第5話 深谷での対決

文字数 6,334文字

 年が明けて安政六年(1859年)となった。
 妖艶な年上の女性お政に翻弄(ほんろう)され、寅之助が色恋にうつつを抜かしていたのは前年秋頃の話だが、この安政六年になってから寅之助の日常生活とは裏腹に、世間では「安政の大獄」の嵐が吹き荒れはじめていた。
 前回、「安政五ヶ国条約」の調印、そしてそれが無勅許の調印であったこと、さらには将軍継嗣(けいし)問題にからむ大老井伊直弼と一橋派の対立について簡単に触れた。
 こういった国内の対立構造は年が明けてからますます悪化の一途をたどり、井伊の弾圧は一層激化し、多くの志士たちの血が流されることになった。
 その一方で、六月には横浜港が開港され、それ以降、日本人と外国人との交流が激増することになるのだが、価値観の異なる者同士の初交流がすんなりといく訳もなく、さらにこの頃国内で流行っていたコレラが外国由来であったことも悪感情となって攘夷運動が激化し、ここでも血の雨が降ることになるのである。



 雪がとけて春になった。
 寅之助はいつもの通り、千葉道場で剣術修行に励んでいる。
 一時期はお政に対する煩悩(ぼんのう)から剣術修行が手につかないこともあったが、この頃になるとようやく煩悩をぬぐい去って平常心で修業に励むようになっていた。
 この日、道場では大勢が参加する勝ち抜き試合がおこなわれ、寅之助は次々と対戦相手を破り、みごとな活躍をしてみせた。

「寅之助。貴様、一時期は稽古に身が入らず腑抜けのようになっていたくせに、最近は元気を取り戻したようじゃないか」
 試合が終わったあと、寅之助に話しかけてきたのは真田範之介(はんのすけ)という大柄の男だった。
 武州多摩郡左入村(さにゅうむら)(現在の八王子のあたり)の出身で、生まれは寅之助と同じく豪農の出だが歳は寅之助より八つ年上で、千葉道場では師範候補の実力者である。若い頃に多摩で天然(てんねん)理心(りしん)流を学び、その後、千葉道場に入った。

 寅之助は少しも笑みを見せずに答えた。
「ようやく病も治ったもので」
「どうせ下半身の病だろう」
「いや、どちらかというと脳みその病です」
「何だそれは?」
「稽古をして頭を打たれつづけているうちに、自然と治ったんですよ。私は難しいことを考えるのに不向きなんです」
「まあいい。とにかく今は大変なご時世だ。女にうつつを抜かしている場合ではないぞ。我々もいずれは尊王攘夷に命をあずけることになるのだからな」
「はい」

「ところで寅之助。お前は熊谷の生まれだったな。だったら榛沢(はんざわ)下手計(しもてばか)村にいる尾高長七郎という男を知らんか?」
 寅之助は、子どもの頃に長七郎に会っている。
 ただし剣術大会で少し遭遇しただけのことで、お互い名乗りも告げず話もしなかったのだから、あれが尾高長七郎だったとは分かるはずもなかった。
「いいえ。存じません」
「そうか。噂によるとそいつは神道無念流の相当な使い手らしい。そこで今度、村上と一緒に下手計村へ行って手合わせしてこようと思うんだが、お前も一緒に行かんか?」
「他の先輩をさしおいて、私が行ってもよろしいのですか?」
「なあに、構わん。お前も最近ずいぶんと腕を上げてきたからな。それにお前は熊谷の人間だから、そのあたりの場所にも詳しいのだろう?」
「私はあまりそのあたりへは行ったことがありませんけど」
「まあそれでも構わぬ。帰郷のついでと思って一緒についてこい」
「はあ。承知しました」

 数日後、真田範之介と村上右衛門助、それに寅之助の三人は江戸を出発して中山道を北上した。村上は真田同様、千葉道場の実力者で、大兵肥満の大男であった。
 やがて熊谷宿に到着し、寅之助は実家の四方寺村へ、真田と村上は次の深谷宿へ向かうことになった。ちなみに下手計村は深谷宿の北郊にある。
 寅之助は二人を実家へ招いて歓待したいと申し出たが、真田が
「せっかくの招待だが、今回は親子水入らずで親孝行してやれ。いやなに、我々も深谷で飯盛女(めしもりおんな)たちとよろしくやってるから、明朝深谷で合流しよう」
 と言って一旦それぞれに別れることになった。
 翌日の尾高長七郎との勝負をひかえて、夜通し女と遊びほうけるほど真田は軽率な男ではない。純粋に寅之助に対して親子水入らずの場を作ってやったのだった。今度いつまた両親と再会できるとも限らない、そんなご時世になりつつあったからこその真田の配慮だった。



 この日、寅之助は実家に戻り、久しぶりに一家団らんの夜を過ごした。
 兄の茂吉は嫁を迎えていた。まだ結婚してそれほど経っていないので子どもはいない。それでも兄夫婦はすでに吉田家の当主であるかのようにふるまい、率先して家事を取り仕切っている様子だった。
「寅、市右衛門さんのところのお多恵ちゃんに顔は見せたのか?お前もそろそろ身を固める準備をせんといかんな」
 と兄が言った。
「いや、兄上。今回は近くまで出稽古で来たついでにちょっと立ち寄っただけなのです。またすぐ行かねばなりませんので顔は出せません」
「でもお多恵ちゃんももう十四だし、そろそろ結婚のことを考えているだろう。お前も嫁にむかえるつもりでいるのだろう?」
 赤とんぼの歌に「十五で(ねえ)やは嫁に行き」とあるように、この時代、女性の結婚年齢が低かったのは周知のことであろう。
「まだまだ剣術のことで頭が一杯で、それどころじゃありませんよ」
「まさか江戸で他の女子(おなご)を見そめたのではあるまいな?」
「そんなことはありません」
「仮に江戸に女子がいたとしても、お多恵ちゃんにはちゃんと言っておいてあげないと、向こうに迷惑をかけることになるぞ」
「だから、そんなことは決してありませんから」

 そして父の茂兵衛が、いくらか心配そうな表情をして寅之助に聞いた。
「で、最近、千葉先生の道場はどうなんだ?江戸や水戸では水戸様の関係者がおおぜい捕らえられていると聞くが、お前の周りは大丈夫なんだろうな?」
 第一話で少し触れたように、故千葉周作は水戸藩に仕えていた。そしてそのあとを継いだ次男栄次郎(えいじろう)、さらに三男道三郎(みちさぶろう)も水戸藩に出仕している。
 現在進行中の「安政の大獄」は、井伊大老による水戸派に対する弾圧という側面が強い。
 この弾圧は昨年、孝明天皇から水戸藩へ下賜(かし)された「戊午(ぼご)密勅(みっちょく)」に端を発しており(その詳細は割愛するが、幕府の頭越しに水戸へ勅諚(ちょくじょう)が下賜されたので幕府は激怒した)、さらに言えば井伊の弾圧の対象である「一橋派」とは、一橋慶喜を将軍候補として推していた人々のことであり、慶喜は水戸藩の生まれで、徳川斉昭(なりあき)の息子である。
 要するに水戸藩は井伊の天敵であったわけで、その水戸藩の過激派を粛正するためにおこなわれているのが「安政の大獄」であり、水戸藩との縁が深い千葉道場にとっても他人事ではなかったのである。

「ご心配には及びません、父上。私の周りにはそういった目にあった者はおりません」
「本当に大丈夫なんだろうな?お上に目をつけられることはないんだろうな?」
「私は頭が悪いのでよく分かりませんが、私の周りでは『ご大老を討つべきだ』というような事を言っている者もおりますが……」
 この一言で、一家団らんの夕べに一瞬電流が駆け抜けたように緊張が走った。父茂兵衛は狼狽(ろうばい)のあまり、持っていた酒の碗を落っことしそうになった。

「な、なんだと?お前、そんな大それた話を……!」
「あ、いや、ちょっと小耳にはさんだだけの噂ですから、父上。まさか、そんなことがある訳ないでしょう?本気になさらないでください」
「寅之助、冗談でも決して人前ではそんなことを口にしてはならん。でないと、お前も牢獄へ入れられることになるぞ」
「ははっ。要らぬご心配をおかけして申し訳ございません」
 と寅之助は深く頭を下げて謝罪した。
 茂兵衛は、息子を千葉道場へ送り出してしまったことを今頃になってようやく後悔しはじめていた。



 翌朝、寅之助は深谷宿へ行って真田たちと合流した。
 このあと三人は下手計(しもてばか)村を目指して北上していった。
 第二話で書いた通り、この尾高家のある下手計村と、渋沢家のある血洗島(ちあらいじま)村は隣接して並んでいる。両村は利根川のすぐ近くにあり、西が血洗島村で、東が下手計村である。
 そしてその中間に鹿島神社がある。尾高家と渋沢家の男たちは、この鹿島神社の近くにある練武館(れんぶかん)という道場で剣術の修行をしていた。周知の通り、鹿島神社の総本社は茨城の鹿嶋にある鹿島神宮で、建御雷神(たけみかづちのかみ)をまつっており、剣術や武道の信仰対象となっている神社である。

 三人は練武館の玄関に立った。
「頼もう!頼もう!」
 と真田が声を張り上げた。すると中から二人の男がやってきた。一人は丸顔の青年で、もう一人は端正な顔立ちをした少年だった。
「我々は江戸お玉が池の千葉道場の門弟でござる。尾高先生がおられたらご面会したい」
 と真田が言うと、丸顔の青年が答えた。
「おりますが、何のご用件でしょうか?」
「見ての通り。一手、お手合わせ願いたい」
 どう見ても、道場破り以外の何ものでもない。
 丸顔の青年はムッとした表情になり、少年と一緒に中へ戻ろうとすると、ふと寅之助の顔を見て
「あんた、どこかで見たことのある顔だな……」
 と言った。その次の瞬間
「あっ!」「あっ!」
 と寅之助と丸顔が同時に叫んだ。真田と村上と少年はあっけにとられている。
「あの高城(たかぎ)神社の時の!」

 丸顔は、渋沢栄一郎であった。隣りの少年は尾高平九郎(へいくろう)。尾高新五郎、長七郎の弟である。この時十三歳。

 栄一郎と平九郎が奥へ戻っていって、それからしばらくすると尾高新五郎と長七郎が三人の前に現れた。
「面白い。受けてたちましょう」
 と長七郎が一歩前に出てきて言った。
 話し合いの結果、最初に真田と新五郎が、次に村上と長七郎が、そして最後に寅之助と栄一郎が対戦することになった。
 有名な江戸の千葉道場から道場破りが来た、ということで道場の内には門人が、外には渋沢・尾高両家の親族、さらには近隣の住民たちがつめかけて試合を見守った。

 一試合目。真田範之助対尾高新五郎。
 お互い中段に構え、さかんに気合を飛ばしつつ慎重に(すき)をうかがうといった静かな展開から始まり、やがて激しい打ち合いの応酬となった。真田が得意の片手突きを出して攻撃すれば、新五郎はそれをうまくさばいて面を打って反撃に出るが、これも決まらない。その後も激しい打ち合いが続くものの、お互い決定的な一本を取ることができず、時間だけが経過していき、結局審判の裁定で「勝負無し。引き分け」ということになった。

 二試合目。村上右衛門助対尾高長七郎。
 どちらも巨漢である。しかしこの勝負は一方的な展開となった。
 村上は中段に、長七郎は右片手上段に構えた。村上がわずかに前へ出て攻撃に移ろうとすると、たちまち長七郎の上段から凄まじい一撃が飛んできて村上の面に炸裂した。二本目も、数合(すうごう)打ち合ったのち、その流れの中から長七郎はあざやかに返し胴を決め、あっさりと村上から二本奪った。
 このあと、試合前に申し合わせていた通り、村上の得意な柔術で長七郎に戦いを挑んだものの、逆に長七郎によって投げ倒された。しかし村上はそこから得意の寝技に持ち込んで長七郎を組み伏せようとしたところ、その寝技でも最後には長七郎にねじ伏せられ、面の防具をつかみ取られて完敗した。

 三試合目。吉田寅之助対渋沢栄一郎。
 五年前の再戦である。もちろん寅之助はもう、すね斬りなどは使わない。北辰一刀流の正攻法で栄一郎を攻めた。
 栄一郎の神道無念流は五年前よりさらに力強さを増し、何倍も強くなっていた。
 だがしかし、寅之助のほうは栄一郎以上に技量が上達していた。栄一郎と違って毎日剣術一本で修業しているのだから当然といえば当然だった。体格的にも寅之助は五年前と比べてかなり背が伸び、筋肉もたくましくなり、栄一郎に負けない力強さを備えるようになっていた。
 寅之助は乱戦の中から手堅く小手を二本取って、栄一郎を破った。
 しかし栄一郎は五年前のように激昂することもなく、あっさりと負けを認めた。寅之助としてはやや拍子抜けした感じだった。そしてお互いに礼を済ませて、それから引き下がっていった。

 両者の対戦結果は一勝一敗一分けという形になった。
 ただしその後、真田が長七郎に勝負を挑んだところ、村上同様、返り討ちにあって完敗した。自分より格上の真田、村上がかなわない相手に寅之助が勝てるとは思えなかったので、寅之助は長七郎に勝負を挑まなかった。
 この試合以降、尾高長七郎の名声は大いに上がり、関東一円で「天狗の化身」と呼ばれるようになるのである。



 試合が終わったあと両者は遺恨を水に流し、すぐに打ち解けた。そして新五郎は自宅で三人をもてなすことになった。
 なにしろ新五郎も徳川斉昭を尊敬し、水戸学に傾倒している男なのである。そしてその新五郎から教育を受けた栄一郎と長七郎も同じ尊王攘夷の思想を抱いていた。彼らが、江戸から千葉道場の人間が来たというのに政治談議をやらない訳がなかった。
 当然のごとく、一同は井伊大老の政策を批判し、徳川斉昭や水戸藩が苦境に立たされていることを慨嘆(がいたん)した。

 そのうち栄一郎が寅之助の隣りへやってきて、酒を片手に政治談議をはじめた。
「いや、あなたは本当に強くなった。いずれ必ず有名な剣客となって名をはせることになるでしょう」
「いえいえ、私なんてまだまだです。あなたのところの長七郎殿と比べれば、月とスッポンです」
「ハハハ。あの人と比べてはいけません。あの人は化け物なんですから」
 寅之助は栄一郎と話しているうちに、栄一郎は昔ほど剣術に情熱を抱いていない、ということが分かった。
(なるほど。今のこの人は、剣術よりも政治(まつりごと)のほうが好きなのだな……)

 栄一郎は話を続けた。
「それにしても、私はあなたたちがうらやましい。私も江戸へ出たい!今、世間では大変なことが起きているのに、こんな田舎にいたのでは江戸で何が起きているのかさっぱり様子が分からない」
「でも、先ほどお話をうかがっていたら、あなたはお嫁さんを取られたばかりと聞きましたが……」
 栄一郎は昨年の暮れ、新五郎と長七郎の妹で、かつ平九郎の姉にあたる尾高家のお千代を嫁にむかえていた。
「そうなんです。家族と家業にがんじがらめにされて、私はここを動けないのです!でもあなた、百姓なんて絶対にやるもんじゃありませんよ。私は三年前ひどい目にあいましてね。あのとき絶対に百姓なんかやめてやる!と決心したんですが結局父上になだめられて、考えを取り下げることになりました」
 これは渋沢栄一の有名なエピソードで、若年時のエピソードとして必ず持ち出される話なので知っている人も多いと思うが、血洗島村の領主、安部摂津守(せっつのかみ)の岡部陣屋で代官から五百両の御用金を命じられ、当時十七歳だった栄一郎は「父の名代なので一応父に確認してからお返事します」と言上したところ、「十七歳なら女郎でも買って遊蕩(ゆうとう)する年頃だ。五百両ごときの金は何でもあるまい。その方の一存で即座に承知せよ」と言われ、武士から嘲弄(ちょうろう)された事件である。このとき栄一郎は「百姓をやめる!」と父に訴えたのだった。

「でも家族を説得して必ず近いうちに江戸へ出るつもりです。その時はお玉が池にも伺うつもりですから、お互い力を合わせて国難を乗り切りましょう。なに、神道無念流も北辰一刀流もありません。同じ尊王攘夷の同志じゃありませんか」
「そうですね」
 と寅之助は気軽に返事をしたが、別に確固とした思想をふまえて答えた訳ではない。とりあえず周りが皆、尊王攘夷を唱えているので何の抵抗もなく雷同(らいどう)しているだけのことだった。

 良きにつけ悪しきにつけ、この頃の寅之助には政治思想などという感覚は、まだ(はぐく)まれていなかった。
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