第9話  別れ

文字数 3,235文字

 新年(2021年 令和三年)を迎えた。
 茉紗子を抱きかかえた真理は、食卓に乗ったおせちを前にして祐真と向き合っていたが、二人の間には、先ほどから何となく気まずく、ぎこちない雰囲気が漂っていた。
 真理は、茉紗子にかまけた様子を取り繕い、出来るだけ祐真の方を見ないようにしていた。

 きっと、夫は、フランス赴任の話を持ち出してくるだろうという予感が真理にはあった。
 二月半前だったら、真理は承諾したかもしれなかった。
 だが、カーリー屋崎の提案を受けてから、真理の状況は劇的に変わってしまっていた。
 もう、真理の中で結論は出ていたのだ。

 だが、夫の祐真は、四月に宣言したとおり、家族を第一に考えてくれるようになった。
 一時は、フランスへの同行を承諾する気持ちになったのだが、カーリー屋崎の提案に、夫には黙って承諾し、テレビの収録までしてしまった。
 どうせ自分には、会社経営の才能なんてないからカーリー屋崎の提案を断るための方便よと、自分に言い聞かせたのだが、それなら夫に話すべきだったろう。
 夫から反対されることを恐れたというのが真理の本心であり、最後までいけばなに関わりたかったというのが本音であった。

 しかし、それは夫に対する背信行為のような気がしていたのも事実だった。
 一生懸命それまでの自分を変えて、家族のために家事をする祐真の姿を思い出すと、申し訳ない気持ちになるのだった。
 だから、なおさら真理は、祐真に話しかけることが出来なかったのだ。

 それでも、とうとうごまかすことが出来なくなった。
 夫の祐真が、改めて、フランスへ同行する件は、どうだろうかと聞いたのだ。
 真理は、すぐに答えることが出来なかった。
 答えれば、いけばなと引き換えにこの幸せを手放すことになるだろう、自分の我儘(わがまま)で茉紗子にも将来悲しませることになるだろう、今更だとは分かっていても、いざとなるとそれが怖くて何も言葉が出なかったのだ。

 真理の答えを待ってしばらく沈黙が続いたが、祐真は、答えを強制するのは良くないと思い直すと、雰囲気を変えようと何気なくテレビのチャンネルを入れたのだった。
 そこには件の「プレアタ」が特番を組み、放送が始まったばかりだった。
 波間ちゃんの放送開始のあいさつの後、いきなり切り替わった画面に祐真は、言葉を失った。

 そこには、いけばな査定人として人気のあるカーリー屋崎と並んで妻の真理が立っていたからだった。
 カーリー屋崎は、今日限り番組を降板し、後任として真理を推薦したことを述べ、簡単に真理を紹介すると、真理も簡単な自己紹介の後、番組は、いけばな査定へと進行したのだった。

 真理は、こうなった経過と自分の気持ちの変化も全てを話した。
 カーリー屋崎から譲られたヘストンホテルのいけばな事業は、すでに人も場所もそろっており、あとは資本関係の詰めだけであった。
 会社設立も早ければ今月か来月のうちに可能だと話した。

 祐真は、真理の話を聞いて打ちのめされた気分だった。
 もう、妻の真理には再考の余地がないことも分かった。
 フランスへ同行する気持ちがあったなら、夫である祐真に今まで隠しているはずがないのだ。
 ------フランスへの赴任は断ろう。トップの自分だけが家族を同伴しないということは出来ない。初出社の日に部長に申し出て、退職届も出さなくてはな------

 祐真にとって、上司である部長は、理想の上司であり、高田取締役夫妻、それに森山社長も、祐真が武田製薬工業に就職できた恩人であるばかりでなく、祐真を高く買ってくれ、期待してくれたのだ。
 その期待に応えたかった。
 それにフランスへの赴任は、祐真にとって将来ベストのキャリアとなるものであり、彼らには感謝以外の何もない。
 それに応えることが出来ない自分が情けなかった。
 妻の真理に責任はない。
 全ては、元を(ただ)せば自分が()いた種なのだ。
 退職については、組織の理不尽でもない正当な実質的決定を断る以上、退職するというのが組織人として当然のことだ。
 ------しかし、退職のことを真理に話すのはよそう。真理を苦しめるだけだ。退職は、人事異動と業務引継ぎの関係もあるから3月の年度末を希望してみよう。それまでには、真理の会社の設立も終わっているだろう。退職の前に離婚もしておくべきだな。このまま結婚生活を続けて、俺が退職したことを知れば、真理をいつまでも苦しめる結果になるだけだからな------

 祐真の退職は、部長や高田夫妻、それに森山社長までもが慰留したのだが、祐真の決心は変わらなかった。
 退職の時期も3月末と決まった。

 祐真は、離婚届を真理に渡した。
 茉紗子の親権は祐真が持つと記載されていた。
 しかし、実際の生活は、真理が茉紗子を養育することで合意した。
 祐真が、親権にこだわったのは、せめて父親としての責任を果たしたかったからだった。
 養育費についても、毎月十分な金額を約束した。
 真理は、自分の我儘が原因だから養育費はいらないと言ったが、祐真は、父親としての責任を果たさせてほしいと真理に頼んだのだった。

 真理は、茉紗子と一緒に実家へ帰った。
 祐真は、今まで住んでいたアパートで一人暮らしを始めた。

 誰も予想しなかった祐真と真理の離婚は、少なくない人々に波紋を広げた。

 真理の父親は烈火のごとく怒り、真理を責めた。
 祐真君の何が不足なのだ、家族よりいけばなの方が大事なのかと。
 母親は、茉紗子が可哀そう、祐真さんに申し訳ないと泣いて、真理にフランスへの同行と復縁を懇願した。
 真理は、両親を前にうつむき、ただ黙っているだけだった。

 両親は、祐真にも土下座をせんばかりに謝り、娘との復縁を懇願した。
 祐真は、頭を下げ続ける義父母、いや、今は元義父母となった二人に頭を上げてください、悪いのは自分ですと言ったが、覆水が盆に戻ることはなかった。

 武田製薬工業の祐真の上司、高田夫妻、森山社長もまさかこのような事態になるとは夢にも思っていず、ショックを隠し切れなかった。
 特に人事担当取締役の高田里帆は、責任を感じていた。
 会社の人事方針が幸せな家庭を壊したのだ。
 里帆は、申し訳ない気持ちで、眠れない毎日を過ごした。
 この事件の後、武田製薬工業は、社員が海外へ赴任する際、家族の同行は問わず、と方針を変えたのだった。

 ヘストンホテルいけばな事業部のスタッフたちは、真理の離婚とその原因を知ると、真理の決意を再認識することとなり、皆が厳粛な気持ちで受け止めたのだった。

 予想外の反応を見せた人物もいた。
 それは、真理の師、カーリー屋崎だった。
 カーリー屋崎は、真理を社長室へ呼ぶと、真理に向かって、

「真理さん、どういうことなの⁉ あなた何を考えているの、取り返しのつかないことをしたことが気づかないの? フランスには永遠に行っているわけではないでしょ! いけばなだったらフランスから帰ってからでもできるじゃない、考えなおすことは出来ないの? 私は、家族を持たなかったことを今でも後悔しているわ、あなたには寂しい晩年なんか送ってほしくない!」

 心のこもった説得だった。
 ------でも、もう遅い。祐真さんも離婚の意思は固いし、復縁する気持ちはないと思う。祐真さんも私もすでに別の道を歩いている。もう引き返せない------

「先生、ご心配をおかけして申し訳ありません。でも、もう引き返せません。それに私には、茉紗子がいますし、今ではヘストンホテルいけばな事業も私の子どもです。先生、どうぞお許しください。そして本当にありがとうございます」

 真理は、師匠であり、社長であり、大恩人でもあるカーリー屋崎に深々といつまでも頭を下げた。
 カーリー屋崎は、言葉を継ぐことが出来なかった。
 ただ、真理を優しく哀しい目で見つめるだけだった。

 そして、祐真の離婚には、大きな衝撃と人生の運命の岐路を迎えることになる女性がもう一人いた。
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