第15話:新規事業と東日本大震災

文字数 3,293文字

 その後、こっちの席に2人とも来て一緒に飲もうと言ってくれ最初に山北社長が、いただきますと盃をもらった。次に池田松男が盃をもらうと、お流れ頂戴「ちょうだい」致しますと通る声で言うと回りが、ざわついて、こっちを注目した。久しぶりだな、そんな言葉を聞くのも、と言って池田に、あんた以前どんな仕事していたと聞くのでN保険の外交員をしていて、世田谷支店の支店長をしていましたと言うとやっぱりなと言った。

 保険と言えば営業のプロが競い合ってる業界で知り合いもいたよと、懐かしそうに言い、なんで辞めたんだと聞かれて2000年の日本のバブル崩壊で、会社から部下の首を切れと言われできないと、本社の営業部長とやり合って、どうしても部下を切ることができないと言ってるうちに、嫌気がさして早期退職したというと気持ちはわかると同情してくれた。確かに、そんな時代もあったよなと言い山北社長に面白い奴を雇ったなと言った。

 悪いが、あんたよりよっぽど面白みのある奴だと豪快に笑うので、そんな殺生なと山北社長が言うと大笑となった。来年の1月15日まで新提案を提出して気に入ったら、お前の所を使ってやると言ってくれ山北社長と池田松男が、ありがとうございますと言って2次会が終わる時間となって支払いを済ませて帰ることになった。帰る途中、喫茶店によって山北社長に池田が企業団体会員権を買ってもらえなかった。

 しかし団体で我が社の施設を使う事が嫌という訳でなく、条件が合えば良いと言われたので一歩前進と考えて言いのではというと確かにと言った。具体的何を考えてると山北社長が池田に聞くと我が社の施設も施設ごとに混み合う時期と空いてる時期があるはずです。その空く時期、団体50人で宿泊してもらい2割引きで利用してもらえば良いじゃないですかと話した。山北社長が、それで行こうと言い会社に帰って閑散時期と施設のデータを整理して提案すると言う事でまとまった。

 具体的に検討した結果、10-11月と1月5日から1月末日迄の土日祭日含まない平日3日間の沖縄の施設、12月~2月末迄で土日祭日含まない3日間の北海道、大阪、奈良、神戸、九州の施設、4月中旬-6月、7月1日から25日迄で土日祭日含まない3日間信州と関東甲信越の施設を50名単位の施設利用で20%割引にするという計画書を考え、最終的にこの何て提出する事で社内での了解をもらった。

 2010年12月24日、クリスマスで、松男と幸恵さんがクリスマスパーティーをして、やがて2011年を迎え、2011年の1月10日に山北社長がステーキの会社で会社の甲斐一郎社長に電話をして1月15日の面会予約を取って山北社長と池田松男が甲斐社長の部屋で、この話をすると了解してくれ、総務部に電話をしてくれて、そちらへ行くように言われ、失礼した。

 総務部へ行くと先方の北村総務部長に提案書と山北リゾートクラブの施設のパンフレットを渡した。そして50名単位で土日祭日を含まない指定のシーズンであれば3泊4日以上の料金を20%引きで提供しますと話した。説明すると内容を理解してくれ福利厚生課の担当者2名を呼んで詳しい事を聞いておいてと引き継いでくれた。また同じ話をすると、50名、みな同じでは使い勝手が悪いから10人単位で、この条件の時期と施設なら使わせてくれないかと聞かれた。

 それに対し池田松男が構わないじゃないですかね山北社長と聞くと、結構ですよと返事をして了解してくれた。最後に池田松男が旅行の3日前に入金する事、キャンセル条件は同じ当日キャンセルは全額支払い、前日は半額の支払い、2日前は30%支払いの条件となっていますのでくれぐれもご注意下さいと付け加えた。わかりました、この条件で社内の福利厚生に山北リゾートクラブを使わせていただきますと言ってくれた。

 2011年2月に食品会社の50名の団体客の初予約があり1月第3週の火曜から金曜の3拍4日箱根の施設、20名様、2月第1週の火曜から金曜の3拍4日、熱海の施設、16名様、2月第3週のの火曜から金曜の3拍4日箱根の施設、16名様の合計52名の予約が入ったと連絡があった。それぞれ、ゴルフと観光を楽しむと言うことで承った様だ。その後も4-7月の九州、四国、大阪、神戸、岡山に合計58名の予約が入って山北社長も電話口で大喜びだった。

 そのため、今年も忘年会に来てくれとお誘いを受けた。池田松男の仕事も良い風が吹いてきて順風満帆かに見え、やがて暖かい日が増えてきた2011年3月11日、昼食をとってソファーでゆったりとしていた、午後2時47分、突然、大きな揺れに襲われて、普通の地震ならすぐ収まるのだが、益々、揺れが大きくなるではないか、幸恵さんが池田松男に抱き付いて怖いよーと泣き出した。

 池田松男は鉄筋のマンションの中にいた方が安全と思い、じっと揺れに耐えて幸恵さんを抱きしめ、かなりの長い時間に思えたが、約5分ほどで、揺れが収まると電気は消えてガスを使えない電話もかからない状態になったが2時間程で電気が通じてテレビを見ると東北の海の大津波の映像が入ってきてパニック映画の1シーンを見ている様な錯覚に陥る程の大きな大津波に流される家や車と人々が映し出された。

 その後、首都圏の交通が麻痺して電車が普通で仕方なく大きな国道を歩いて帰宅してくる人達の行列が映し出されて道路も車の大渋滞で麻痺状態。その後、仙台空港に海水が流れ込む映像が流れ、続いて気仙沼湾で石油の大きなタンクが燃えているのが映し出され、この世で地獄を見る様な光景ばかりで、陰鬱な気分になった。

 夕飯を終えた夜7時過ぎに枝野幸男官房長官が原子力緊急事態宣言の発令を発表、夜9時前に福島県対策本部から1号機の半径2キロの住民1864人に避難指示が出され、21時23分には、菅直人内閣総理大臣から1号機の半径3キロ内の住民に避難命令を出したほか、半径3キロから10キロ圏内の住民に対し「屋内退避」の指示が出た。

 福島電子力発電所の原子炉建屋上部の壁材のみ爆砕し鋼鉄の骨組みが残っている映像を見ると鳥肌が立った。この話を聞いて不安になって池田松男も幸恵さんも眠気が吹き飛んで、そのまま翌日までニュースを見た。海江田経産相は3時からの記者会見で原子炉格納容器の破損を防ぐため、1号機に関してベント作業、すなわち格納容器内の蒸気の放出作業の実行を発表、7時すぎ菅直人首相がヘリで第1原発に降り立ち1時間弱滞在し職員らから状況の説明を受け10時17分、電源喪失状態の中手作業でベント作業が開始されたが作業は難航。

最終的にベテラン作業員1人の手により14時30分に弁の開放は成功した。格納容器の破損は免れたが10分で作業で人間が1年間に浴びても良い放射線量の百倍以上に相当する106ミリシーベルトの放射線を浴び、作業員の男性は吐き気やだるさを訴え、病院に搬送された。放射の量からして劇的な原子炉溶解が起きたことは否定できず、この世の終わりを感じるくらい厭世観を感じてしまった。

 その後、何も手につかずボーットした感じが長く続いた。その後、睡魔に襲われて数時間ソファーで寝てしまった。その後も余震が続く日々に何も手がつかず、4月の川奈ゴルフクラブで一緒にゴルフもキャンセルしたとの連絡があった。そんな日々が続いていたが2011年4月29日東北新幹線が全線再開し7月18日に2011FIFA女子ワールドカップでなでしこ・ジャパンが優勝した。

 これが東北大震災後ようやく日本社会全体に明かりが差す様なニュース。この年の夏は原子炉発電ができない様になり関東地方で節電のために計画停電という、今まで経験をしたことない事をせざるを得なくなった。2011年は、東北大震災で、その後もほとんど何も手がつかない凍った1年となってしまった。円相場は8月19日、NY外国為替市場で、一時1ドル75円、終値76.25円台まで円高が進み戦後最高値を更新した。
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