第17話 横浜襲撃計画、再び

文字数 8,420文字

「前回の最後の場面で渋沢栄一郎が語った『横浜襲撃計画』とは一体何ぞや?」
 ということについて、以下しばらく考察してみたい。

 彼も述べていたように、この四ヶ月前には清河八郎が「それ」を計画して失敗し、暗殺された。その顛末(てんまつ)については第十三話で書いた。その頃はちょうど生麦賠償金問題が紛糾していた頃でもあり、日英関係が一触即発の関係にあった。それゆえイギリス人が多数住んでいる横浜が標的にされたのである。けれども、幕府が生麦賠償金を支払ったことによって日英の衝突は(鹿児島は別として)避けられるかたちとなり、横浜には平和が戻った。
 という訳ではない。
 この物語でずっと取り上げてきたように、四年前に開港されて以来、横浜は常に紛争の地であった。
 攘夷の標的、それはとりもなおさず「横浜」なのである。尊王攘夷を信奉する人々にとっては。
 だからこそ幕府もその勢いに抗しきれず、五月十日の期日をもって、一応「本気にしないでくださいね」と各国代表に言い訳してはいるものの
「朝廷に命じられたので鎖港(さこう)します(港を閉ざします)。外国人は出て行ってください」
 という「外国人追放令および鎖港令」を諸外国に通告したのである。
 ちなみに幕府はこの後、この鎖港令に本気で取り組む姿勢を見せるようになり(と言っても無論、取り組むフリをするだけの事なのだが)、イギリスとフランスへ「横浜鎖港の交渉使節」まで派遣するようになる。ただしそれはもう少し先の話である。

 とにかく横浜はそういう場所なのであった。
 この時代、横浜を焼き払おうとした日本人は清河や渋沢だけではない。この頃、ちょうどイギリスへ密航留学に行っている伊藤俊輔(のちの伊藤博文)も、後年、次のように語っている。
「横浜襲撃などはこの当時、朝飯前の話で格別どうのこうのと話す価値も無い。実はそんなことを企てたこともあった。今から考えると意味不明な企てだった」
 なにしろ伊藤の恩師的な存在である「洋学派」の来原(くるはら)良蔵(りょうぞう)でさえ、この一年前に横浜襲撃を企てたぐらいだった。が、もちろん未遂に終わり、彼は(それが直接の原因では無いが)切腹してしまったのだった。



 さて、渋沢栄一郎が計画した横浜襲撃計画には多くの人々が関与していた。

 まず栄一郎の師匠的な存在である尾高新五郎。
 彼は以前、弟の長七郎が安藤老中を襲撃しようとしたのを思いとどまらせたことがある。それぐらい冷静な性格をしている彼が、今回の横浜襲撃計画には賛同した。
 そして栄一郎の相棒として一緒に志士活動をしている渋沢喜作は、もちろん賛同している。また栄一郎や喜作が出入りしていた千葉道場では、真田範之助など数名の剣客がこの計画に参加することになった。
 あと、栄一郎としては「天狗の化身」こと長七郎にはどうしても戦力として加わって欲しい。そこで栄一郎は京都の長七郎に「帰郷して計画に参加して欲しい」と人づてに連絡した。なので、おそらく近々戻ってくるはずである。

 この間、栄一郎は(あい)の買入れ用として父から預かった三百両を持って江戸神田柳原町の武具問屋を訪れ、刀や着込み(鎖帷子(くさりかたびら))などの武具を密かに注文した。そしてそこで入手した武具は利根川の川船を利用して血洗島村まで運んだ。さらに新五郎も密かに武具を手配したので合計すると百人分の武具を調達できた。これらはすべて渋沢家と尾高家の藍玉倉庫に保管しておいた。ただし鉄砲は調達しなかった。なにしろ当時は「()り鉄砲に出女(でおんな)」と言われるぐらい幕府は鉄砲の取り締まりに敏感で、入手が困難だった。また仮に入手できたとしても発覚する危険性が高いので調達を見送った。

 横浜襲撃の具体的な計画は次の通りである。
 まず上州の高崎城を攻める。
 夜中に百姓の直訴を装って城門を開けさせ、その隙に城内へ乱入して城を奪取する。小説『里見八犬伝』の滝田城奪取の謀略を参考にした。
 それから鎌倉街道を南下して横浜を目指す。
 この鎌倉街道(上道(かみのみち))は古道なので現在は断片的にしか残ってないが、高崎から児玉、日高、所沢、府中、町田を経て鎌倉へ至る街道のことで、町田からは横浜と八王子を結ぶ絹の道、すなわち八王子街道を通って横浜へ向かうことになる。「いざ鎌倉」ならぬ、「いざ横浜」といったところである。
 このルートを取る理由は、江戸の中心部を避けたほうが進軍しやすい、ということもあろうが、おそらくそれ以上に「鎌倉幕府を倒した新田義貞(よしさだ)」の縁起をかついで小手指原(こてさしがはら)分倍河原(ぶばいがわら)を通りたい、ということであっただろう。
 そして襲撃予定日は一陽来復(いちようらいふく)の吉日、すなわち冬至(とうじ)の日である十一月二十三日(旧暦)と決定した。

 ちなみに、この栄一郎たちの計画とは別に、ほぼ同じ頃に、ほぼ同じ方法で、しかも渋沢家のある血洗島村のほぼ隣り村と言っていい阿賀野(あがの)村で、桃井(もものい)儀八(ぎはち)(可堂)という人物が同じく横浜襲撃を計画していた。
 しかもなんと、こちらの計画も襲撃予定日は同じ一陽来復の十一月二十三日なのである。
 実は動員した人数で言うとこちらの桃井のほうが多く、約三百人だった。一方、栄一郎たちは約七十人である。
 桃井の計画が栄一郎たちと異なっている点は、こちらは決起の盟主として、それこそ新田義貞と同族の岩松(新田)満次郎という人物を据えようとしたことだった。もう一つ異なっている点は、栄一郎たちが狙うのが高崎城だったのに対し、桃井はもっと北の沼田城を奪取して、それから鎌倉街道で横浜を目指す計画だった、ということである。

 こうして栄一郎たちと桃井の計画を見比べてみると、この二つの計画が無関係だったとは到底思えない。
 実際、この両者はお互いの計画を知っていたようで、一時は合同する案も出たようだが、結局「お互い別々でやろう」ということになった。というのは、栄一郎たちが桃井の案、特に岩松満次郎を盟主として仰ぐのに消極的であったこと、さらに桃井たちが失敗した時に連座するのを恐れたから、ということだったようである。


 ともかくも、寅之助が栄一郎から聞いた横浜襲撃計画とは、概略、こういった話であった。

 そして栄一郎は当然、寅之助に参加を求めた。
「あなたのように剣の腕が立ち、尊王攘夷の志が強く、しかも横浜の事情に詳しい人がどうしても必要なのです」

 寅之助としては、二つ返事で承諾、というわけにはいかなかった。
「大筋では参加したいと思います。ただ、身内の問題とか、いろいろとあるのでしばらく時間をください」
「それはそうでしょう。なにしろ幕府に対する決起ですから、我々も一大決心が必要です。実は私もまだ身内の問題を残したままで、これから父を説得しなければならんのです。まあ、決起までまだ時間は十分あります。少しずつ計画を進めて、冬至には必ず横浜を攻め落とし、夷狄を日本から追い出しましょう」


 決起まであと三ヶ月ある。
 寅之助は「おそらく三ヶ月後に死ぬことになるだろう」と思った。
 ほかならぬ渋沢栄一郎の頼みだ。しかも真田さんや千葉道場の連中も参加するのだから、自分が参加しないなんてことはあり得ない。
 そしてこの計画を実行すれば、成功、失敗の如何にかかわらず、まず死ぬことになるだろう。
(彼らと一緒に討ち死にするのなら、尊王攘夷の志士として、それほど悪い死に方じゃないかもな)
 ふと、そんなふうに思った。

 問題は友山先生のことだ。
 これはやはり、友山先生には黙って参加するしかあるまい。
 栄一郎から「他言無用」と言われたこともあるが、それ以上に、友山先生に言うと止められる可能性がある。
 友山先生は友山先生で、長州などの尊王攘夷派による決起計画に参加するつもりだろう。そして自分も、先生と一緒にそちらの計画へ参加することになるはずだ。
 しかし今回の栄一郎たちの計画はまったく草莽(そうもう)の(在野の)決起計画だ。
 おそらく先生はこの計画に賛成なさるまい。そして自分を止めようとするだろう。
 弟子の自分としては、その命には逆らえない。
 だから、先生には黙って、独断で参加するしかあるまい。

 家族やお多恵のことは、別段、特にない。縁を切ってもらうしかあるまい。
 いつかこういう日がやって来ることは、元より覚悟していたことだ。


 寅之助はそんなことを考えながら、市右衛門家の離れの家屋に入った。中では松木と二郎が海外の話をしながら囲碁に興じていた。五代はいなかった。

 と思ったら、寅之助が部屋に入るとすぐに後ろから五代が現れ、寅之助に話しかけてきた。
「おい。横浜襲撃なんぞくだらんぞ。やめとけ、やめとけ」
 これを聞くやいなや、寅之助は素早く五代のほうを振り向き、恐ろしい表情をしてキッとにらみつけた。
「悪かったな。まあ、そんな怖い顔をするな。たまたま外にいて、耳に入ってしまったんだ。でも俺に聞かれたって大した事じゃないだろう?今の俺は世捨て人だから誰にも告げ口はできないのだし。とにかく、横浜襲撃なんぞやめておけ」
「なぜ横浜襲撃がくだらんのですか。五代さんは上海を見てきたのでしょう?私は長州の高杉晋作さんに話を聞いたことがあります。上海はイギリスの植民地のようになっているそうじゃないですか。そりゃ当然、清国の長髪族だって上海を攻めようとするでしょう。我々はそれと同じことをしようとしているだけです」
「ほう。君は高杉君と会ってたのか。それは奇遇だ。俺は彼をよく知っている。なるほど確かに彼は攘夷家だ。しかしその彼でさえ、実はイギリスに行きたがってたんだ。なぜなら、イギリスは強い。そのイギリスの強さを知らずして、また吸収せずして、攘夷など不可能だからだ。横浜を破壊すれば、イギリスとの接点を失い、その強さを吸収できなくなる。だからくだらんというのだ」
「薩摩はイギリスに攻撃されたのでしょう?お二人の話で、実は薩摩が世間で言われているほど勝ってない、ということも聞きました。やられたままで悔しくはないんですか?」
「悔しいに決まってるだろう!俺が入手した蒸気船三隻を勝手に沈められてしまったんだから!……いや、それはともかく。さっきの男がどんな形で横浜を襲撃するのか知らんが、所詮幕府や藩の後ろ盾もない貧弱な装備だろ。そんなのでイギリスが守っている横浜を攻めたとしても、ひとたまりもなく殺されるだけだ。君が死ぬのは勝手だが、お多恵さんが悲しむのは気の毒だ。悪いことは言わん。やめておけ」
「いや。なんとかイギリスのスキを突いて、見事に横浜を焼き払ってみせます」
「下手に横浜のイギリス人を刺激すると、奴らはまた、この前のように江戸を攻めると言い出すかも知れんぞ」
「江戸を攻める?」

 寅之助の脳裏には、この前イギリス艦隊の攻撃に備えて、新徴組の一員として江戸防衛の任に就いていた時のことが思い浮かんだ。
 赤ん坊を背負った町民の母子が戦争の回避を喜んでいた、あの時のことだ。
「五代さん。まさかイギリスは、鹿児島で民家まで攻撃はしませんでしたよね?」
「いや。実は攻撃されて、かなりの家屋が焼き払われたんだ。だが一応事前に住民は避難して……」
 これを聞いた途端、寅之助は
「やはりそういう奴らか!」
 と叫び、右手の(こぶし)で左手の手のひらをバシッと叩いた。
 それで五代はあっけに取られて、二の句が継げなくなってしまった。
 寅之助は怒りに満ちた表情で、何度も拳で手のひらをバシッ、バシッと叩いた。
(やはりそういう奴らか!イギリス人は罪のない女子供を攻撃するのだ!これは何としても、奴らを叩き殺さねばならん!)
 寅之助に襲撃をやめさせようと思ってした話が、逆に闘志に火をつけるかたちになってしまった。と、五代は気がついた。そして「このままじゃまずいな……」と思った。



 それから幾日か経ち、九月十三日になった。
 この日は血洗島村のあたりでは月見の宴を開くのが習わしとなっており、栄一郎はこの席で父市郎右衛門(いちろうえもん)に「決心」を告白しようと決めた。そこで、尾高新五郎と渋沢喜作もこの席に呼んで応援を求めることにした。
 とはいえ、さすがに「横浜襲撃」などという事は絶対に口外できないので「百姓をやめて家を出る」という事を打ち明けた上で、父に勘当(かんどう)してもらおうと栄一郎は考えた。

 一堂そろって月見をしたあと、栄一郎は、いきなり勘当の話を切り出すわけにもいかず、とりあえず世間話からはじめて、次第に現在の世情を父に説いていった。
「……というわけで父上。日本は天下大乱のご時世です。しかるに幕府の失政は目に余ります。このままでは外国に占領されてしまうかも知れません。ですから我々若い者が立ち上がって国のために尽くさねばならないのです」
「それは分不相応な考えだ。我々は百姓なのだから百姓として世の中に役立てばいいのだ。そのような大きな望みを持ってはならん」
「ですが、昔、元寇があった時に対馬の百姓は命がけで博多へ危機を伝えに行ったというではありませんか。百姓といえども、国が危機であれば黙って見過ごすことはできません」
「何を大袈裟なことを。百姓がそのように物騒なことを考えんでもいい。ひょっとして武士にでもなりたいのか知らんが、それは身のほど知らずというものだ」
「ですが、父上も普段から世の中のなりゆきを憂いておられたではないですか」
「ご公儀や諸藩のまつりごとを論じるのは、知恵を付けるためであれば構わないが、百姓の本分を超えて何かをしようとするのは了見違いだ」
「父上の仰ることはごもっともですが、武士のまつりごとがここまで衰えてしまっては日本そのものの命運が危ういのです。今のご時世では武士も百姓も関係ありません。日本の危機を知ってしまったからには、もはや百姓だからといって傍観できる状況ではないのです」
 このようにして栄一郎たちは市郎右衛門に対して、決して論争をするわけではなく、諄々(じゅんじゅん)と意見を述べ続けた。そしてこのような意見のやり取りをしているうちに夜が明けてしまった。

 夜が明ける頃になって、とうとう市郎右衛門は息子たちを説得するのをあきらめた。
「分かった。勝手にするが良い。話を聞いているうちに少しは時勢も分かった。お前がその時勢を乗り切るか、身を滅ぼすか、ワシは知らん。ワシはその時勢を知らぬつもりでこれからも百姓を続ける。ご公儀が失政をやろうと、役人が無理難題を云おうと、それに従うつもりである。我らは違う種類の人間なのだから、各々が選んだ道をそれぞれ行けば良い」
 こうして栄一郎は父と穏やかに決別することになった。そして父に
「どうぞ、すみやかに自分を勘当していただきたい。そして養子を取ってください」
 と言った。
 自分の罪が家に及ばぬようにするためと、一人息子である自分の代わりになる養子を取るように進言したのだ。
 すると父が答えた。
「いや、勘当はせぬ。もしお前に不幸があれば、父としてその不幸を引き受ける。養子も、そう急ぐ必要はあるまい。とにかく家を出るがいい。あとは何をしようとお前の勝手だ。ところで、お前たちは江戸へ出て一体何をするつもりなのだ?」
 横浜を襲撃するのです、とはとても言えないので、栄一郎は適当な話をでっちあげてごまかした。
 最後に父は栄一郎に訓示を述べた。
「この後はよくよく注意してあくまで道理を踏み違えず、誠の心を貫いて、仁人(じんじん)義士(ぎし)と言われるようにお前がなれば、ワシは満足に思う」
 自分のことを深く思ってくれている父の気持ちがよく分かり、しかも、その自分は父を(あざむ)いて事を起こそうとしているという背徳感から、栄一郎の目からとめどなく涙があふれた。

 とにかくこれで、栄一郎、新五郎、喜作たちの横浜襲撃計画は決定の運びとなり、あとは決行の日が来るのを待つばかりとなったのだが、その前に一族最強の剣士である長七郎が戻ってくるはずであり、彼が加わればこの計画は万全のかたちとなる。
 栄一郎は、長七郎が早く戻ってくることを願った。



 一方、四方寺村の寅之助の一家では、このようなやり取りはなかった。
 栄一郎は総領(そうりょう)(後継ぎ)なので父とこのようなやり取りを必要とした。けれども、寅之助は次男なので家族には何も言わず、最後にただ「勘当願い」の書置きを残して家を去るつもりだった。勘当してもらうのは罪が家族に及ばないようにするためである。
 栄一郎のように父とやり取りをする苦労はないものの、家族と別れることになるのは変わりなく、黙って家を去るのも、それはそれで寂しいものがある。寅之助は一家と過ごす時間を大切にかみしめて、横浜襲撃の実行日を待った。


 そんなある日、寅之助はいつものように甲山の根岸家に来て、座敷で友山と時勢について語り合っていた。
 その時、突然廊下をドスドスと足音をたてて、誰かが近づいて来るのが分かった。
 座敷に現れたのは卯三郎だった。
 突然、声もなく現れ、仁王立ちのように立っていた。

 友山が
「なんだ、卯三郎ではないか。どうしたのだ、突然……」
 と話しかけても卯三郎はまったく意に介さず、寅之助のところへ歩み寄り、いきなり殴った。
「バカ者!バカ者!バカ者!」
 と叫びながら殴り続けた。
 さすがに友山も驚いて
「よせっ!いきなり何をするんだ!」
 と言って卯三郎を後ろから羽交(はが)()めにして止めた。が、それを振り払ってさらに寅之助を殴ろうとした。
 寅之助はあぜんとした表情のまま卯三郎を見つめている。
「叔父上、離してください!こいつは、こいつはとんでもない事をしようとしている!」
 そして卯三郎はとうとう友山を振り払って、さらに寅之助を殴り続けた。
「バカ者!横浜を焼き討ちしようなどと狂気の沙汰だ!俺が横浜に住んでいるから言ってるんじゃない。お前が犬死にすることに耐えられないから言ってるんだ!お前は西洋の武器を知らん!俺は鹿児島で、この目で見てきた。(いくさ)ってのはお前が思っているような、カッコイイ代物じゃねえ!砲弾が飛び交い、人が無残に死んでいくのが戦なんだ!お前一人がどうあがいても、どうにかなるものじゃねえ!刀を振り回す侍が(たば)になってかかっても、全員犬死にするだけだ!」
 このように叫びながら卯三郎は殴り続けた。

 寅之助はただただ殴られ続けた。
 正直、卯三郎の(こぶし)はそれほど痛いとは感じなかった。普段道場の稽古で、竹刀で打たれた時のほうが威力としてはよっぽど痛いぐらいだった。
 けれども寅之助の心は、卯三郎の拳によって大きく傷んだ。
 いや、拳が痛みつけたのではない。卯三郎の言葉が痛みつけたのだった。

 寅之助を責め終わった卯三郎は肩でハア、ハアと息をしながら、今度は友山を問い詰めはじめた。
「……叔父上はこの事をご存知だったんですか?」
「いやっ、知らん。今、はじめて聞いた」
「そうですか……。でしたら、叔父上もよく言って聞かせてやってください。それから、西洋の軍事力については今、私が申した通りです。私はこれまで、叔父上たちの攘夷活動を傍観しておりましたが、身内の人間がこのようなことをしでかすようになっては黙って見ておれません。以後、外国を相手に戦をしようなどという愚挙はおやめください」
 それから卯三郎は再び寅之助のほうを振り向いて、言った。
「寅之助。家族を泣かすようなことはするな。それに、お多恵さんもな」
 それだけ言って卯三郎は、部屋を出て去って行った。

 卯三郎がこのように寅之助のところへやって来たのは、五代が密かに卯三郎に、寅之助のことを伝えたからだった。


 寅之助と友山はぼうぜんと卯三郎を見送った。
 友山は甥の卯三郎に説教されて、不快だった。
(若造のくせに何を言うか。やたらと西洋の肩を持ちおって。西洋と戦をしても勝てないだと?そんなバカなことがあるか!我々には大和魂があるのだ!必ず夷狄を打ち払ってみせる!)
 本来であれば、このように言い返すところなのだが、あまりに突然で、しかも卯三郎の気迫に圧倒されて、言い返せなかった。
 それに卯三郎が寅之助のことを本気で心配しているのもよく分かった。
 とにかく友山は、寅之助に事情を説明させた。
 寅之助としても、もはや隠しておくことはできない。友山に栄一郎たちの計画を話した。もちろん「絶対に他言無用にしてください」とお願いした上で。

 結局のところ、友山は寅之助に「その計画には参加するな」と言い渡した。
 横浜襲撃の志は良しとする。しかしその草莽の計画は無謀すぎる。決起するのであれば、せめて長州の支援の下でやるべきだ。そうでなければ、確かに卯三郎の言う通り犬死にで終わるだろう。いつかワシが長州の支援を得て立つ時が来る。その時まで自重せよ。

 大体このような趣旨の説明だった。
「仰せの通りに従います」
 寅之助は栄一郎たちの計画に参加するのを断念した。

 卯三郎からの叱責(しっせき)によってすでに折れかかっていた寅之助の心は、友山からの説得という追い打ちによって、完全にへし折られてしまったのだった。
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