第19話 笑う
文字数 954文字
何だかんだと結局のところ、お金もかからず、誰でも出来、最も簡単な健康法といえば、なんのことはない、「笑う」ということに尽きる。
心と身体が密接な関係であると信じている(と、痛感せざるを得ない)自分としては、その調子がおかしくなる時、必ず笑えなくなる。作り笑いさえ、できなくなる。まったく、笑えなくなるのだ。
で、心の憂鬱は身体の憂鬱に繋がって、逆の場合もあるけれども、過食とか拒食に走ったり、閉じこもりがちになったりする。不健康の始まりである。
が、そのような不健康がイケナイか、といえば、イケナイわけがない。不健康がなければ健康もないわけだし、何か持病があって薬が必須であろうとも、その薬を飲んでいる限り日常生活に支障がなければ、それがその人の健康のかたちなのだ。完全完璧を求めることこそ、不健康といえるだろう。
自分が、身体に良いと思えることを、すること。これがまことの健康法であって、十把一絡げに「人間の身体にはこれが良い」と断言できるものは、いかがわしい新興宗教にも似ている。
ひとりひとり、みんな違うのだ、というところに立ち帰りたい。そこから以外に、心も身体も、すなわち人生も始まらないし、それが、どうしたところで基本であるとぼくは思う。
時間の中でしか、生きることはできない。「調子がいいな、悪いな」と感じるのも相対的なもので、過去の自分の体調・心調の比較にすぎない。そうして今も時は流れて、身体も心も微妙な変化をし続けている。それを有しているはずの自分の意思と関わりなく、だ。
調子が悪くなったら、ああ、そういう時間のご訪問中か、と、その時間さんにお茶でも差し上げて、世間話でもして、その時できることだけをしていこう。そのご来訪が、未来永劫続くわけがない。時が過ぎれば、また別の時間さんがいらっしゃる。その微細な変化を、自己の内に見逃さぬようにしよう。たとえ病床の上にあったとしても、まったく、退屈どころでない。
で、その変化、微妙な変化が空気の振動になって、関係する人に伝わる── ふしぎな、いきものだとおもう。
医者いらずの人も、大病知らずの人も、いずれ死ぬ。その最後の時間に、笑えていられれば、その人に授けられた生命さんも、大満足だろう。
そして、そのためには…日頃から、笑っていたい。
心と身体が密接な関係であると信じている(と、痛感せざるを得ない)自分としては、その調子がおかしくなる時、必ず笑えなくなる。作り笑いさえ、できなくなる。まったく、笑えなくなるのだ。
で、心の憂鬱は身体の憂鬱に繋がって、逆の場合もあるけれども、過食とか拒食に走ったり、閉じこもりがちになったりする。不健康の始まりである。
が、そのような不健康がイケナイか、といえば、イケナイわけがない。不健康がなければ健康もないわけだし、何か持病があって薬が必須であろうとも、その薬を飲んでいる限り日常生活に支障がなければ、それがその人の健康のかたちなのだ。完全完璧を求めることこそ、不健康といえるだろう。
自分が、身体に良いと思えることを、すること。これがまことの健康法であって、十把一絡げに「人間の身体にはこれが良い」と断言できるものは、いかがわしい新興宗教にも似ている。
ひとりひとり、みんな違うのだ、というところに立ち帰りたい。そこから以外に、心も身体も、すなわち人生も始まらないし、それが、どうしたところで基本であるとぼくは思う。
時間の中でしか、生きることはできない。「調子がいいな、悪いな」と感じるのも相対的なもので、過去の自分の体調・心調の比較にすぎない。そうして今も時は流れて、身体も心も微妙な変化をし続けている。それを有しているはずの自分の意思と関わりなく、だ。
調子が悪くなったら、ああ、そういう時間のご訪問中か、と、その時間さんにお茶でも差し上げて、世間話でもして、その時できることだけをしていこう。そのご来訪が、未来永劫続くわけがない。時が過ぎれば、また別の時間さんがいらっしゃる。その微細な変化を、自己の内に見逃さぬようにしよう。たとえ病床の上にあったとしても、まったく、退屈どころでない。
で、その変化、微妙な変化が空気の振動になって、関係する人に伝わる── ふしぎな、いきものだとおもう。
医者いらずの人も、大病知らずの人も、いずれ死ぬ。その最後の時間に、笑えていられれば、その人に授けられた生命さんも、大満足だろう。
そして、そのためには…日頃から、笑っていたい。