第1話 北武蔵の人々。寺門静軒、根岸友山、清水卯三郎

文字数 7,656文字



 幕末は、嘉永(かえい)六年(1853年)にアメリカのペリーが黒船に乗ってやって来たことによって始まった、と一般的には言われている。
「日本はアメリカの巨大な力によって開国させられたのだ」
 と信じ込んでいる日本人も少なくないだろう。
 これではまるで「アメリカは当時から『現在のような覇権国家』だった」とでも言わんばかりの言い草だ。しかし当時のアメリカは新興国家の一つに過ぎず、「実際に覇権国家だったイギリス」には遠く及ばない存在だった。
 なにしろこの八年後にアメリカは南北戦争に突入し、日本の幕末維新に関与している余裕などなくなってしまい、そのあと実際に日本を開国させる役割は覇権国家イギリスが引き受けるようになるのである。

「アメリカは当時から現在のような覇権国家だったのだ」
 などといったこのような誤解がまかり通る原因は、嫌味な言い方をすれば
「現在のいわゆる占領憲法(日本国憲法)を作ってくださったアメリカ様の威光を配慮して、言論界や教育界がこのような印象操作をおこなっているのではなかろうか?」
 といった疑念が多少なりともない訳ではないが、これはまあ蛇足(だそく)であろうから聞き流してもらいたい。

 ところで、そのペリーは翌年一月に再び日本へやって来て幕府と日米和親条約を締結した。
 念のために述べておくと、この和親条約によって日本が「開国」させられた訳ではない。下田と箱館(函館)で水、食料、石炭などを有料で供給する、といった約束を取り決めた程度の条約である。
 横浜などの貿易港を開き、日本が「完全な形で開国」させられるのは四年後の修好通商条約、いわゆる「安政五ヶ国条約(不平等条約)」によってなされるのであって、その後、日本国内では尊王攘夷(そんのうじょうい)派が条約破棄、あるいは鎖港(さこう)(港の閉鎖)を数年にわたって叫び続けることになるのである。



 幕府とペリーが条約を結んだ年、すなわち嘉永七年(1854年)はのちに改元されて安政(あんせい)元年となるのだが、この年の夏、寺門(てらかど)静軒(せいけん)という老人が江戸から熊谷へやって来た。
 今も昔も、熊谷の夏は暑い。
 静軒は当年とって五十九歳である。当時ではかなりの高齢と言える。この暑中に、年老いた静軒がわざわざ江戸から熊谷まで出向いてきたのは、一人娘であるマチの婚礼を見届けるためだった。

 寺門静軒は当時の著名な文士である。
 この二十年ほど前に『江戸繁昌(はんじょう)記』という本を書いて一躍有名になった。森銑三(せんぞう)氏の『人物逸話辞典』(東京堂出版)には次のような逸話が載っている。
 静軒が『江戸繁昌記』の出版を本屋に頼んだところ「こんな内容じゃ売れるはずがない」と断られた。それでも静軒がしつこく食い下がったので本屋も渋々出版を了承した。果たして出版されるや、人々の評判となって大いに売れた。それでその本屋はお()びのために五十両の金をもって静軒のところへやって来た。すると静軒は
「以前、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が『膝栗毛(ひざくりげ)』を出した時も無理に頼んで出してもらったのが大いに当たって、本屋は百両の詫び金を持参したそうだ。俺の『江戸繁昌記』の価値はその半分か」
 と嫌味を言ったという。とにかくこれで静軒は一流文士の仲間入りをすることになり、鳴かず飛ばずの貧乏生活から抜け出すことができた。

 ところがその後しばらくすると水野忠邦(ただくに)の「天保(てんぽう)の改革」が断行され、厳しい言論統制が敷かれるようになった。そして案の定、静軒の『江戸繁昌記』もその網に引っかかって幕府から処罰をうけたのである。この時の言論統制では為永(ためなが)春水(しゅんすい)柳亭(りゅうてい)種彦(たねひこ)といった大物文士も処罰をうけ、彼らは不運にも非業の死をとげるにいたった。ただし彼らほど大物でもなかった静軒は「武家奉公御構」(武家への士官の禁止)という比較的軽い処罰で済んだ。
 水戸藩士の次男として生まれた静軒は、名君との誉れ高い藩主・徳川斉昭(なりあき)に儒学者として仕官することを切望していた時期もあった。けれども彼は結局水戸藩に登用されず、士官の道をあきらめざるを得なくなり、自分を「無用の人」と名乗るようになった。その屈折した心境から、江戸社会をシニカルにながめた『江戸繁昌記』という本を書いた訳であるが、それはともかく、この処罰以降彼は江戸での暮らしに見切りをつけ、諸国遊歴の旅に出た。

 静軒は主に北関東を遊歴して回り、様々な人々と交遊した。
 それらの中に武州(ぶしゅう)大里(おおさと)甲山(かぶとやま)村の根岸家と武州幡羅(はたら)四方寺(しほうじ)村の吉田家があった。
 この二つの村は、現在の行政区分で言えば熊谷市にあたる地域であり、根岸家と吉田家は当地の豪農である。

 静軒の娘マチの嫁ぎ先は、その根岸家だった。
 事実上の当主は根岸友山(ゆうざん)という男である(ただし友山は、後述する事情によってすでに名主役を若年の息子武香(たけか)にゆずっている)。
 その友山の末弟三蔵(さんぞう)がマチの婿殿(むこどの)にあたる。三蔵三十四歳、マチ二十三歳。当時としては両人ともやや晩婚ということになろうか。
 一応三蔵は寺門姓を名乗り婿入りのかたちになる。といってもマチは甲山に住むことになるので、これはちょっと寺門家への養子入りとは言えないであろう(実際静軒の死後、三蔵は根岸姓に戻ることになる)。余談ながら三蔵は絵を学んでおり、現在残っている有名な寺門静軒の肖像画を描いた人物でもある。

 静軒の妻はこの年の一月、四十七歳で亡くなった。それはちょうどペリーが再来して江戸で騒ぎが起きていた最中のことだった。
 『江戸繁昌記』の筆禍(ひっか)事件以来、諸国を遊歴して妻と娘に留守番をまかせることが多かった静軒は、一人で留守をあずかることになった娘が忍びなく、旧知の根岸家へ嫁がせることにしたのであった。

 甲山の根岸家では婚礼の儀式がつつがなく執り行われ、静軒は万感の思いをこめて一人娘の式典を見守った。
 甲山(かぶとやま)は現在冑山(かぶとやま)という地名になっている。熊谷市の最南端にあって東松山市と隣接しており、東松山の国営武蔵丘陵(きゅうりょう)「森林公園」の少し東方に位置している。ちなみに冑山が熊谷市に合併されたのは平成十七年のことで、それ以前この地域は大里町(おおさとまち)と呼ばれていた。

 式が終わったあと静軒は姻戚(いんせき)関係となった友山と酒を()み交わし、様々なことについて談じ合った。根岸家は酒造業も営んでいるので飲んでいるのはもちろん自家製の酒である。

 友山は、自身も幕府から処罰をうけた経験があったので静軒とウマがあった。
 文化六年生まれの友山はこの年四十六歳。根岸家は百五十年以上前からこの地を治めてきた大地主である。
 熊谷を代表する人物といえば、やはり何と言っても熊谷直実(くまがいなおざね)であろう。
 現在はともかく、この当時、(たいらの)敦盛(あつもり)を討ち取った熊谷直実を知らない人間はいない。『平家物語』は無論のこと、織田信長が好んで舞ったといわれる『敦盛』(「人間五十年」という有名な舞)、さらに歌舞伎や文楽(ぶんらく)などで演じられる『一谷(いちのたに)(ふたば)軍記(ぐんき)』(「一枝(いっし)(子)を切らば一指(いっし)(子)を切るべし」の制札で有名な劇)などで多くの人々に知られていた。
 根岸家はその熊谷直実の末裔(まつえい)を称している。それゆえ友山も武芸に励んだ。秩父を中心にして北武蔵一帯に広まっていた剣術・甲源(こうげん)一刀流を学んだあと、江戸で千葉周作に北辰(ほくしん)一刀流を学び、自邸にも「振武所(しんぶしょ)」という道場をつくった。また学問にも力を入れ、多くの学者を自邸に招いて「三余堂(さんよどう)」という塾を開いた。静軒もその際に招聘(しょうへい)された学者の一人で、両者の付き合いはすでに三十年以上におよんでいる。

 その友山が幕府から処罰をうけたのは十数年前のことだった。
 甲山の近くには和田吉野川があり、さらにそれが合流する荒川がある。荒川は文字通り「荒れる川」で、この地域はたびたび荒川の水害にみまわれていた。
 天保十年(1839年)甲山など十カ村の農民数百人が、河川の治水工事にからむ役人の不正を追及して強訴(ごうそ)を起こした。この強訴は、参加した農民たちが蓑笠(みのかさ)を身につけていたので「蓑負(みのおい)騒動」と呼ばれている。
 現在の独裁国家の為政者(いせいしゃ)がそうであるように、この当時も、農民が強訴や一揆を起こした際の為政者(幕府)の対応はまさに「苛政(かせい)は虎よりも(たけ)し」といった具合で、この事件に関与した者はことごとく処罰され、友山も事件の二年後に「未然に事件を防ぐ努力をしなかった」として幕府から「江戸十里四方への追放」すなわち「甲山村からの追放」という処罰をうけた。もちろん名主役も辞めさせられた。ただしこれについてはのちに、まだ幼かった息子武香に引き継ぐことが認められた。
 実はこの追放刑が赦免(しゃめん)されるのは安政六年(1859年)のことで、友山は十八年間にわたって追放の身であった訳だが、甲山の領主・幕府旗本の筒井(つつい)政憲(まさのり)が友山に同情的だったこともあって友山を上州(現在の群馬県)の筒井領へ転居させ、さらに友山が時々甲山へ帰宅するのもわりかし自由に放任していた。それで友山は、この婚礼式の時も甲山に帰ってきていたのだった。

 友山は酒を()み交わしながら静軒に思いのたけを語った。
「我々しもじもの者にはいつも居丈高な幕府も、外国人にはてんでだらしがないじゃありませんか。長崎行きを拒み、無理やり江戸湾に乗り込んで来た無礼な外国人に対して一戦も交えず、下田と箱館を開いて手打ちにするとはあまりにも不甲斐ない対応だと思いませんか?」
「どうも飲み過ぎのようですな。そんな過激な発言がお上に聞こえたら、今度は追放刑では済みませんぞ」
「なに、構やしません。ここは久しぶりに帰ってきた私の家です。誰に遠慮する必要がありましょうか。まったく幕府は不甲斐ない。武士もだらしがない。二百五十年も(ろく)を取りつづけ、我々農家が彼らを食わせてきたのは何のためか?こういう時に外敵を打ち払うためでしょう?あー、まったく無様だ。情けない」
「誰もあんな黒船がやって来るなんて想像もしていませんでしたからな。ずっと太平の世がつづくものだと私自身も思っておりました」
「いささか申し上げづらいが、むかし先生が書かれた『江戸繁昌記』も、そういった雰囲気をただよわせていた内容でしたな」
「私はもうすぐ還暦だ。お上のご政道に口を差し挟むつもりもないし、あなたのように悲憤(ひふん)慷慨(こうがい)する気力もない。一学者として余生をおくるつもりです。我々しもじもの者がご政道に口を差し挟んだとて、何がどうなるものでもないでしょう」

「しかし水戸様(徳川斉昭)が幕政を担当されることになれば、幕府や武士も少しは奮い立つのではありませんか?」
 と友山は言いかけて、止めた。
 水戸藩の武家の生まれでありながら水戸藩に仕官することがかなわなかった静軒にとって、水戸藩の話は「古傷に触る話」であることを友山はよくよく承知していたからだ。

 言うまでもない話だが、水戸藩はこのあと尊王攘夷の総本山となって幕末動乱の時代を大暴走し、最終的には大潰走(かいそう)することになる。

 そして友山は、このあとその水戸藩ならびに長州藩との関係を深めていき、尊王攘夷の道へと突き進むことになるのである。
 友山の剣術の師匠である千葉周作は水戸藩に出仕しているため、このころ千葉道場に通っていた志士たちで尊王攘夷に染まらなかった人間はいない。
 ちなみにこの当時江戸の三大道場として有名だったのは千葉道場(玄武館(げんぶかん))の他に斎藤弥九郎(やくろう)神道(しんとう)無念(むねん)流(練兵館(れんぺいかん))、桃井(もものい)春蔵(しゅんぞう)鏡新(きょうしん)明智(めいち)流(士学館(しがくかん))があり、「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」という(幕末の剣客松崎浪四郎が語ったと言われる)セリフで有名である。これらのうち、斎藤弥九郎の練兵館も水戸藩と長州藩との関係が深く、のちにここからも多くの尊王攘夷家が輩出され、特に長州の桂小五郎が塾頭をつとめるようになってからは長州系志士たちの巣窟といった様相を呈するようになる。

 元来静軒も、水戸人である。それゆえ「楠公(なんこう)」すなわち楠木正成(まさしげ)を崇拝するなど尊王の気持ちは人一倍強いものの、静軒の場合は江戸住まいが長いせいもあってかなり世間ずれしており、友山のように観念論を振りかざすことを好まない。また言論統制によって自分を罰した幕府のことをうらんでいるのは確かだが、友山ほど過激に幕政を批判するつもりはない。
 老い先それほど長くもない自分が今さら何を唱えたところで、世の中が変わるとも思えない。
 この段階においては静軒は無論のこと、友山でさえ「この十数年後に幕府が倒れる」などとは夢にも思っていない。
 幕府によって築き上げられた太平の世を長く過ごしてきた静軒からすれば
「まさか自分が生きているうちに幕府が倒れるなんて、そんなことはあるはずがない」
 と考えるのも当然だろう。
 しかしながら静軒は思いのほか長生きをして、この十数年後、亡くなる直前に幕府が倒れるのを目撃することになるのである。



 静軒は根岸家に数日間滞在したのち、甲山から数キロ北にある熊谷宿へと向かった。
 このとき付き添いとして友山の(おい)、清水卯三郎(うさぶろう)が同行した。
 卯三郎の清水家は埼玉郡羽生(はにゅう)(現在の埼玉県羽生市(はにゅうし))の名主である。卯三郎の母は友山の妹で、清水家と根岸家は縁戚にあたる。

 清水卯三郎、この時二十六歳。
 かつては伯父(おじ)の友山から学問の手ほどきを受け、さらに静軒からも学問を学んでいたのだが、この頃は蘭学に強い興味を持ちはじめていた。きっかけは友山のところで学んでいた時に司馬江漢(こうかん)(これより半世紀以上前に活躍した蘭学好きの絵師)が書いた絵を見たことだったらしく、のちに尊王攘夷の道へと突き進むことになる友山の足元からこのような蘭学好きが生まれるというのだから皮肉な話と言えよう。
 卯三郎は数年前、静軒に紹介状を書いてもらって「蘭癖(らんぺき)大名」で有名な堀田正睦(まさよし)の佐倉城下へ行って佐藤泰然(たいぜん)(有名な蘭方医・松本良順(りょうじゅん)の実父で、順天堂大学の源流を作った蘭方医)に蘭学を少しだけ教えてもらったこともあった。

「せっかく先生に紹介状を書いてもらったのに結局佐倉ではあまり蘭学を学ぶことができず、今は独学を続けています。いずれロシアの使節が再びやって来るでしょう。その時は筒井様の一行に加えてもらって、箕作(みつくり)先生に教えを請うつもりです」
 歩きながら卯三郎は、静軒に思いのたけを語った。
 静軒は軽く相づちを返したものの
(まったく友山といい卯三郎といい、話が大き過ぎてどこまで本気で考えているのか分からぬ。アメリカやロシア、オランダのことなど、我々町民とは何の関係もない話だろうに)
 と(いぶか)しい思いだった。
 ささいなことで幕府から罰せられた静軒からすると「町人が幕政に関与するなど、とんでもないことだ」との意識が強く、卯三郎の奇抜な発想についていけなかった。

 ちなみに「ロシアの使節」とは、アメリカがペリーを日本へ派遣したのと並行して、ロシアが日本へ派遣したプチャーチンのことを指している。
 先に日本に到着したのは浦賀に来たペリーで、プチャーチンはその一月半後に長崎へやって来た。その際、長崎においてプチャーチンと交渉したのが幕府大目付(おおめつけ)の筒井政憲で、もう一人は有名な川路聖謨(としあきら)だった。この交渉のあとプチャーチンは一旦長崎から退去したものの、ペリーが日米和親条約を締結したという情報をいずれ入手し、ロシアとも同様の条約を締結するよう求めて遠からず再来日するであろう、ということは誰の目にも明らかだった。

 先述したように筒井政憲は友山の甲山の領主で、追放刑になった友山に情状酌量(しゃくりょう)を与えていた人物である。卯三郎はこのコネを利用して、ロシアとの交渉役にあたっている筒井の一行に加えてもらおうと考えた訳である。
 先に結果を述べてしまうと、この卯三郎の目論見はまんまと成功し、この年の十月にプチャーチンが下田に来日した時、卯三郎は筒井の一行に加わって下田へ行くことになる。そして当時もっとも高名な蘭学者、箕作(みつくり)阮甫(げんぽ)と接触して本格的に蘭学修行の道へ進むことになるのである。
 余談ながら好奇心旺盛な卯三郎はこの時、片言のロシア語でプチャーチンに話しかけたりもしたようだが、別にそれで幕府から処罰されたりはしなかった。ただし、この下田行きに同行したおかげで日露交渉の最中に発生した安政東海地震に下田で直面することになり(十一月四日に発生)、大津波がおそった下田の町から命からがら近くの山へ逃げのびるハメになる。そしてプチャーチンが乗っていたディアナ号は津波で大きな被害を受け、後日沈没するのである。さらに余談を付け加えると、この地震の余波として翌日には安政南海地震が、そして十一ヶ月後には(安政二年十月二日)安政江戸地震が発生するのである。



 二人は荒川南岸の村岡村に着くと渡し船に乗って荒川を渡り、熊谷宿に入った。

 今も昔も熊谷は、このあたり一帯を代表する繁華な町である。
 なぜ筆者がこのように確言できるかといえば、現在、あまり知られていない話だが、熊谷駅には新幹線が止まるのだ。
 いや。それだけでは筆者の言にそれほど信憑性が感じられないかもしれない。
 それではこれならどうだろう?
 これもあまり知られていない話だが、明治初年の一時期、熊谷は浦和と県庁所在地を争い、現在の埼玉県西部と群馬県全域を含めた地域は“熊谷県”と呼ばれ、その県庁が熊谷に置かれていたこともあったのだ。
 ウソではない。ホントの話である(明治六年から九年までの三年間だけだが)。

 とにかくこの時代、熊谷宿は中山道随一の宿場町だった。
 中山道では板橋宿に次ぐ人口を擁し、絹・綿織物や家具製品などの産業で栄えていた。ちなみに熊谷宿には「風紀を乱す」との理由から飯盛女(めしもりおんな)(宿場女郎)は置かれていなかった。逆に隣りの深谷(ふかや)宿は、渓斎英泉(けいさいえいせん)が『木曽街道六十九次』の名所絵で描いているように飯盛女を多数かかえていることで有名だった。

 静軒と卯三郎は熊谷宿に入ってから旧知の人々を訪ねて回った。ただし二人の目的地はこの熊谷宿ではなく、このあと熊谷宿北郊の豪農、吉田家へ行くつもりだった。
 先述したように静軒は昔から根岸家同様、吉田家とも付き合いがあった。そして卯三郎の清水家は吉田家の親戚なのである。

「先生、吉田家へ行く前に高城(たかぎ)神社へ寄って行きましょう。そこに面白い奴がいるはずです」
「どんな奴だ?」
「吉田の分家の(せがれ)で、まだガキですが、なかなか見どころのある奴です」
「お主が興味を持つガキということは、そいつは相当な悪ガキだろう。お主もガキの頃は素行不良で手がつけられなかったというではないか」
伯父上(おじうえ)もまた静軒先生にくだらないことを吹き込んだもんだ。まあ否定はしませんけどね」
「あまり無茶なことばかりしていると、いずれワシや友山のように幕府からお(とが)めを受けることになるぞ。で、そのガキは何故神社におるのだ?」
「今日そこで剣術の大会があるのです。それにそいつも参加しているはずです」
「子どもだけの大会か?」
「いいえ。大人も出ます」
「そいつ、歳はいくつだ?」
「今年もちょうど寅年ですが、前の寅年に生まれたので十三歳です。それで、名前も寅之助(とらのすけ)です」

 何を隠そう、彼こそがこの『北武の寅』の主人公、吉田寅之助である。
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