第16話 肺と私

文字数 1,616文字

 自分の身体が、どのようにできているのか、よく分かっていない。心臓が動いて、血がめぐり、身体に回っていることは確からしい。この身体の内部にある臓器では、心臓と胃腸、肺、肝臓、すい臓ぐらいしか知らない。
 そしてすい臓が、一体どんな働きをしているのか、知らない。肝臓も、どこにあるのか知らない。
 足の、ヒザの「お皿」と呼ばれる箇所は「どの骨とも繋がっていない」と聞いたことがある。
 とすると、このヒザの皿は、宇宙空間にぽっかり浮かんだ惑星のようなもので、この肉体空間に浮かんでいるように思える。
 まわりの肉に支えられているにしても、どうしたわけかヒザの皿は、必然のように、ここにあるのだった。

 関節機関が、どうなっているのかも、やはり知らない。骨と骨が繋がっているから、ヒジが曲がるのか。ガッチリ繋がっていたら、曲がらないだろう。適度な空間が、そこには存在しているような想像をする。

 ヒトの骨の量は、決まっているらしい。一本一本、チャンとあって、肋骨だの鎖骨だの、とにかく骨が、然るべき所にあるらしい。これはどうも、万人に共通のものらしい。
 簡単に数えられるらしいが、数えたことがない。この自分の身体が、何本の骨によって構成されているのか。自分の身体、もう何十年も共にしてきたのに、骨が何本あるのかも知らない。

 この身体が、「ある」と実感する時、たいていその箇所が痛んでいる。私事で申し訳ないが、ここ数日、「肺」が、その存在感を示している。それまで、肺のことなど、真剣に考えたこともなかった。
 肺というのは、不思議だと思った。空間そのものなのだ。きっと、その中はからっぽに違いない。何かが詰まっていたら、空気の出入ができないだろうから。
 この肺が病んだ場合、一体どんな処置ができるんだろう?

 胃腸が弱った場合、リンゴを食べたり、ヨーグルトを食べたりして、調整が効くように思える。
 断食して、休ませることもできる。しかし肺は…休ませるわけにはいかない。空間なのだから、クスリやモノで改善が可能とも思えない。空間に対しては、目に見えるものでは対処が不可能に思える。
 おそらく、それこそ長年の蓄積によって、それは病んでいくのだと思う。身体全体に言えると思うけれど。
 自分の場合、「病ませた」と言える。要するに、タバコである。そして、やめる気はない。自業自得だから、こんなこと、書く価値もない。

 それでも、書記を続ければ(しょうもない男の繰り言として、適当にあしらってほしい)、ぼくにとってタバコは、生きていく(きた)上で、必要欠くべからざるものだった。
 ただ習慣化しているだけでもあるが、この習慣は、なければならないものだった。タバコは休息でもあるけれど、自分を追い詰める・追い込むための、代替のきかない手段でもあった。
 今こうしてパソコンに向かって文字を打つ時、「自分の内部の機能を発動させたい」気持ちが働いている。その働きに、加担してくれる存在でもある。まったく、習慣なのだけど。

 結果、何やら自分が納得できる文が書けたら、それこそ美味しくタバコがまた吸える。

「タバコは、間接的な自殺だ」という人もある。自分を追い詰める、という意味ではそうだろうが、その結果、満足できれば本望以外の何ものでもない。
 そんなふうに、生きて、死んで行きたい。
 なんでこんな自分なんだろうな、と、思う。
 もともと、からっぽだったんだ。そこに、何かを入れたかったんだ…と、肺に自分をなぞらえる。

 人様には受動喫煙はさせていないし、あくまで自己完結、能動的、受動的に、もくもく吸っている。そして自分を大切にしている気になっている。
「肺を大切にしよう」とする時、「そう言っている医学を尊重しよう」としている、と自覚する。医学より、自分(!)を尊重したい、いたたまれなさも自覚する。
 常に、「生きている」ことを感じていたいのかもしれない。死を、意識できることによって。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み