第15話 (精神的)病を想う

文字数 1,429文字

 「父親が高齢でできた子どもはコミュニケーション障害になりやすいんだって」
 先日、家人がネットの記事を見ながら言った。
 ぼくは父が50歳の時の子どもである。
「コミュ障…そうか、そうだったのか」
 ぼくは嬉々として言った。自分が人間関係でうまくいかないことが、「コミュ障」、この一語で片づけられたからだ。しかも原因は、父が高齢であったため、というお墨付きでだ。
「うつ病、パニ障、強迫観念症もかな」少し緊張しながら、わくわくして訊く。

「うつもパニックも強迫観念も、みんな(一般的に)持ってるでしょ」と家人。
「うん、そうだろうね。コミュ障にしても、相手があってのことだから、ウマの合う相手とは成り立たない病気だよな。合わない相手が多かったり、相手に不快を与えたりする自分である場合、うまく関係が成り立たなくて障害になる。相手がいての問題なんだから、コミュ障ってひとりだけの病気ではないよな」
 わけのわからないことをぼくが言う。
「なんでこんな、病気が細分化されたんだろう? いちいち、要らんのにな」

「ひとつひとつ、症状とか見て、医者が判断するんでしょう。それに合った治療が、ひとつひとつ違うんでしょう」
 まあ、そうだろうけれど…。
 身体の病は分かり易いが、心の病は分かりにくい。レントゲンで映せるものでもない。
 ナイーブな問題だから、迂闊なことは言えないけれど、見えない心に、見える病名がつくというのは、やはり不思議な気がする。
 不可視な心に、可視の言葉で、何か書こうとしている自分も、急に虚しく感じる。
 でも、この自分を動かしているのは、この心なんだよな…。

 昨日、頭痛に悶えながら「中国思想史」を読んでいて、中国人には「論理的に考える傾向が古来より無かった」という叙述があった。「あるものを、あるままに受け入れる」という生き方を、多くの民が無意識に実践し、生活を営んでいる、とのことだった。
 中国というと、某ウイルスのために、また隠蔽主義、国家の惨酷な圧政で、今や良いイメージがからきし無いが、歴史的に日本は多大な影響を被っている。文化から言語から仏教から、あの大国なくして、今の日本の形状はあり得なかったろう。
 今、かの国から見習うべきものは何一つないが、古来から受け継がれている「あるものをあるままに受け入れる」人生への態度、そのタフさは、ぜひ見習いたいと思う。

 突然結論に飛ぶと、「寛容さと謙虚さ」。この二つを自己のうちに育てること、これだけで、ずいぶんと人生、豊かになる気がする。つまり、健康的になる気がする。健やかに生きれる気がする。
 寛容さとは、自分と異なる意見の者も、受け入れることだ。難しい…。でも、この点は、難しく考えないことが肝要だ。
 謙虚さとは、「自分が正しい」などと、思い上がらないことだ。これも難しい。
 でも、きっと寛容さと謙虚さ、この二つを自分の内にしっかり持つことは、たとえ身体が不健康であっても、健やかな心で、よき人生を生きられる、必須事項のように思う。

 寛容であれば、きっと微笑も多くなる。「許せる」ことが多くなる。心に、おおきな余裕がもてる。
 謙虚であれば、人とぶつかりあうことも減少する。けなげ、とも換言できる。ほんとうに立派な人は、偉ぶったり自分を大きく見せようとなんかしない。
 せめてこの二つ、生きているうちに体得したいと思うのだが。
 だが、だんだん歳をとって、寛容にならざるを得ず、謙虚にもならざるを得ない気もしている。
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