第7話 発達障害

文字数 1,707文字

 発達障害って、何だろう、と思って、wikipediaなんかを見た。ザッと見て、それまでのイメージと違う説明があった。
 ぼくが想像していた発達障害は、一時期流行った「アダルトチルドレン」のような、「この年齢になったらこういう人間になって然るべきなのに、そうではない状態」、方眼紙の中心、ここが中点になって、それより下に位置する人間の状態、というイメージだった。

 ところが、wikiによれば、
〈発達障害は、身体や、学習、言語、行動の何れかにおいて不全を抱えた状態であり、その状態はヒトの発達期から現れる。
 原因は先天的である事が殆どで、発達の遅れに伴う能力の不足は生涯にわたって治る事はない。大抵の場合、患者自身の管理能力が無く、コミュニケーションパターンも稚拙であるため、人間関係で問題を抱える事になる〉
 とある。

 つまり、学習なら学習、言語なら言語、行動なら行動と、人間に備わる、ある部分に関しての能力が「不全」である場合を、発達障害というらしい。
 自分に照らして考える。ぼくは、ぜんぶ当てはまるように感じられた。
 ほんとうの発達障害を、ぼくは知らない。ただ、このwikiの定義によるところの発達障害については、抗いたい気持ちになった。病気は、みんなそうだと思うけれど、決められてしまうものだ。それについて、ぼくは抗いたい自分があってしまうから。

 ─── 学習能力が不全であるなら、全人類が不全であるだろう。誰もがイケナイと分かっているはずの戦争を繰り返し、今だって内乱、内戦の国が。完全な不全だと思う。
 …言語能力の不全は、その人のせいではないと思う。もともと不完全である言語のせいだ。行動能力にしたって、誰も彼もが、同じレベルでそんな能力を持っているわけがない…
 というふうに、ぼくはwikiの定義を認めたくないのだった。

 ただ、その定義の型に自分をハメれば、
 ・人間関係で同じようなあやまちを繰り返している学習能力のない自分。
 ・ぜんぶ自分がやればいいのに、掃除や洗濯を家人にさせてしまっている時がある自分。
 ・言語能力がないために、異様に長い時間をかけて文章を書いている自分。
 というのが出てくる。

 人類は、言語は、元々不完全であるとか、皆が同じ能力を持っているわけではないとかは、詭弁に思えてくる。でも、この両方の自分(頭の中でエラソーなことを考える自分と、実際の自分の愚かさ)が、自分なんだと思っている。
 ただ、このよくわからない自分にも、信じたいものがある。「差別など、この世に存在しなかった」という考え方だ。
「差別は、人間が勝手につくったものだ。→ 不全でないものが、どこにある。→ それを不全と言うからして、不自然である。→ 身体的に完全に不全な者があるなら、助け合えばいいだけではないか。→ それだけができないばかりに、不全が不全であり続ける。→ それだけができれば、不全の存在が自然の存在となるだろう。」

 ぼくがwikiの定義に抗いたいのは、「差別のない世界がヨシ」とする、ぼくの中の理想があるためだ。
 コミュニケーションパターンが稚拙? 人間関係で問題を抱えることになる? そして絶望的な、「生涯にわたって治ることはない」。
 ああそうですか、どうせ稚拙ですよ、人間関係、ダメですよ。

 しかし、こんな自分にも、なぜ信念めいたものがあるのか。信じたいものがあるから、この差別に満ち満ちた、一方的な定義…だから定義づけられるのだろうけれど…に、抗いたくなるのだ。
 ぼくの信じたいとするものは、世の中が、つまり社会が、だから個人個人が、単純に助け合えられれば、障害は障害にもならない、という、夢物語のようなものだ。

 とにかく発達障害、そのwikiの説明文に、ああ、自分もそうだ、と思った。その説明に反抗したいということは、自分を守りたい、自己防衛・自己正当の発露、裏返しのようにも思う。おかしな精神構造だと思う。しかし、おかしくない精神構造って、どんなんだ、というふうに、やはりそっちの方向へ走ってしまう。
 ほんとうに(精神的な)病気の人は、それを認めないというから、かなり重症なのかもしれない。
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