エイエン(第1話)

文字数 2,059文字

 エイエンは、乱暴な子だった。思い切り腹を殴ってくる。手加減を知らない。だが、とても楽しそうに笑っている。その顔を見ると、どんな保育士も、したたかに痛む腹に手をあてながら、仕方なさそうに笑っているのだった。
 無邪気な子だった。ただ落ち着きがなく、ここにいたかと思えば、もうあっちへ行っている。他の子の面倒もみなければならない保育士にとって、エイエンは厄介な子どもだった。

 パート勤務のコジマは、しかしこのエイエンが大好きだった。エネルギーに満ち溢れ、活発すぎるほど活発な子ども。夕方の4時から3時間の勤務だったが、きりん組の教室に入ってエイエンの姿を見ると、困ったような顔をしながら微笑んでいた。
 エイエンのほうは、そんなこと知ったことではない。マイペースでロゴブロックを積み重ね、それに飽きるとすぐ壁に貼られている磁石で遊んでいる。

 担任のショーコが、申し送りをする。特に変わったことはない。きりん組の担任に決まった時、ショーコの脳裏にはエイエンのことが真っ先に浮かんだ。他の同僚が、心なしかホッとしているように見えた。問題児。何か大きな問題を起こしたことはない。その可能性があることが、保育士たちの気を重くさせていた。
 乱暴をふるって、他の子をケガさせるかもしれない。園として、何としてもそれは避けたいことだった。会議のとき、エイエンの名は挙がらないが、保育士たちの心配はエイエン一人に向けられた、といって過言でない。

 病気がちの子やおとなしい子は、たいして心配は要らなかった。身体が弱いことは我々の責任ではないし、おとなしい子は放っておいても一人で遊んでいる。オモチャを取られたとか、思い通りにならないことでワーンと泣くのがせいぜいだ。なだめて、仲よくさせて、笑わせる。
 最悪のことは、子どもの身体に傷を負わせること。これにくらべれば、他の問題はたいした問題にならなかった。

 5時を過ぎると、保護者が子どもを迎えに来る。やはり親と一緒にいるのが嬉しいのか、多くの子が、親の姿を見て喜んでいる。
 だがエイエンは、母親が迎えに来ても、変わらない。まわりがどうあろうが、自分の好きなことをやり始めたら、それに集中している。ただその時間が短く、2、3分で飽きて、別のものを見つけてはそこへ飛んで行き、そこでもまた数分で飽き、また別のところへ飛んで行くという具合だった。

 疲れ知らずというか、よくこんなに動いていられるものだと、保育士たちは感心と驚嘆の目で見ていた。不安と心配も、その目と比例した。
 担任であるショーコは、ほとんど(あきら)めの境地にいた。走り回るエイエンが、他の子とぶつかったり、危害を加えるようなことになっても、もう仕方ない。わたしの身体は一つなのだ。あの子一人に、付きっきりになっているわけにはいかないのだ。
 そう思いつつも、たえずエイエンの動向を視野に入れ、ほぼエイエン一人に振り回されていた。

 その日、申し送りを聞きながらコジマは、ショーコがひどく疲れていることに気がついた。無理もない。責任感の強い、いい先生だ。保護者達からの評判もいい。しかし… 彼は言った、
「今度、父兄たちとぼくらで、きりん組の親睦会みたいなのやりませんか」
「親睦会? そんな時間ないから」
「そりゃ忙しいから、園に子どもが預けられるんですけど」少し下を向いて、それからショーコを見て言った、「でもぼくらがマイッちゃったら、父兄たちも困りますよ。マナベ先生が、よくやってくれてるって、親もわかってる。モッタイナイですよ、マナベ先生が倒れちゃったりしたら」

「でも勝手にするわけにいかないでしょう」
「べつに強制じゃなくて、近所づきあいみたいな感じでいいんじゃないかな。子どもを育てるのに、仕事もプライベートもないですよ。たまたまぼくらは預かる仕事だけど、いのちが授けられたのは、親も他人も、子ども本人も同じことで」
 コジマも、少し疲れた様子で言った。

「仕事だからって、責任があるのはおかしい。業務上の過失って、完全に防げるものじゃない。親が業務上過失でタイホされたなんて聞いたことありませんや。でも園だと、子どもがケガしたらイケナイ。クレーマーもいるし、監督不行き届けだとか、怠慢だとか、責任問題になっちゃう。ちょっとのカスリ傷でも、イチャモンつけてくる〇さんみたいな人もいる」

 ショーコは、教室の隅で何かしているエイエンをちらと見た。
「子どもを育てるのは、親とか先生とか、そんな立場の問題じゃなくて… そういうの、取っ払って、腹を割って話し合えるような時間、あっていいと思うんです」

 ショーコは、面倒臭くなってきた。わたしは正社員だ。パートのコジマとは違う。でも、この人もまじめなんだよね。好きにするがいいわ、わたしはもう帰る。
「じゃ、よろしくお願いします。あ、△ちゃんのお母さん、今日20分くらい遅れるって連絡あったから」
「ホントにいいですか、やって」
「いいよ。園長にバレたら、あなたのせいにする」ショーコは笑って教室から出て行った。
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