第33話 三都狂乱

文字数 11,310文字

 将軍徳川慶喜が朝廷に大政を奉還した、という情報に接した寅之助が、長崎から船で大坂へ戻ってきたのは十月下旬のことだった。

 上陸した寅之助は、大坂の町に異変が起きていることに気がついた。
(人々がこのように踊り狂っているのは、やはり大政奉還の影響なのか……?)

 この頃すでに、いわゆる「ええじゃないか騒動」が大坂で発生していたのである。

 太鼓や笛、三味線(しゃみせん)を鳴らしながら
「ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか!」
「くさいものに紙を張れ、やぶれたらまた張れ!」
 などと叫んで人々が町中で踊り狂っていた(「くさいもの」の部分がもっと卑猥(ひわい)な掛け声、まあ、ありていに言うと「女性の陰部」を表す掛け声のパターンもあった)。

 人々は赤い着物、もしくは青や紫の着物を着て、男は女装を、女は男装をするなどして、夜にもなれば頭の上に赤い提灯をかざしながら踊り狂っていた。

「空から伊勢神宮(天照(あまてらす)大神)の御札が降ってきて人々がそれを祝った」
 というのが通説だが、実際には伊勢神宮だけではなくて様々な神社の御札が出回り、しかも「降ってきた」というよりも、ほとんどが「御札拾いの状態」だったようである。

 ところで、このお祭り騒ぎが「いつ、どこで、始まったか?」については諸説あるようだが、七月中旬に東海道の名古屋、岡崎、豊橋あたり、すなわち現在の愛知県のあたりで始まったと見るのが定説であるらしい。そしてそれが東は江戸へ、西は京坂地域をこえて中国四国地方まで広まった。
 とはいえ、江戸や東国ではそれほど大きな騒ぎにはならず、どちらかと言うと京坂地域や西国で熱狂的なお祭り騒ぎとなったようだ。それは、この当時の時代背景を色濃く反映していたとも言える。
 というのは、この時代の勢力分布を単純に図式化すれば、薩長などの西国諸藩が「改革派」で、幕府や会津などの東国勢力が「保守派」となる。この騒ぎが薩長の仕かけた民衆扇動であったかどうかはさておき、「新しい世」が来ることをうっすらと予感していた西国の民衆は、それに期待と不安を抱きつつも「ええじゃないか!」と騒ぎまくってヤケクソとはいえ「改革」を受け入れていたのであろう。幕府びいきで「保守派」の東国人と違って、朝廷や薩長びいきの西国人にはそういった下地があったと思われる。

 大坂と京都で「ええじゃないか」が始まったのは十月二十二日のことで、このあと一ヶ月以上、この騒ぎは続くことになる。


 寅之助は大坂の別手組本部へ出頭し、大政奉還について同僚に確認してみた。
 しかし、ここで聞く話も、長崎で聞いた話と大して変わりがなかった。要するに幕臣ですら「いったい今、幕府に何が起きているのか」それが理解できない状態だったのである。おそらく慶喜と幕閣の一部を除けば、ほとんどの者がそういう状態だったであろう。

 同僚の鈴木は寅之助に説明した。
「結局のところ、これまでと何も変わりはない、ということさ。“大政”という名前だけ朝廷へお返しするが、実際の政治(まつりごと)はこれまで通り、上様がお()りになるということなのだから」
「本当にその程度で済む話なんですかね?私が聞いた話では、土佐の山内家が上様に大政を奉還するよう建白して、これからは朝廷を頂点に戴き、諸侯会議を開いて政治(まつりごと)を執り行なうと聞きましたけど」
「だから、それこそまさに『名前だけ』ということなのさ。政治のことなど何も知らない朝廷や諸侯が寄り集まったところで、政治などできるはずがないだろう?大体彼らは我々と違って外国人と直接交渉したこともないんだ。外国人と交渉するのがどれだけ大変なのかも知らず、まったく好き勝手なことばかり言っている。結局どのみち最後には、我々幕府が引き続き政権を担うことになるさ」
「まあ、確かに外国人は京に入ったこともありませんからね。朝廷が外国人のことを何も知らないのは当然です」
「もう兵庫開港まで一月(ひとつき)ちょっとしかない。そろそろ開港に備えて、またイギリスなど諸国の公使たちが兵庫へやって来る頃だ。それだって、我々幕臣が開港の準備や警備を受けもつのだから、結局のところ、これまでと何も変わりはないということじゃないか」
「だけど、大政を奉還するというのはただ事じゃありませんよ。薩長が(いくさ)を起こすという噂もあります。幕府が大政を奉還したのは、薩長との戦を意識したものだったんじゃないですか?」
「それはそうだったかも知れないが、とにかくこれで、薩長は(いくさ)を起こす大義名分を失った。結構なことじゃないか。兵庫開港を控えているというのに、外国人の目の前で戦なんかやっていたら、我が国の恥を海外にさらすようなもんだ。それでも薩長が強引に戦を起こすというなら、受けて立とうじゃないか。我が幕軍は数万の軍勢だ。最新鋭の軍艦、開陽もある。薩長の軍など木っ端微塵にしてくれるわ」



 それから数日が経ち、十一月初旬、大坂の天保山(てんぽうざん)沖にイギリスの船がやって来た。
 上陸したイギリス人は、またもやサトウとミットフォードだった。
 彼らは前回と同じように中寺(なかでら)町の本覚寺(ほんかくじ)に入った。
 二人が大坂へやって来たのは、大政奉還の実態を確かめるためと、一ヶ月後に迫った兵庫開港・大坂開市の準備をするためだった。

 この時サトウは自分専属の別手組を六名、江戸から連れて来ていた。そのため、サトウが出歩く際は大坂の別手組は警備をしなくてもよくなった。これはまったくサトウ独自の例外措置であって、通常「どの外国人に誰を付けるのか」は幕府が別手組を手配していたのだが、日本の各地を盛んにウロチョロと動き回るサトウとしては別手組の手配でいちいち幕府とやり取りするのが面倒なため、自分専属の別手組を自宅(高輪の高屋敷(たかやしき)という家)に住まわせるよう幕府と交渉して、了承を得たのだった。

 それでも、寅之助たち大坂の別手組も一応数名、本覚寺の警備用として派遣された。
 寺に着くと寅之助は、サトウのところへ着任のあいさつにいった。
「おお、タイガー寅之助じゃないか。久しぶりだな。でも今回は江戸から自分の別手組を連れて来てるから、君の世話にはならないよ」
「それはこちらとしても大助かりだ。また夜な夜な芸者の店まで同行させられては、こっちもかなわんからな」
「そう言えば、寅之助は関東の人間だろう?だったら私の別手組に入れてやろうか?そうすれば江戸へ帰ることができるぞ」
「そいつはありがたい申し出だが、今、この忙しい時期に大坂を離れるわけにもいかんだろう。いずれまた機会があれば、よろしく頼む」
「そうか……。でも、私は嬉しいね。大坂へ来るまで、日本人がこんなに兵庫開港を喜んでいるとは知らなかったよ。町中で『いいじゃないか、いいじゃないか』と歌って、兵庫開港を祝っているじゃないか。とうとう日本人も攘夷を捨てて、皆、開国になったということだね」
「いや……、あれは別に、そういう意味じゃないと思うが……」
「でも、奉行の柴田は『これは兵庫開港を祝う祭だ』って言ってたよ」
「へえ……、柴田様がねえ……」
 ちなみにこの「奉行の柴田」とは、元外国奉行で、二年前にパリでモンブランとケンカしていた、あの柴田剛中(たけなか)のことである。柴田はこの当時、大坂町奉行兼兵庫奉行という、来たるべき兵庫開港・大坂開市にかかわる要職に就いていた。

「ところでサトウさん。あなたは今回の大政奉還のことをどう思う?」
「ハハハ。それを調べるために私はわざわざ大坂へやって来たんだよ。だからまだ何も分からないよ。こっちが寅之助に聞きたいぐらいだ」
「いや、私が知っていることなんて、そこらへんで言われている噂話と大差ない代物さ。むしろ、薩摩や長州と親しいあなたのほうが、我々幕臣よりも今回の政変の舞台裏をよく知っているはずだろう」
「フフフ。寅之助、君は私を買いかぶり過ぎだよ。私は今回の政変について事前に何も知らなかったのさ。残念ながらね」
「あなた程の情報通が知らなかったとは、ちょっと信じがたい話だな」
「いや、本当に日本人は大したものだよ。あれだけ何度も私と会っていながら、こんな奇策を用意していたなんて少しも私につかませなかったんだからね」
「それは薩長のことか、それとも上様のことか、どちらのことを言っているのか?」
「その両方さ。ずる賢さで言えばね。我々が見えないところで両者はいろんな駆け引きを行なっているようだ。けれど、駆け引きなんかで決着はつかないだろう。おそらくいつか、腹を決めた方が兵を動かすだろう」
「敢えてお尋ねするが、あなたの予想ではどちらが兵を動かして、どちらが勝つと見ているのか?」
「さあね。それが分かれば苦労はしないよ。……でも寅之助。君たちの相手は、君たち幕臣ほどノンキじゃない。気を引きしめてかからないと、足をすくわれるよ」
「……」



 このあと、京都で坂本龍馬が暗殺され(十一月十五日)、同じく京都で新選組の内紛から伊東甲子太郎(かしたろう)や藤堂平助などが殺された(十一月十八日)。奇しくも三人とも寅之助と同じ北辰一刀流の門下生だが、このとき別手組に勤めていた寅之助にとっては関知すべきことでもなかった。

 そんなことよりも、寅之助にとってこの十一月の後半はまったく慌ただしい日々の連続だった。
 まず外国人のこと。
 十二月七日(西暦1868年1月1日)の兵庫開港・大坂開市を目前に控えて、英仏蘭米伊普(プロシア)の六ヶ国代表が続々と大坂へやって来て公使館や宿舎の設定、さらに兵庫(厳密には神戸村)での領事館や宿舎の設定をおこなったので、彼らを警護するために連日あっちこっちへと飛び回った。
 しかも大坂湾には十二月七日の開港式典に合わせて英仏米の軍艦十八隻が次々と集結していたのである。一応日本側にも幕府の開陽丸など数隻の軍艦はいたものの、これら多数の外国軍艦による威圧感が低減するわけでもなかった。とはいえ、この頃になってもまだ大坂では「ええじゃないか」が続いていたので、もうほとんどヤケクソになっていた大坂の町民からすれば「もう矢でも鉄砲でも持って来い!」といったところではあった。

 そして日本人のこと。
 これらの事と並行して、この十一月の後半には薩摩藩主の島津茂久(もちひさ)忠義(ただよし))ならびに西郷吉之助が率いる兵士三千人が続々と大坂に上陸し、それから順次、京都へ向かった。この時の兵員輸送には例の春日丸(元の名前はキャンスー号)も使用された。
 そして十一月二十九日には長州藩兵約千人が西宮(にしのみや)に上陸した。
 これら薩長軍の到来を幕府が問題視したのは言うまでもない。が、実は外国人、特にイギリスのパークス公使が
「これらの軍勢は兵庫開港の祝典に水を差すものである」
 として薩長軍の撤兵を「幕府に」対して求めた。
 それはまあ、幕府としても薩長軍を撤兵させたいのはやまやまなのだが「それが出来れば苦労はないわ!」と言いたかったであろう。

 そんなこんなで、大坂にいた寅之助はこの間ずっとてんやわんやの大忙しだった。

 そして十二月七日、とうとう兵庫が開港され、大坂が開市となった。
 兵庫沖と大坂の天保山沖では多数の外国軍艦が日の丸をひるがえし、正午にあわせて二十一発の礼砲を撃ち鳴らした。そして午後には陸上で各国の代表団がにぎにぎしく式典をおこなった。
 寅之助たち別手組も威儀を正した服装で警備につき、この式典を見守った。


 この二日後に京都の御所で「王政復古のクーデター」が決行されようとは、寅之助は夢にも思っていなかった。
 いや、寅之助に限らず、幕府の人間は誰一人として予想してなかったに違いない。
 と言いたいところだが、実は幕府の最高責任者である慶喜や側近の板倉勝静(かつきよ)などは決行の三日前、クーデター実行側の後藤象二郎から松平春嶽に漏れ伝わったクーデターの情報を、春嶽が慶喜のところへ派遣した中根雪江から聞かされていた。

 けれども慶喜は何もしなかった。
「大政を朝廷へ奉還した以上は、王政復古、すなわち朝廷が政権の座に戻るのは当然のことである」
 といった理由から慶喜はクーデターを黙認した、と少なくとも本人は後年、そのように語っている。実際、クーデターを排除するための実力行使には多大なリスクがあり、そのリスクを背負うだけの胆力が慶喜になかったのは事実である。それゆえ慶喜も黙認せざるを得なかった。

 以前書いた通り、薩摩藩は「幕府主導で兵庫開港を進められては、大坂での貿易で大きな利益を得ている我が藩は経済的に枯渇する」と危惧していた。そこで薩摩藩はこの兵庫開港のタイミングでクーデターを実行したわけである。
 クーデターの直後に小御所会議が開かれ、岩倉具視の主導のもと摂政・関白・将軍職が廃止され、新しく総裁・議定(ぎじょう)参与(さんよ)の職が置かれることになった。
 そして「辞官(じかん)納地(のうち)」すなわち慶喜の官職(内大臣)辞任と徳川領の削封(さくほう)(四百万石から二百万石への削封)が決定したのである。

 このクーデターに合わせて、西宮にいた長州兵が京都へ向かって進軍し、京都郊外の光明寺(こうみょうじ)(現、長岡京市粟生(あお))に入った。さらにその一部は入京を果たし、禁門の変以来およそ三年半ぶりに帰京した。



 むろん、京都の幕臣および会津・桑名藩士たちはこの薩摩のクーデターに怒り狂った。
 二条城に集まっていた彼らは口々に「即時開戦!薩摩討つべし!」と叫び、もはや爆発寸前の状態だった。
「大政を奉還した将軍家に対して挙兵するとは何事か!」
「諸大名を京に集めて会議を開くと言っていたのに、薩摩が二、三の公卿と謀って幼冲(ようちゅう)の天子を擁し、好き勝手なことをやろうとしているではないか!」
「このまま放っておけば、いずれ徳川家は朝敵にされてしまう。もはや議論は無用である。速やかに討薩(とうさつ)(ひょう)を立てて君側の奸を取り除くべし!」
「出兵の命が一度(ひとたび)下らば、死を以って二百余年の徳川家の恩に報い奉らん!」

 このように、今にも御所の薩摩勢に攻めかかる勢いだった兵士たちを、慶喜が止めた。
「もし予が切腹したと聞けば、そなたたちの思う通りにするが良い。だが、予がこうしているうちは予の命に従え。決して妄動(もうどう)してはならぬ」
 クーデターを仕かけられる前ですら実力行使を決断できなかった慶喜が、すでに薩摩勢に占拠されてしまった御所に対していまさら攻めかかるなど、できるはずもなかった。下手をすれば禁門の変で朝敵となった長州の二の舞である。

 そこで慶喜は、京都で不測の事態が起きるのを避けるため、全軍を率いて大坂城へ向かった。慶喜が京都を出発したのは十二月十二日の夜のことだった。

 幕府軍の前衛部隊は翌日、大坂に入った。このとき進軍して来た幕府軍の様子は、それを京橋北方の道端で見物していたアーネスト・サトウが、詳しく日記に書き残している。
 まず、防寒用の布を頭にまいた、あまり勇壮とは思えない雑多な兵士の一団がやって来た。それから陣笠をかぶり華やかな陣羽織を着た槍隊が歩いて来て、さらに伝習隊が続いた。この伝習隊はフランス式兵制の部隊である。つづいて、また雑多な兵士の一団がやって来て、彼らは槍、旧式銃、新式銃、刀と、まちまちの装備で進軍していた。

 そしてそのあと騎馬の一隊がやって来て、サトウの周囲の日本人は皆、ひざまずいた。その騎馬隊の中に上様、すなわち慶喜がいたからである。サトウは立ったまま脱帽して敬礼した。
 サトウが見たところ、慶喜は黒い頭巾で顔をつつんでいたが、顔はやつれ、悲しげな表情に見えた。その騎馬隊には板倉勝静、松平容保、松平定敬などもいた。
 そして軍勢はその後も延々と続いていた。なにしろ総勢一万数千の部隊である。この大部隊が急きょ大坂へやって来たのだから城内は大混雑となった。

 この幕府軍の下坂(大坂下向)については戦略的または戦術的に様々な見方ができるであろう。
 冷静に見れば、この下坂は決して悪い策ではない。
 なにしろ大坂城は天下の名城である。名ばかりの城である京都の二条城とは比較にならない防御力を誇っている。さらに大坂湾を押さえることによって京都への物流を遮断することができ、しかも大坂湾にいる開陽丸などの幕府艦隊と連携して作戦を立てることもできる。
 すなわち、京都の薩長軍は補給や兵の増強が不可能となり、逆に大坂の幕府軍は自由にそれをおこなうことが可能となるのである。そして京都は古来、守りに適さない土地で「守勢が不利、攻勢が有利」というのは歴史を知っているものであれば常識である。大坂から京都へ反攻するのは決して難しくない。
「やり方次第では、決して勝てない戦ではない」
 と誰もが考えるだろう。

 しかし、サトウは慶喜たちが下坂してきたのを見て
「もう幕府は万事休すだ」
 と考えた。
 幕府が天皇と御所を手放したからである。
 戦略的にはそこが一番重要で、幕府が天皇と御所を手放したのは大失敗だった、とサトウは見たのだ。
 慧眼(けいがん)と言うべきだろう。
 確かに、その戦略的な失敗を戦術面で取り戻すことも、机上の計算では、というか後世の後知恵からは可能なようにも見える。けれども果たして、それを成功させるだけの力量が幕府軍、なかでもとりわけ慶喜にあったかどうか。
 サトウは別に知っててこのように書いたわけでもなかったが、水戸の生まれで、しかも有栖川宮家(ありすがわのみやけ)の血を引く慶喜は、なによりも「朝敵」となることを極度に恐れる男であった。

 ともかくも、慶喜はひたすら戦いを避け、持久戦に持ち込んで相手が勝手に自滅するのを待つことにした。戦争するリスクを取らないで勝つには、この方法しかなかったからだ。



 二日後、下坂してきた一万数千の幕府軍がようやくすべて大坂に収まり、寅之助は松吉の宿舎を訪問した。
 松吉は幕府軍の一員として、京都に妻子を残したまま大坂へ下ってきたのだった。松吉は心配そうな表情で寅之助に尋ねた。
「吉田先生。一体いま、京と大坂では何が起きているのでしょう?我々一兵卒には何が何だかさっぱり分かりません。なぜ上様が京から離れなければならなかったのですか?」
「いや、それは俺にも分からない。我々大坂の人間は皆、それこそ今回の急な上様と幕軍の下坂に驚いているんだ。噂で聞いたんだが、二条城では薩摩と開戦一歩手前だったのだろう?」
「はい。皆が薩摩の御所占拠に怒りをむき出しにしていました。もちろん、私も薩摩が憎いです。でも、あのとき薩摩と開戦していたら、三年前の大火からようやく立ち直りつつある京の町が、また焼けてしまったかも知れません。もしそうなったら、女房や子供がどうなることか、という心配もありました……」
「まだその危険が無くなったわけじゃない。これから京か大坂で(いくさ)があるかも知れない。この際、妻子はどこかへ避難させたほうが良いんじゃないのか?」
「一応そのことは女房の両親に託してますけど……」
「それにしても、まさかこんな事になるとはな……。俺や篤太夫さんが集めたお前たち農兵が、いまや幕軍となって、そして京を去って大坂に下ることになろうとは、思いもよらなかった。いや、当時一橋公だったあのお方が将軍様になるということすら、あの時は思いもよらなかった。それが今やその将軍職も辞めさせられている。まったく、俺のほうこそ『何が何だかさっぱり分からない』と言いたい気分だよ……」

「でも、この大坂城があり、それに開陽などの立派な軍艦もあるのだから、我々が薩摩に負けるわけがないですよね?」
「もちろんだとも。薩摩に大坂城や開陽を倒す力なんてあるわけがない。兵士の数もこちらのほうが何倍もある。もし(いくさ)になっても必ず我々が勝つ」
「以前、兵庫に外国艦隊が来た時も、そのあとの長州征伐の時も、私は戦を覚悟しました。けれど、結局、戦にはなりませんでした。そして今回も、上様は戦をお避けになっておられるようです。ですから、今回も戦にならないのでは?とも思うのですが……」
「それは俺にも分からない。実は俺も、これまで何度も戦を覚悟した経験がある。だが、その都度すべて、戦にならなかった。だから俺は今まで一度も戦を経験したことがないんだ。それでも、さすがに今回は戦になる可能性が高いような気がする。だけど、今回ほど戦になって欲しくないと切望したことはない」
「なぜですか?」
「それは、俺が今、お前たちの部隊から離れて別手組にいるからだ。もし戦になった場合、多分、我々別手組は外国人の警護のため戦線には出られないだろう。お前たち農兵を戦線に送り出しておきながら、お前たちを集めてきた俺が一緒に戦えないなど、とても我慢がならん」
「ご心配いりません、吉田先生。もし戦になれば、我々が日ごろ訓練してきた成果を思う存分発揮して、先生や渋沢さんの分まで活躍してみせますとも。なに、薩摩なんて一撃で倒してやりますよ。なんせ私としても、さっさと京から薩摩を追い出さないと、いつまで経っても京の家族に会えませんからね」
「松吉……」




 一方この頃、寅之助の師匠である根岸友山は、北武蔵の地で大勝負に出ようとしていた。
 かねてより自邸の振武所(しんぶしょ)で養成していた手勢五十名を率いて、甲山(かぶとやま)から熊谷まで出陣してきたのである。

 この頃、関東は風雲急を告げていた。
 武力倒幕を決意した薩摩藩が京都や大坂だけでなく、同時に関東でも火の手をあげようとしたのは、幕府軍の背後をついて関東から京坂へ援軍を送りづらくさせるためであり、戦略的に見れば至極当たり前の行動である。

 そこで薩摩藩は十月初旬、益満(ますみつ)休之助(きゅうのすけ)伊牟田(いむた)尚平(しょうへい)を江戸へ送り込んで江戸およびその近郊で攪乱(かくらん)工作をおこなわせた。
 そして、こともあろうに薩摩藩は「天璋院(てんしょういん)様ご守衛のため」と称して公然と浪士を募集しはじめた。天璋院とは、むろん天璋院篤姫(あつひめ)のことで薩摩から江戸城へ入った先々代の御台所(みだいどころ)(将軍の正室)のことである。「江戸城内にいる天璋院」を薩摩藩が守衛するとは意味不明というか、取りようによっては相当挑発的な物言いとも言えるが、この一触即発の緊張状態のなかでは幕府も黙認せざるを得なかった。

 この浪士募集で江戸の薩摩藩邸には数百人の浪士が集まった。
 その中に権田(ごんだ)直助(なおすけ)や竹内(ひらく)もいた。
 以前、天狗党が挙兵した際に「この隙をついて一気に江戸を攻める」と根岸友山が計画を立てたことがあった。そのとき一緒に決起しようとしていたのが、この権田と竹内だった。
 またこれらの浪士の中には(さくら)国輔(くにすけ)や根岸門下の小川香魚(こうぎょ)および小島直次郎などもいた。いずれも北武蔵(埼玉)の男たちである。

 十一月末頃、竹内啓が薩摩藩邸の浪士から一隊を率いて出流山(いずるさん)(現在の栃木県栃木市)へ向かった。そして出流山の満願寺(まんがんじ)で武装蜂起した。
 このすぐ近くの栃木宿では三年前、天狗党の田中愿蔵(げんぞう)隊が暴れたことがあったが、まさに天狗党の乱の再来といった観があった。以前書いたように、竹内も権田も、そして友山も熱烈な尊王攘夷の徒であり、その点でも天狗党の乱と大いに共通点がある。

 幕府はすぐに軍を差し向けて出流山勢の鎮圧にとりかかった。
 そしてこれに合わせて、友山も手勢五十名を率いて出陣したのである。

「出流山勢を討伐する幕府軍に参加するため」
 という名目で出陣したのだが、竹内の友人である友山がそんなことをするわけがない。本当の目的は幕府軍の背後を突いて挟み撃ちにすることだった。

 ところが友山たちが熊谷に着いてすぐに幕府側から
「貴様たちは竹内の仲間ではないのか?」
 と嫌疑をかけられた。

 簡単に見抜かれてしまったわけである。
 友山は必死で言い訳をしてなんとかこの場を切り抜けた。そして甲山に帰って隊を解散し、知り合いの尊王攘夷家とやり取りした書類をすべて焼却した。後々の追及を恐れて証拠隠滅したのだった。

 こうして友山の最後の大勝負は、見事に失敗した。
 思えば友山の挙兵計画は、清河八郎の浪士組に参加して以来ことごとく不発に終わっている。とはいえ、おかげで命を保つことができたとも言える。

 出流山で挙兵した竹内たちの手勢は十二月十日を過ぎた頃に幕府軍の攻撃によって蹴散らされ、およそ百名のほとんどが戦死、または処刑された。竹内ものちに捕縛され、二十四日に松戸で斬首された。享年四十。

 薩摩藩が集めた浪士たちは出流山の他に、相模荻野(おぎの)の山中陣屋(現在の厚木市下荻野)を焼き討ちし、また甲府城の焼き討ちに向かった手勢は八王子で捕えられたりした。
 そして浪士たちは江戸で次々と豪商に押し入って強盗をはたらき、さらに出流山討伐に向かった幕臣の自宅を襲ったりした。また豪商への押し入りなどは、こういった騒ぎが起きた時には常に付き物だが薩摩藩の名をかたった偽の強盗も現れ、とにかく江戸の治安は乱れに乱れた。

 そのため、江戸の治安を守っていた新徴組(しんちょうぐみ)は目が回るほどの忙しさとなった。
 ちなみに新徴組に入っていた友山の甥、清水五一は、すでに結婚して子供も生まれていた。そしてこの年の春に家族と一緒に庄内へ移っていたので、このとき江戸にはいなかった。
 が、それはともかく、庄内藩お抱えの新徴組だけではとても手に負えないほど江戸の治安は乱れていた。

 浪士たちの拠点が三田の薩摩藩邸であることは、もはや明々白々だった。
 そして十二月二十三日、浪士たちが三田の庄内藩屯所に鉄砲を撃ちかけ、さらに同日、江戸城で火災が発生して二の丸が焼失した。この二の丸には天璋院が住んでおり、この火災は「天璋院を奪い去ろうとした薩摩による放火である」との噂が広まった。


 さすがにこれで、優柔不断な幕府でさえも、ついにキレた。
 翌二十四日に即日「薩摩藩邸の焼き討ち」を決定した。
 そしてこの日の夜に庄内藩など佐幕派諸藩に出陣を命じ、それら諸藩の兵は翌朝、およそ二千の兵で三田の薩摩藩邸を包囲した。攻撃作戦は軍事顧問のフランス人ブリュネが立案し、主に大砲を活用して攻撃した。
 かたや薩摩側の兵は二百人ほどしかおらず、しかも大砲まで撃ち込まれたのではひとたまりもなかった。藩邸内にいた浪士たちはバラバラに打って出て、一部は包囲を突破して逃げのびたが、多くは戦死、または捕虜となった。

 権田直助はこの時たまたま薩摩藩邸を出払って京都へ行っていたので無事だった。しかし桜国輔と小川香魚は、包囲は突破したものの最終的には逃げきれず死亡し、小島直次郎はそれ以前に別の事件が原因で死亡していた。



 なんにしても、これで幕府は薩摩に宣戦布告を叩きつけた形となった。
 大坂城にたてこもってひたすら戦争を避けようとしていた慶喜の思惑も、これで完全に崩れ去ってしまったのである。

 
 通説では、こういった関東における薩摩系浪士たちの暴走は
「幕府を挑発して戦争(鳥羽伏見の戦い)に導くために、西郷吉之助が江戸で仕かけた罠だった」
 と言われることが多い。

 しかしその一方で
「西郷は江戸での暴走など望んでおらず、西郷の同志である吉井幸輔(こうすけ)も浪士たちに暴走しないよう戒める手紙を二度も送っている」
 という意見もある。

 この江戸での暴走が鳥羽伏見につながったのは、確かに「偶然の要素が強かったのだろう」と筆者も思う。
 けれども、この偶然を「西郷が望まなかった」ということはあり得ないだろう。

 幕府軍にずっと大坂城にこもっていられては、京都の新政府はなす術がない。
 大坂の幕府軍は海上補給でどんどん強化され続け、その一方で補給路を断たれた京都の新政府はやせ細るばかりなのである。またあるいは、慶喜や幕府軍に江戸へ帰られて江戸城と大坂城の双方に籠城されることになっては、薩長は大いに攻めあぐねてしまうだろう。と言うかそれ以前に、攻めるための大義名分すら得られないのだ。

 幕府軍を野戦に引きずり出す以外、薩長側には勝つ方法がない。

 確かに戦力を考えれば薩長側は不安だらけで、戦争の直前に西郷の心が揺れるのは当然である。
 だが、薩摩はすでに「大バクチ」の鉄火場に身を預けてしまっているのだ。「負ければ死あるのみ」と。

 偶然であれ何であれ、とにかく(さい)は投げられた。
 この賽を投げる形が出来上がった事を、西郷が望まなかったはずはない。
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