第15話 鹿児島湾の卯三郎

文字数 8,973文字

 六月の晦日(みそか)(六月二十九日)、清水卯三郎は鹿児島湾にいるイギリス軍艦の甲板(かんぱん)から鹿児島の町を眺めていた。
 六月末とは言いながらも、西暦に直すと8月13日にあたり、夏まっ盛りの時期である。しかも南国鹿児島ということで、関東人の卯三郎にとってはとてつもなく暑く感じた。

 イギリスは薩摩藩に対して、生麦事件の犯人の処刑と、賠償金2万5千ポンド(約8万両)の支払いを要求していた。しかし薩摩藩は一向に受けいれようとせず、業を煮やしたイギリスは力ずくで条件をのませるために今回、軍艦七隻を率いて鹿児島湾へ乗り込んできた。
 その際、イギリスは薩摩藩と交渉するための文書翻訳係が必要だった。そこでその白羽の矢が卯三郎に当たり、卯三郎は今、こうして鹿児島湾の洋上にいるのである。

 卯三郎はイギリス艦隊の旗艦(きかん)ユーリアラス号に乗っていた。
 このユーリアラス号には、会話で交渉する際の通訳としてアレクサンダー・シーボルトとエーベル・ガウアーの二人が乗っていた。特にシーボルトは十六歳と若いわりに日本語が堪能(たんのう)で、すでに前日の薩摩藩との初交渉の際に通訳をつとめていた。
 ちなみにこのシーボルトは、三十五年前に「シーボルト事件」で日本から追放されたフィリップ・シーボルトの息子である。四年前に来日し、それ以来ずっと日本語を勉強してきたので会話はかなり達者なのだが、漢字が苦手で読解能力はそれほど無く、それで卯三郎が必要とされたのだった。
 イギリス艦隊の責任者はキューパー提督である。ただしイギリス公使館の代表としてニール代理公使も乗船しており、この二人が薩摩藩との交渉責任者ということになる。卯三郎はシーボルトやガウアーと協力して薩摩藩が提出してくる文書を翻訳し、このキューパーとニールに報告するわけである。

 この日、卯三郎が船の上から鹿児島の町を眺めていると、スイカなどの果物を積んだ小舟が数(そう)、岸からイギリス艦隊へ向かって来るのが見えた。それらの小舟はそれぞれイギリス軍艦に向かって()ぎ寄せていった。
(さては、昨日薩摩側に注文した野菜や果物を積んで持ってきたのだな)
 と卯三郎は思った。そしてしばらくそのやり取りを眺めていた。

 他の軍艦に向かっていった小舟は、イギリス側と会話が通じず意思疎通ができなかったようで、結局すべての小舟が野菜の販売をあきらめて帰っていった。ただし卯三郎のいるユーリアラス号では日本語が話せるシーボルトが対応したので、小舟に乗っていたスイカ商人たちは意思疎通をすることができた。
(それにしても恐ろしい形相をしたスイカ商人だな……。薩摩のスイカ商人は皆、あんな恐ろしい顔をしているのだろうか?)
 卯三郎は薩摩人たちの人相を見て、そう思った。

 卯三郎は「日本人がイギリスの軍艦に乗っている」ということを薩摩側に知られたくなかったので、物陰に隠れてシーボルトとスイカ商人たちとのやり取りをのぞいていた。
 すると何人かのスイカ商人が舷側(げんそく)のタラップを昇って甲板にあがってきたのだが、どうやらシーボルトと口論になっているようだった。
 そのうちシーボルトが大声で叫んで、水兵を呼んだ。これを受けて小銃を持った水兵が数十人、甲板に走ってきた。そしてスイカ商人たちを取り囲んで小銃を構えた。
(何だ何だ?一体何があったんだ!?)
 と卯三郎が驚いていると、結局スイカ商人たちはおとなしくユーリアラス号から降りはじめ、そのまま小舟に戻って漕ぎ去っていった。

 このあと卯三郎はシーボルトに「何があったのか?」と尋ねてみた。
「まったく野蛮な連中でした。私が制止するのを無視して次々と甲板にあがってきたのです。それで警戒のために水兵を呼んだのです。おそらく、商人を装った偵察部隊だったのでしょう」
 とシーボルトは答えた。

 ところがこれは、偵察部隊ではなくて斬り込み部隊だった。
 有名な薩摩の「スイカ売り奇襲作戦」である。
 スイカ商人は全員、薩摩武士が化けた偽物だった。彼らは全員、懐中に短刀を隠し持っており、イギリス側の油断を突いて数人で軍艦を奪取するつもりだったのである。
 だが見ての通り、他の艦では話が通じないため甲板にあがることさえできず、旗艦ユーリアラス号においては水兵たちに包囲され、結局奇襲をあきらめて帰っていったのだった。



 そしてこの日の夜、イギリスの要求に対する薩摩藩の回答文書がユーリアラス号に届けられた。
 卯三郎はすぐにシーボルトとガウアーと協力して文書を翻訳した。回答は概ね、次のような内容だった。
「人命より尊いものはなく、殺人犯を死刑にするのは当然である。しかし我々は行列を横切られたから、やむを得ず斬ったのだ。あなた方のイギリスでも同じような事があれば、押すとか突くとか、場合によっては斬ることもあろう。我々はむやみに人を斬ったのではない。また、いまさら犯人を見つけ出すことは難しい。この事件の責任は『大名行列を妨げてはならない』ということを条約に書かなかった幕府にある。そして今回のイギリス艦隊の来訪について幕府から何も聞いていないので、我々の一存では決められない」

 卯三郎たちがこの内容をニールに伝えると、ニールは大いに怒った。
 イギリスの要求に対し、何一つ満足な答えをよこさなかったのだから当然の反応と言えよう。



 翌七月一日、薩摩側の使者がユーリアラス号を訪問すると、ニールは面会を拒絶した。そして代わりにシーボルトがイギリス側の回答を読み上げた。
「交渉は決裂した。もはやキューパー提督に事態の解決を一任した。今後薩摩が談判を求める場合は、白旗を掲げて来ない限り応じない」
 談判決裂。事実上、イギリスが宣戦布告をしたも同然である。

 これを受けて、薩摩藩も臨戦態勢に入った。ただし薩摩側から先に手を出すことは差し控え、あくまでイギリスの出方を待つことにした。
 その両者の関係と歩調を合わせるかのように、天候もだんだんと悪化していった。



 翌日の七月二日。天候はいっそう大荒れとなり、どうやら台風が接近しているようだった。
 この日の早朝、まだ卯三郎が眠っている時にイギリス艦隊の別働隊が風雨をついて強襲をしかけ、薩摩藩の蒸気船三隻を拿捕(だほ)した。その三隻は重富(しげとみ)というところで拿捕されたあと、鹿児島市街の目の前にいる本隊のところまで牽引(けんいん)されてきた。
 どうやらその三隻はほとんど無抵抗のままイギリス側に投降したようだった。乗組員は二名を除いて、全員陸地へ脱出した。その二名はのちに捕虜としてユーリアラス号へ送られた。名前はオタニとカシワといった。

 イギリス側が蒸気船三隻を拿捕したのは、これを質にとって薩摩藩に賠償金を支払わせようとしたのだった。この蒸気船は薩摩藩がイギリス商人のグラバーから買い入れたものであり、イギリス側はこれらの船の総額が賠償金の三倍の価格、すなわち約7万5千ポンドであることを知っていた。それゆえ「これを質にとれば薩摩も折れて、賠償金の支払いを申し出てくるだろう」と思ったのである。


 が、これがまったくの誤算だった。
 逆に薩摩側は、この蒸気船の拿捕をもって「イギリスが戦闘を開始した」と受けとめ、砲撃を決意したのである。

 正午、天保山(てんぽざん)砲台からの砲撃を口火にして、他の砲台も一斉にイギリス艦隊へ砲撃を開始した。
 各砲台でひかえていた薩摩藩士たちは、イギリス艦隊の襲来に備えて来る日も来る日も砲撃訓練をしてきたので「待ってました!」とばかりに撃ちまくった。
 イギリスのアームストロング砲などの近代兵器には劣るとはいえ、そもそも鹿児島湾には桜島があり、海域がそれほど広いわけではない。薩摩藩の大砲でも場所によっては十分イギリス艦隊に届くのである。
 薩摩藩は十ヶ所の砲台に総計約80門の大砲を設置しており、そのうち二門は150ポンド砲と呼ばれる巨大な大砲だった。そしてこれらの大砲を砲身も焼けよとばかりに撃ちまくった。

 一方、イギリス側は困惑した。
 なにしろ、卯三郎自身もそうだったように、イギリス側は誰一人として戦争になるとは思っていなかったのである。
「幕府でさえ賠償金を支払ったのだから、一地方政府の薩摩が支払わないはずがない」
 と思い込んでいた。
 だからこそ、幕府から回収した多額の賠償金を、よりにもよってユーリアラス号の弾薬庫の前に山積みしていた。
 そのため賠償金を弾薬庫の前から移動させるのに手間取り、ユーリアラス号は二時間も反撃が遅れてしまった。
 また拿捕した三隻の蒸気船については、戦闘の邪魔となるので即座に焼却処分にした。これで薩摩藩は、賠償金の三倍の額にあたる蒸気船を失ったわけである。

 午後二時、ようやくイギリス艦隊は戦陣を整え、旗艦ユーリアラス号を先頭に単縦陣(たんじゅうじん)を組んで湾の北側にある祇園之洲(ぎおんのす)砲台へ攻撃に向かった。
 イギリス艦隊から集中砲火を浴びた祇園之洲砲台はあっという間に壊滅した。そして艦隊はそこから南下して、次の砲台を攻撃しようとした。そこは湾の中心部で、薩摩藩の主力砲台が集中している地域だった。



 この時、卯三郎は甲板(かんぱん)にいた。
 初めて目にする海戦の迫力に、ただただ圧倒されるばかりだった。
 ユーリアラス号はすでに二、三発被弾してはいたものの、今のところそれほど大きな被害は出ていなかった。
 卯三郎のいた部屋が急きょ負傷者の収容室とされてしまい、卯三郎はやむなく甲板へ出ていた。そのうち船内では水兵たちが忙しく走り回るようになり、卯三郎はそのまま甲板に残るかたちになった。しかし通訳のガウアーが比較的安全な場所を教えてくれたので、そこへ身をひそめてじっとしていた。
(まさか、本当に寅之助の言った通り(いくさ)になるとはな……。それにしても大砲とは何と凄まじいものだ。まるで山も崩れんばかりの迫力だ。ただ、あれだけたくさん撃っている薩摩の大砲がほとんどこちらへ届かないのは幸いだった……)

 風雨と砲煙によってさえぎられて戦場の様子がよく分からないものの、このユーリアラス号が今、単縦陣の先頭をきって進撃しようとしているのは、卯三郎にもなんとなく分かった。
(これは大将の船だから最後尾を行くものとばかり思っていたが、真っ先に進んで行っている。西洋の(いくさ)ではそういうものなのだろうか?)
 いや、そうでもないらしい。
 この時のイギリス艦隊は著しく指揮系統が混乱していたので、成り行き上、そうなっただけのようである。

 そしてこの卯三郎が隠れていたところへシーボルトもやって来て、一緒に身をひそめた。
 若いシーボルトは真っ青な表情をして憔悴(しょうすい)しきっていた。むろん、シーボルトも戦争になるとはまったく思っていなかったのだから憔悴するのも無理はなかった。
 卯三郎はシーボルトに話しかけた。
「いや、本当に酷いことになってしまいましたな」
「ええ、まったくです。でも、すぐに薩摩はおとなしくなるでしょう。これから我がイギリス艦隊が全力で薩摩を叩きますから」
 そう答えたあと、シーボルトは、ぼそっとつぶやくように言った。
「実は私、明日で17歳になるんですよ。でも、まったく酷い誕生日になったものだ」
「へえ~、そうなんですか……」
 と卯三郎が答えようとしたところで

 ドカーン!ドドーン!ズカーン!

 と爆発音が鳴り響いた。ユーリアラス号が数発の直撃弾を受けたのだ。
 卯三郎はすかさず
「あぶないっ!」
 と叫んでシーボルトに覆いかぶさるようにして伏せた。


 二人はしばらく煙に包まれていた。
 その煙が晴れると、二人の上にはいろんな破片がかぶさっていた。
 そして甲板は、地獄絵図になっていた。
 イギリス人が数人、粉々になっていた。
 どうやら甲板で直撃弾を浴びたらしい。が、そこには艦長クラスの指揮官も混ざっていたようだった。その近くでは、キューパー提督も倒れて軽傷を負っていた。
 また、甲板に設置されていた短艇に直撃弾を受けた近辺では、短艇や砲弾の破片を浴びた水兵たちが十数人、血みどろになって倒れていた。
 さらに舷側の砲門に飛び込んだ直撃弾があり、これによる被害でも多くの死傷者が出ているようだった。
 水兵たちは消火作業や負傷者の手当てのため、慌ただしく甲板上を駆け回っていた。

 シーボルトは卯三郎の下でガタガタと震えていた。
 卯三郎は、この光景に戦慄(せんりつ)した。
(これが、戦争の現実というものか……!)



 イギリス艦隊は、悪天候の影響もあり、湾の中心部の主力砲台に近づき過ぎたのだった。
 その主力砲台とは(しん)波止(はと)弁天(べんてん)波止(はと)(みなみ)波止(はと)大門口(だいもんぐち)天保山(てんぽざん)のことで、これらの砲台からイギリス艦隊の、特に先頭を進んでいた旗艦ユーリアラス号に集中砲火が浴びせられたのである。
 とはいえ、それらの砲台も後続のイギリス軍艦の砲撃で完全に破壊され、薩摩藩の全砲台が破壊された。と同時に、イギリス艦隊もこの砲撃戦でほとんどの艦で負傷者を出すことになり、負傷者数は薩摩側の四倍にのぼった。
 このあと、イギリス艦隊は傷だらけになりながらも攻撃を続行し、(いそ)集成館(しゅうせいかん)工場群を破壊した。そしてその近くに停泊していた琉球船の船団を焼き尽くし、さらに市街地の一割に相当する地域を焼き払った(ただし住民は事前に避難していたので無事だった)。

 まさに両者痛み分けという結果になった。



 砲撃戦が終わってしばらく経ったあと、卯三郎はガウアーから質問された。
「カシワとオタニという二人の薩摩人を捕虜にしているのだが、あなたはその二人を知っているか?」
「いいえ、カシワとオタニという薩摩人には心当たりがありません」
「そのカシワという男は英語を話すのだが、それでも心当たりはないか?」
(!それはひょっとすると……!英語を話す薩摩人でカシワ(柏)というのは、多分、松木(まつき)弘安(こうあん)先生のことではないか?)
「それでしたら心当たりがあります。是非その二人に会わせてください」

 ということで卯三郎が捕虜収容室へ行ってみると、やはりそのカシワというのは松木弘安だった。そしてオタニは五代才助(さいすけ)だった。後の寺島宗則(むねのり)と五代友厚(ともあつ)である。
 松木は卯三郎を見ると嬉しそうに微笑んだ。
「おや!こんなところで会うとは奇遇ですな、卯三郎さん」
「いやまったく。松木先生から英語を習ったおかげで、私もこんなところへやって来るハメになりました」
 と卯三郎は笑いながら答えた。

 松木弘安は薩摩藩を代表する蘭学者として江戸で有名だった。ただし松木はオランダ語だけではなくて英語も習得しており、この前年、幕府遣欧(けんおう)使節に参加してヨーロッパまで行ってきた一流の西洋学者である。そして松木は以前、江戸や横浜で卯三郎に英語を教えたこともあり、二人は語学を通して友人となっていた。

 そして五代才助も薩摩藩を代表する外国通で、今回イギリスによって焼却された三隻の蒸気船は、五代が、彼の友人でビジネスパートナーでもあるグラバーから購入したものだった。

 松木も五代も薩英の武力衝突を何とか避けようと直前まで尽力していた。二人ともイギリスの実力をよく知っており、戦っても無益であると分かっていたからだ。
 しかし結局二人の和平案は藩に受け入れられず、開戦前、二人は「船奉行」として蒸気船三隻の指揮をとるよう命じられた。そしてこの日、蒸気船・青鷹丸(せいようまる)に乗り込んでいたのだが、イギリス側がこれを拿捕しようとした際「一旦イギリス側に預けるだけ」として無抵抗なまま、ただし乗組員は全員脱出できるように交渉して、船をイギリス側に引き渡したのだった。

 五代は卯三郎から戦争の詳細を聞くと激しく怒った。
「だから(いくさ)なんか止めろといったんだ!今の我々がイギリスに勝てるはずがないだろう!」
 この五代の発言に松木が反応した。
「口で言っても分からないから仕方がない。しかし、これで攘夷が無謀であることを我が藩の石頭連中も分かっただろう」
「しかしイギリスもひどいではないか!せっかく俺が長崎で20数万両も出して買った蒸気船三隻を、いったん預けただけなのに勝手に焼き払ってしまうとは!こんなことになるんなら、やはり俺が艦と共に自爆して、なるべく多くのイギリス人を道連れにしてやるべきだった!」
「いや、五代君。だから私は『犬死にはやめろ』と言って自爆を止めたのだ。このさい、乗組員の命が助かっただけでも良しとすべきじゃないか」

 このあと二人は司令室に呼び出されてキューパー提督とニールに尋問された。
 そこで五代は
「我が薩摩は武勇を重んじる国柄である。陸上には死を恐れない十万の精鋭が待ち構えている。陸戦では貴国に勝ち目はない。無益な戦いはやめて、和平交渉の道を探るべきである」
 と答えて、イギリス側に和平を説いた。この五代の発言には多少大げさな表現があるとはいえ、確かに薩摩藩はこのとき五万人を動員していたと言われている。

 それでもニールは強硬策を唱えた。作戦を続行して、特に陸戦隊を上陸させて敵の大砲をすべて捕獲すべきだ、と主張した。
 けれどもキューパー提督は、そのニールの主張を拒絶した。十分な準備もないままでは作戦継続は困難と判断し、このまま艦隊を横浜へ帰還させる、という決断を下した。

 結局、この薩英戦争は「勝者無し」という結果になり、薩摩とイギリスの交渉はこのあとも継続されることになったのである。



 イギリス艦隊は鹿児島湾を出発して横浜へ戻ることになった。途中、修理しながらの移動だったので各艦バラバラで横浜へ向かった。
 卯三郎は帰路の途中、松木と五代を慰めるためラム酒を差し入れに持って来て、さらに二人の今後について尋ねた。
「それで、お二人は横浜に着いたあと、何か策がおありですか?」
「う~ん、幕臣の知友のツテを頼るぐらいしか今のところ、方策を考えてないが……」
 と松木は答えた。前年一緒にヨーロッパへ行った福沢諭吉や箕作(みつくり)秋坪(しゅうへい)といった幕臣をアテにしようと思ったのだ。
 一方、五代は
「横浜で外国の船に乗って上海へでも逃げられれば一番良いんだが……」
 と答えた。五代は上海のことならよく知っているので、しばらく上海で雲隠れしていようと考えたのだ。

 とにかく、薩摩藩の人間に見つかることは絶対に避けねばならない。
 もし二人が薩摩藩士に見つかれば
「蒸気船三隻を無抵抗でイギリスに渡した」「勝手に戦闘を放棄した」「勝手に敵に投降した」「敵の捕虜になったのに生きのびた」
 ということで切腹を言い渡される可能性が高い。薩摩藩の軍律はそれほど厳しいのだ。
 といって、幕府も危険なのである。下手をすると薩摩に言われるまま、二人を薩摩へ引き渡してしまうおそれもある。それゆえ、幕臣の福沢や箕作を頼るのも避けたほうが良いと思われた。また上海へ逃げるのも、長期の潜伏は資金的に難しいだろう。

 卯三郎は何とかして、この二人を助けたいと思った。
 松木が自分の友人だから、ということも当然あるが、さらに言えば
「これほど外国のことに詳しい人間を死なせてしまっては、あまりにも国家的損失が大きい」
 と感じたからだった。

 それで卯三郎は二人に提案した。
「いっそのこと、しばらく田舎に潜伏して、ほとぼりが冷めるのを待つというのはどうでしょう?」
「どこか思い当たる場所でもあるんですか?」
「私の実家の北武蔵です」
 結局、この案で決まりとなった。
 松木は、万一の時のためとして懐に持っていた二十五両をまるまる卯三郎に預け、すべてを任せた。



 数日後、ユーリアラス号は横浜に到着した。
 到着するとすぐに卯三郎は二人の釈放のために奔走した。まず横浜で貿易商をやっている友人でアメリカ人のユージン・ヴァン・リードに言って、二人をイギリス艦隊から釈放してもらいたいと頼んだ。このリードは松木の友人でもあったのでリードはすぐにOKして、キューパー提督にかけ合った。別にイギリス艦隊も二人を拘束しておくつもりはなかったので、すぐに釈放を許可した。

 このあとリードは小舟を手配してくれた。そしてこれに乗って二人は横浜から川崎まで行くことにした。この当時、東海道の神奈川・川崎間には数百メートルごとに監視用の見張りが設置されていた(生麦事件が起きたため、この地域の監視は厳重になっていた)ので、それを避けるために海上ルートをとったのである。
 さらにリードは二人に変装用として旅商人の衣服まで用意してくれた。まさに至れり尽くせりといったところである。
 余談ながらこのリードは、のちの慶応三年の話として、高橋是清(これきよ)が勝海舟の息子小鹿(ころく)たちと一緒にアメリカへ留学する際、高橋をだまして奴隷としてアメリカ人に売り払った男として有名である。

 それはさておき、松木と五代の二人は強風のため小舟が思うように進まず苦労したが、数時間後、夜の十時頃に鶴見か川崎のあたりに上陸して、そのあと道に迷いながらも夜が明ける頃には六郷(ろくごう)の渡し(多摩川)を渡った。そしてそこからは顔を隠すため駕籠(かご)に乗って、先に卯三郎が行って待っていた日本橋小舟町(こぶなちょう)の船宿へ向かった。
 先に小舟町で待っていた卯三郎は、二人の到着が遅いので
(二人とも薩摩の人に捕まってしまったんじゃないだろうか?)
 と心配したが、二人の駕籠は昼頃になってようやく到着し、卯三郎も安心した。この日はそのまま船宿で休んで、翌日、三人は浅草の瑞穂屋(みずほや)へ向かった。



 瑞穂屋は主人の卯三郎が不在のため、しばらく休業していた。
 卯三郎が戸を開けて店の中へ入ってくると、二階から寅之助が、スイカをほおばりながら降りてきた。
「おや、卯三郎さん、おかえり。それで、鹿児島はどうだった?何か面白いことでもあったかい?」
 この寅之助の話し声を聞いて、卯三郎はドキッとした。今の卯三郎は「鹿児島、薩摩」という単語には非常に敏感なのである。
 卯三郎は唇に指をあてて「シイー」と黙るよう、寅之助にうながした。
 けれども寅之助には、その意味するところが分からず、キョトンとした。

 卯三郎は、旅商人の姿をした松木と五代を店の中へ招き入れた。
「中へ入って一休(ひとやす)みなさってください」
「かたじけない」

 その二人を見つめていた寅之助は卯三郎に「どちらさん?」と聞いた。
 卯三郎は答えた。
「寅之助。急な話ですまないが、これから我々と一緒に、我らの地元、北武蔵まで同行してくれないか?」
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