第24話 再会、沖田総司

文字数 9,831文字

 篤太夫(とくだゆう)が各地の一橋領で集めた農兵たちは次々と京都へやって来て、紫野(むらさきの)大徳寺(だいとくじ)に入った。
 大徳寺は京都の北西部にある禅宗(ぜんしゅう)名刹(めいさつ)で、一休宗純(そうじゅん)や千利休とゆかりがあったことでよく知られている。
 この大徳寺およびその周辺に農兵およそ五百人が泊まり込んで、幕府から派遣された軍事教官によって訓練を受けることになった。
 訓練には寅之助も参加した。教官は一通りの洋式兵制を心得ており、初歩的な小銃の取り扱い方から果ては大砲の撃ち方まで、さらに歩兵操練のやり方なども寅之助は学ぶことになった。

 この頃になると寅之助の考え方も少しずつ変わってきていた。「西洋人を打ち払うには、刀だけでは無理である」と。
 それでこういった軍事訓練を積極的に受けるようになったのである。
(イギリスは鹿児島の町を無差別に砲撃し、女子供までも殺そうとした連中だ。そんな奴らはいつか必ず、我々の手で打ち払わねばならん)
 寅之助はかつて五代から薩英戦争の話を聞いて以来、こういった攘夷の念を強くしていた。
 もっとも、実際の薩英戦争では事前に薩摩藩が町から町民を避難させており、家は焼かれたものの町民の人的被害はほとんどなかった。とはいえ、寅之助はそんなことまで知る由もないし、第一、町を攻撃したイギリス側に「市民に人的被害が出ても仕方がない」といった悪意が無かったとは言えないのだから、寅之助の怒りは妥当なものであったと言えよう。
 以後、寅之助は数ヶ月に渡って軍事訓練を受けることになった。



 その訓練が休みの日に、寅之助は松吉を誘って東山のほうへ遊びに出かけた。
 松吉は備中(びっちゅう)井原村(いばらむら)から出て来て、寅之助と一緒に大徳寺で軍事訓練を受けていた。そして相変わらず寅之助を兄と慕って一緒に行動し、時々剣術の稽古をつけてもらったりしていた。
 寅之助は井原村で約束した通り、松吉に甘いお菓子を食べさせてやろうと思って東山へ遊びに出かけたのだった。この辺りは禁門の変の火事で焼けなかったので以前通り、普通にお店が営業していた。

 二人が甘味処に入ると、客は女性ばかりだった。
 でもまあ、別に何か悪いことをするわけでもなし、平気だろう、と思って寅之助たちは席に座ってお汁粉を頼んだ。
 お汁粉が出てくると松吉はパクパク食い始め、二杯、三杯とたいらげた。実に旨そうに食うものだ、と寅之助は感心した。
「美味しいです。実に美味しいです。吉田先生」
「そうか。じゃあ俺のも食え」
 寅之助はそれほど甘いものが好きではなかった。
「きれいな女子(おなご)はいっぱいいるし、お汁粉は美味しいし、やっぱり京に出て来て良かったなあ」
「まあ休みの日ぐらい、こうして遊んでもバチは当たらないだろう。でもまた明日からは、(いくさ)の稽古に励まねばならんぞ」
「分かりました。ですが先生、ああやって鉄砲の稽古をしておりますと、剣術の稽古が少し疑問に思えますね」
「どうして?」
「だって、どんなに剣術が上達しても、鉄砲で離れたところから撃たれたらイチコロじゃないですか」
 それは寅之助も訓練を受けて実感していることだった。だが剣術がまったく無駄とも思えなかった。
「それは確かにその通りだ。だけど、鉄砲はそれほど続けざまに撃てるわけじゃないことも分かった。きっと接近戦で剣を使う機会もあるだろう。それに恐怖を克服するための精神を作り上げる鍛錬にもなる。剣術の稽古も決して無駄にはならんさ」
「なるほど。それもそうですね」
 松吉は素直な性格だった。疑問が解けると、またお汁粉をパクパクと食い始めた。

 この女性ばかりの店で、二人がこういった人殺しの話をしているとは、周りの女性も、店の女給も、まったく想像できなかったに違いない。
 それどころか女性たちは、この(あや)しい二人組みの若者を見て「陰間(かげま)かしら」「若衆(わかしゅう)同士かしら」とクスクス笑いながら寅之助たちを見ていた。要するにホモだと思ったのだ。確かに寅之助はなかなかの美男子だし、松吉もそれなりにかわいい顔をした若者だ。女性たちがこの二人をそういった好奇の目で見ても、ある意味仕方がない。とはいえ、寅之助たちはそういった周囲の状況にまったく気づいてなかったが。

 おかわりを持ってきた女給もそういった目で二人を見ていたのか、微笑みながら松吉の前にお汁粉を置いた。なかなか美人の女給だった。
 そして松吉はその女給に見とれていた。一目惚れしたのだ。


 そのとき突然、一人の男が店に乱入して来た。
 男は頭や腕に傷を負っており、手に刀を握っていた。その男は女給のところまで駆け寄って来て、大声で問いただした。
「裏口へ抜けるのはどこだ!?裏口へ案内しろ!」
 女給は(おび)えて口がきけなかった。

 この直後、入口のほうに、やはり手に刀を握った数人の男が殺到して来た。
 その男たちが着ている服を見て、この場にいる全員がすぐに分かった。
(新選組だ!)
 ダンダラ模様の浅葱色(あさぎいろ)の羽織を着ていたのだ。
 新選組が男を捕まえに来たことは一目瞭然だった。この傷だらけの男は新選組に追われているのだ、と。
 途端に「キャアー!」と女性たちの悲鳴が上がった。

 そこで男はその女給を人質に取った。
 左手で羽交(はが)()めにし、右手で刀をちらつかせて威嚇(いかく)した。そして
「この娘を殺したくなかったら、そこを動くな!」
 と新選組の連中に向かって叫んだ。
 それから娘を連れたまま、店の裏口へ向かおうとした。

 すぐ近くにいた松吉は、あまりに突然の出来事に呆然としていた。すぐ目の前に男の刀がちらついている状態だった。
 その男も、入口の新選組に気を取られて、すぐ近くに寅之助たちがいることなど、まったく気がついていなかった。

 その瞬間、寅之助が脇差しを抜き打って男の手首を切った。
 鮮血がビュッと飛び散り、松吉の顔にかかった。
「ギャア!」
 という男の叫び声が上がった。手首は大きく切り裂かれ、握っていた刀は地面に落ちた。
 次の瞬間、寅之助がその男を後ろから羽交い絞めにし、女給を解放するため前方に突き飛ばした。彼女はよろけて前方に倒れ込んだ。
 すかさず松吉が彼女を抱えて、その場から引き離した。
 そして松吉はニッコリとした笑顔で「大丈夫ですか?」と彼女に問いかけた。が、鮮血を浴びて血みどろになった顔での笑顔は、実に凄惨な表情だった。彼女は「キャアー!」と悲鳴を上げて松吉を押し飛ばした。

 それから新選組の連中が店に入って来て、寅之助から男を引き取った。
 そして隊長らしい男が寅之助に
「犯人捕縛にご協力いただき、感謝します。あなたのご姓名をお聞かせ……」
 と言いかけたところで、寅之助のほうが気がついた。
「沖田さん!」
「おや?あなたは確か、えーと、浪士組の時に一緒にいた……、吉田さんですか?」
「そうです」
 寅之助は驚いた。沖田の外見の変わり具合に。
 確かに以前の通り、ヒラメのような顔の名残はあるのだが、かなりやつれた表情になっていた。そして以前のような明るい雰囲気が陰をひそめ、何とも凄惨な雰囲気がただよっていたのである。

「そういえば吉田さん、あなたは確か長州と親しかったはずだ。聞きたい話もあるので、屯所までご同行願えませんか?」
 そういった訳で、寅之助は新選組の屯所がある西本願寺へ向かうことになった。
 とりあえず松吉はそのまま店に残した。そして先に大徳寺へ戻るよう言っておいた。



 寅之助は新選組の隊士たちと同行した。道すがら寅之助は、自分は現在一橋家に籍を置いており、長州とは無関係である、ということを沖田に説明した。
 そして先ほど甘味処に乱入してきた男については、どんな男なのか?何をやった男なのか?という事は聞かなかった。聞いてもおそらく「職務上の機密」として沖田は答えないだろうし、寅之助としても、娘を人質に取られるという緊急事態に対処しただけのことだった。

 新選組については、もちろん池田屋事件のことは寅之助も話に聞いて知っていたが、それ以外のことはよく知らなかった。京都に出て来てからは、天狗党への出兵、備中への出張、それから大徳寺での軍事訓練が忙しくて、これまで新選組と接する機会がほとんどなかったのだ。

 寅之助は一通り自分のことを説明すると、逆に沖田に尋ねた。
「あれからもう二年になりますか。蛤御門(はまぐりごもん)(いくさ)などもあって、京はさぞ大変だったでしょう。そういえば、二年前は山南さんによくお世話になりました。山南さんはお元気でいらっしゃいますか?」
 山南は寅之助にとって千葉道場の先輩である。それで二年前の浪士組上京の時も、よく世話になっていた。

 この寅之助の質問を聞いて、沖田は一瞬ピタリと歩みを止めた。
 しかしすぐさま歩みを再開させ、寅之助の隣りへ来て言った。
「分かりました、吉田さん。あなたには何も怪しいところはありません。このまま帰ってもらって結構ですよ」
 そう言うと沖田は、自分の部下である一番隊の隊士たちを引き連れ、さっさとその場から去って行った。
 その沖田を、寅之助は怪訝(けげん)な表情で見送った。


 残った数人の隊士たちの中から一人の男が寅之助に話しかけてきた。
 その男はさわやかな表情でありながらも眉間(みけん)に目立つ刀傷があり、何か強い意志を秘めた顔つきをした男だった。一見して、好男子のように見えた。
「あなたはお玉が池にいらした吉田寅之助さんでしょう?」
「ええ、そうですが、あなたは?」
「私は八番隊組長の藤堂平助と申します。深川にある同じ北辰一刀流の伊東道場におりましたので、お玉が池にいたあなたのことは存じておりました。あの二年前の浪士組の頃から、既に。ところで先ほど沖田さんにお尋ねになった件ですが、残念ながら山南さんはついこの前、切腹してお亡くなりになりました」
「ええっ!なぜですか!?」
「理由は私にもよく分かりません。山南さんが切腹されたのは二月のことで、私はその頃、江戸へ行っておりました。後で聞いた話では『女を連れて大津まで脱走した』とのことです。その時、追跡して捕まえたのが沖田さんで、切腹の介錯(かいしゃく)をしたのも沖田さんだったようです」
「そうだったんですか……」
「それと、私が江戸へ行っていた時に、とある話を聞いたのですが、あなたは真田範之助さんがどうなったか、ご存知ですか?」
「いえ、知りません。知っていたら、ぜひ教えてください!一体いま、真田さんはどうなっているんですか?」
「残念ですが……天狗勢から落ちのびたあと、昨年の十一月、深川で新徴組に討ち取られました。真田さんに率いられたお玉が池の塾生たちは、全滅したそうです」

 寅之助にとって、それはあまりにも衝撃的な話だった。
 その場で立ちすくみ、拳を握りしめて涙を流した。
(やはりダメだったか……。おそらくそうではないかと薄々思っていたが……)

 寅之助はこのあと数日、気が抜けたような状態となって軍事訓練にもまったく身が入らなかった。しかし寅之助のそういった事情を知らない松吉は、元気のない寅之助のことをただただ心配しながら脇で見ていた。




 このように寅之助が落ち込んでいた頃、篤太夫が大徳寺の軍事訓練の様子を見に来た。むろん、寅之助にも会った。
 それで寅之助は、篤太夫に真田のことを伝えた。すると篤太夫も、横浜襲撃計画を企てた時に真田と一緒に行動していたので、元同志の死を大いに悲しんだ。

 そのあと篤太夫は寅之助を祇園へ誘った。単に芸者と遊ぶのが目的ではない、とのことだった。他藩の人間と酒を飲むのだという。
 相手は会津藩の広沢富次郎(とみじろう)という男だった。
 篤太夫は、すでに一橋家では中堅クラスの身分になっており、こうして諸藩の人間と時々酒を()()わして時事を論じ合っていた。

 京都の一橋家、会津藩、桑名藩のことを、その頭文字を取って「一会桑(いちかいそう)」と呼ぶことがある。
 個人名を挙げれば、禁裏御守衛総督の一橋慶喜、京都守護職の松平容保(かたもり)、京都所司代(しょしだい)の松平定敬(さだあき)の三名のことを指す。容保と定敬は兄弟である。
 京都で幕府の勢力を代表するのは、この一会桑だった。
 その上、この一会桑は朝廷からの信任も厚かった。本来これは喜ばしいことであるはずなのだが、朝廷からの信任が厚ければ厚いほど、江戸の幕府上層部からは「朝廷に近すぎる者」として煙たがられることにもなった。ともかくも、そのように一くくりとして見られるほど、この一会桑は密接に連携していた。

 要するに、一橋家の篤太夫と会津藩の広沢は友好関係にある、ということだ。
 ところがこの日、篤太夫は広沢のことを詰問した。
「先日、拙者の宿舎に新選組の者が数人、押しかけて参りました。最近、新選組の者たちは増長しておるのではないですか?」
 広沢は、新選組を管理する会津藩士の一人として、平謝りするばかりだった。

 と言っても、篤太夫としてもこれはあまり大っぴらにできる話でもなかった。
 後年の渋沢栄一に複数の(めかけ)がいたことからも分かるように、篤太夫は女遊びが嫌いではない。どころの話ではない。大好きである。
 それでこういった「夜の店の女」を巡って新選組の隊士たちと「鞘当(さやあ)て」することになったのだろう。妻子のいる篤太夫が恋愛どうこうで女を取り合ったとも思えない。
 以下、後年の渋沢栄一の談話から抜粋する。
「新選組の若い者との間に婦人関係で間違いがあり、新選組の連中が七、八人、私の役宅に押しかけて来た。こちらは渋沢喜作と防御の手筈(てはず)を定め、もし乱暴でもするようなら刃向かうつもりでいたのだが、幸いにも事は収まり、乱暴もせずに引き取った」

 確かにこの頃、新選組は有頂天(うちょうてん)の状態だった。
 二年前、十数名しかいなかった壬生浪士組が、今では百数十名の大組織に変貌していた。
 ちょうど一年前に池田屋事件で勇名をはせ、直後の禁門の変にも出動した。長州を京都から追い出すのに一役買った新選組は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。そして前年の暮れには江戸から伊東甲子太郎(かしたろう)の勢力も加わり、より一層勢力を拡大していた。
 しかしながら「(おご)れる者は」のことわざの通り、得てして組織のほころびはこういう時に生じるものだ。元々京都の人々からあまり評判の良くなかった新選組は、隊士たちの増長によってますます評判を落としていた。その一方で隊内の綱紀(こうき)も乱れがちとなり、それを抑えるために綱紀(こうき)粛正(しゅくせい)が徹底され、そのことが、かえって隊内に新たな緊張関係を作り出す、という悪循環に陥っていた。山南敬助が切腹したのもこういった新選組の動向と無関係ではなく、周知のように、新選組の内部抗争による犠牲者はこのあとも続出するのである。

 この席で寅之助は広沢から、初めて新選組のこれまでの経緯を聞いて、そら恐ろしい気持ちがした。
 自分も嫌悪感を抱いていた芹沢鴨が粛清されたことには、むろん気の毒な気持ちなどは起きなかったが、あの凶暴な芹沢を始末した近藤勇の冷徹さには、なにしろ自分も近藤に殺されかけた経験があっただけに、他人事でない恐ろしさを感じた。

 そのあと話は将軍上洛と長州再征の話題に移った。
 将軍家茂(いえもち)は既に(うるう)五月二十二日に上洛していた。
 およそ五万とも言われる幕府軍を率いての上洛である(ただし実際には二万人ぐらいだったらしい)。

 上洛の目的はもちろん、長州再征だった。
 前回、尾張の徳川慶勝(よしかつ)が総督、薩摩の西郷が参謀だった長州征伐では実際に長州へ攻め込まなかったため、長州藩にとどめを刺すことができなかった。
 案の定、そのあと長州藩では高杉たちの決起もあって再び正義派が政権を掌握し、反幕府的な動きを再開させていた。特に上海で船を売却したり武器の密輸を行なっている事が判明したので、それを反逆の理由として幕府は長州再征を決定。それからすぐに家茂が軍を率いて上洛したのだった。

 とはいえ、実際に長州へ兵を送り込む段階にはまだ至っていなかった。
 なにしろ幕府は長州再征を楽観視していた。
「前回、尾張公を総督とした幕府軍にあっさりと降伏した長州なのだから、今回、将軍自らが大坂まで進発すれば、ひとたまりもなく降伏するであろう」
 このように長州のことを軽く見ていたのである。
 実際、のちに幕府軍と長州軍が戦う際には、幕府軍は長州軍のおよそ二十倍の兵力で長州へ攻め込むことになる。この戦力差では誰だって十中八九、いや十中十、幕府が勝つと思うだろう。

 当然、寅之助や篤太夫も、そう思っていた。
 二人には長州人の友人が何人かいたため、長州に同情的だった。かつては「長州と共に決起しよう」などと考えたぐらいなのだから当然のことだった。
 それゆえ、天狗党が越前へ来た時と同じように「なんとか(いくさ)にならないで欲しい」と願うばかりだった。もし戦になれば、長州も天狗党と同じように踏み潰されるだろう、と。
 しかし幸いにも、戦が開始されそうな雰囲気は今のところない。

 かたや会津の広沢は長州に対して強硬だった。
「我が殿はこれまで公方様(くぼうさま)のご進発を強く要請してきました。そのために新選組の近藤を江戸へ送ったぐらいです。御所に鉄砲を撃ちかけた長州は逆賊です。何としても討伐せねばなりません」
 これに篤太夫が答えた。
「しかし長州と戦をやるとなると金もかかります。尊藩はこの前、守護職のお手当一万両を差し止められたとお聞きしましたが」
「その通り。まったくけしからん話だ。我が藩はもともと台所事情が苦しかったのに、無理をして守護職をお引き受けしたのです。それでこの仕打ちだ。ご公儀は、我が藩が朝廷と親密なのが気に入らんのです。我が藩の中では、このような仕打ちをされてまで京に留まる意味はない、さっさと会津へ帰るべきだ、という声も多い」
「それではますます、長州との戦どころではないでしょう」
「されど、我が藩は蛤御門で長州と激しく戦った。長州人は決して、我が藩への(うら)みを忘れまい。逆賊長州は、今のうちに攻め滅ぼさねばならんのです」
「蛤御門で尊藩と一緒に戦った薩摩は、長州征伐をどのようにとらえているのでしょう?」
「それが困ったことに薩摩は最近、長州征伐に腰が引けているのです。以前はあれほど長州征伐を唱えていたのに、訳が分かりません。とにかく最近の薩摩の動きは不可解です」




 さて、その薩摩藩。
 前回の話でヨーロッパへ向かった「薩摩スチューデント」十九名は、この頃ロンドンに到着していた。
 到着したのは五月二十八日のことで、出発からおよそ二ヶ月後のことだった。

 以前「池田使節」がパリへ来た時に書いたように、この当時、日本とヨーロッパを行き来するには大体片道二ヶ月かかった。ただしそれはスエズを経由した場合の話である。
 今回の薩摩スチューデントの場合は、まさにそのスエズ経由だった。そして蒸気船による航海だったので通常通り、二ヶ月でロンドンに着いた。

 ところがこの二年前に、アフリカ南端の喜望峰(きぼうほう)周りで、しかも帆船で四ヶ月もかけてロンドンへやって来た日本人たちがいた。
 伊藤俊輔(後の博文)、井上聞多(ぶんた)(後の馨)たち、いわゆる「長州ファイブ」と呼ばれる五人である。
 この長州ファイブについては映画や書籍などがいろいろと出ているので知っている人も多いと思う。宣伝みたいで恐縮だが、長州ファイブの詳しい背景については筆者の前作『伊藤とサトウ』の第三章、第四章あたりでも書いており、興味のある方はそちらをお読みいただきたい。

 ということで、ここでは簡単な解説にとどめるが、長州ファイブのうち伊藤俊輔と井上聞多の二名はすでに日本へ帰国していた。イギリスをはじめとする四ヶ国が下関を攻めると聞いて、二人は急きょ帰国したのである。残ったのは山尾庸三(ようぞう)、野村弥吉(やきち)(後の井上(まさる))、遠藤謹助(きんすけ)の三名だった。この三名は伊藤や井上と違って「技術の専門家(テクノクラート)」的な素養もあったので、ロンドンに残って勉強を続けていた。
 けれども長州の留学計画は薩摩と違って、なにしろずさんだった。本国の長州藩が滅亡の危機に(ひん)していた、という事情もあるが、留学資金が不足していたのである。



 薩摩スチューデントたちはケンジントン公園(ハイドパークの隣り)の北側にあるベースウォーター街でアパート暮らしをしていた。ここでまず英語の基礎を学ぶことにしたのである(ただし新納(にいろ)や五代たち幹部はケンジントン公園の南にあるホテルに泊まっていた)。

 彼らが到着してまだ間もない(うるう)五月十日、三人の長州人、すなわち山尾、野村、遠藤が薩摩スチューデントのアパートを訪問した。
「ロンドンに留学(密航留学)している日本人は、我ら薩摩人しかいないはずだ」
 と思っていた薩摩人たちは、この長州人の訪問に心底驚いた。

 この出会いは偶然であったという。
 この一週間前、留学の手配をしたグラバー商会のライル・ホームが、たまたまアパート近くの路上で三人の長州人を見かけたので、それを薩摩人たちに知らせ、この日の訪問に繋がったということらしい。
 しかしながら、長州ファイブの留学の手配をしたのはジャーディン・マセソン商会であり、この商会はグラバー商会の親会社である。それゆえ、長州ファイブと薩摩スチューデントは両者とも同じジャーディン・マセソン商会の系列で手配された訳であり、両者はまったくの無関係という訳ではない。が、それはともかく、この両者はロンドンで薩長面会を果たすことになった。

 言うまでもなく、薩摩と長州は仲が悪い。
 長州は、薩摩と会津から散々な目にあわされてきた。八月十八日の政変で京都から追放され、禁門の変では激しく戦い、長州は敗れた。結果、多くの戦死者を出し、挙句の果ては朝敵とされてしまった。
 長州にとって薩摩は(うら)骨髄(こつずい)の相手なのである。長州人は履物(はきもの)に「薩賊(さつぞく)会奸(かいかん)」と書いて踏みつけて歩くほど、薩摩を憎んでいた。
 ただし山尾たちは、そういった薩長間の争いがあった頃、すでに日本を離れていたので本国の長州人ほど怒りに燃えていたわけではなかった。

 まったくの偶然なのだが、ロンドンで薩長の両者が面会したこの閏五月、日本では坂本龍馬と中岡慎太郎が薩長同盟に向けて動き始めていた。

 龍馬が下関で木戸と会って薩長同盟を説き、中岡が西郷を下関へ連れて行くために鹿児島を訪問したのは閏五月六日のことで、ロンドンで薩長面会があった四日前のことである。まあ、この時は結局、西郷が下関訪問をすっぽかして、下関で龍馬と中岡が木戸から大目玉をくらうことになるのだけれども。

 このとき山尾たちの訪問を受けた薩摩人の一人は後年、当時の様子を次のように回想している。
「ケンジントンの借家で自炊をしている頃、ある日、下女が『階下に三人の日本人がお見えになってますが、いかがしましょうか?』と言うので、松木さんや森たちが集まってひそひそと相談した上で、階上に案内するようにと申しました。三人が部屋に入って来ると『私たちは長州からやって来た山尾庸三、野村弥吉、遠藤謹助という者で、日本を発つ時には他に二名いたのですが、二名は先に帰りました。それで、学費の送金が無くなって困っております』と話したことは、今も忘れません」

 結局「異郷の地」ということもあり、このロンドンで薩長両者は日本人同士、仲良くやっていくことになったのである。
 これはある意味「薩長同盟」の先駆けだった、と言えないこともない。

 特に山尾は翌年、薩摩人から一人一ポンドずつ、合計十六ポンドの義援金を出してもらってグラスゴーへ行き、そこで働きながら造船技術を学ぶことになる。
 それで山尾はこの時、ロンドンへ来たばかりの薩摩人と積極的に交わり、ロンドンを案内したり、一緒に学ぶロンドン大学を案内したりした。
 そして六月七日、留学生だけではなくて五代や新納も含めて、さらに長州人の山尾と野村も加えてロンドンの北方にあるベッドフォードという所へ出かけて鉄工工場を見学した。
 この見学の様子は四日後、タイムズ紙が取り上げて
「サツマ侯から派遣された日本人の一団がベッドフォードを訪問した」
 と報じることになった。


 このタイムズ紙の報道から一週間後、斎藤健次郎とロニーが、ロンドンの薩摩人たちを訪問した。
 オランダにいる幕府留学生は別として、それ以外でヨーロッパにいるのは自分たちと長州人だけだと思っていた薩摩人たちは、この健次郎の訪問にまたまた驚いた。

 二人がパリからロンドンへやって来たのは、もちろんタイムズ紙の報道でロンドンに薩摩人がいることを知ったからである。
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