩藩は「薩長同盟」の密約から、幕長戦争が始まるとすぐに京都へ約千人の兵を送り込んだ。これは長州を陰で支援する薩摩が、大坂の幕府軍を牽制(けんせい)するために送り込んだのだが、これにより大坂の幕府軍は長州へ行きづらくなった。
 と言えばまだ聞こえは良いが、要するにこの幕府直属軍は、自ら戦いたくはなかったのだ。長州の四境(しきょう)を囲んでいる十数万の大軍は、ほとんどが諸藩の兵である。幕府直属軍としては自らの消耗は避け(というよりも戦意が乏しく、士気が低かったというのが実情だが)、諸藩の兵に戦いを丸投げしたのである。

 そういった訳で大坂には引き続き数万の幕府軍が居座り続け、さらに戦地へ送る莫大(ばくだい)な兵糧のために日本中で米不足となった。しかもこの年は天候不順や冷害があって米の作柄(さくがら)が悪かった。

 米の値段はたちまち、うなぎ上りとなった。

 大坂の米の値段は一年前の四倍、十年前の十倍となった。そして、こういう時は()てして買い占めや相場の吊り上げが行なわれるものである。
 当然、大坂の民衆は激怒した。
 五月一日に西宮(にしのみや)で主婦たちが米屋に安売りを求める運動を起こし、それ以降「安売りしないと店を打ち壊す」という大衆運動に発展し、米屋の打ち壊し騒動は大坂一円、さらにその近隣にまで広がった。打ち壊しがあった町は三百数十町、打ち壊された米屋はおよそ九百軒に及んだ。

 のちに数百人の暴徒が逮捕され一応騒ぎは収まったものの、暴徒たちを取り調べる際
「この騒ぎを起こした張本人は一体誰だ?」
 と尋問したところ
「張本人は御城中におわす!」
 要するに「張本人は将軍家茂だ!」と口々に答えた、という有名なエピソードが残されている。

 中国地方で長州と対峙(たいじ)する幕府軍の背後では、こういった「米騒動」が発生していたのであった。


 そして関東でも、五月二十三日に川崎の窮民(きゅうみん)数百人が名主のところへ押しかけて米を要求し、二十八日には品川宿で打ち壊しが発生。そのあと牛込、四谷、本所などへ「米騒動」は広がっていった。

 さらに、こういった騒ぎが北武蔵にも飛び火し、いわゆる
武州(ぶしゅう)世直し一揆」
 と呼ばれる大規模一揆が発生した。

 六月十三日、飯能(はんのう)の山奥にある秩父郡上名栗村(かみなぐりむら)(現、飯能市上名栗)という小さな村から火の手があがった。
 この上名栗の村民が蜂起したのは、むろん米価高騰もその原因ではあるのだが、生糸の取引に新たな税を課したことも大きな原因だった。この辺りは養蚕(ようさん)業で暮らしを立てている者が多く、この新たな税は死活問題に直結したのだ。ちなみにこの十八年後には、再び養蚕業者の疲弊によって「秩父事件」という同じ歴史をくり返すことになる。
 またこの時、秩父の養蚕業者が疲弊している一方で、横浜では生糸取引で財を成した商人たちがたくさんいたので、のちに一揆が拡大した際、その横浜も攻撃目標となるのである。かつては清河八郎が、そして渋沢・尾高一族が、さらには天狗党なども「それ」を試みようとしたものだったが、まったくもって既視感(きしかん)を感じざるを得ない。ただし、結局この時も横浜襲撃は阻止されて、未遂に終わった。

 とはいえ、この武州世直し一揆自体は、このあと八日間にわたって北武蔵一帯に荒れ狂うのである。
 上名栗村から飯能の町へ騒ぎが広がると一揆勢はおよそ数百人の規模となり、さらに所沢へ飛び火した頃には三万人の規模にまで拡大した。
 その頃には近隣の川越、(おし)、岡部、高崎藩などの諸藩兵や幕府の八王子千人同心、さらには江川太郎左衛門の農兵部隊などが鎮圧に乗り出してきた。
 一揆勢の一部は田無(たなし)青梅(おうめ)、八王子方面から横浜へ南下しようとしたが、それは鎮圧部隊によって阻止された。一方、北へ向かった一揆勢は越生(おごせ)寄居(よりい)、秩父方面へ、さらに本庄、藤岡方面まで進出した。

 寅之助の地元である熊谷や、篤太夫の地元である深谷はほとんど被害が出なかったものの、根岸友山のいる甲山(かぶとやま)には多少の暴徒が押し寄せてきて、当然の如く、豪農である友山の邸宅も打ち壊しの標的とされた。が、友山の道場にいた剣客や私兵などが暴徒を撃退した。
 そして一揆勢の本体も、鉄砲隊で組織された幕府および諸藩の兵によって次々と鎮圧されていった。

 のべ参加者、十数万人。逮捕者、約四千人。武蔵国(むさしのくに)十五郡、上野国(こうずけのくに)二郡の約二百ヶ村で約五百軒が打ち壊された武州世直し一揆は、六月二十日にようやく終息した。

 西日本で幕長(ばくちょう)戦争をやっている真っ最中に、関東でこの有り様である。
 天狗党の時と同じように、幕府はまた、西と東で戦いに直面していたのだった。
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