第1話

文字数 750文字

私は、これまでの過去に大変満足している。
自分の選択に後悔することはあるが、幸運にも自分の中だけで留まり、世に暴露されることはなかった。
その安心感に浸り、大きな充実感と肝の冷たさを時々思い出す。
充実が大きく育つほど、その冷たさは一層際立ち、穴が開いたように冷えて固まり、底に落ちついている。
誤魔化しは効くが、忘れることはできない。




 「なにか希望はある?」と向かいの席に座る彼女が聞いてきた。
私は、コーヒーカップを持ちながら自分の部屋は欲しいと伝えた。
彼女は、風呂トイレは別がいいとか、南向きがいいとか、キッチンは広いところがいいとか
呟きながら部屋探しサイトのチェックマークを次々に押していく。

家賃の上限は?

いつから探し始める?

お互いの家にあいさつしに行かなくちゃね。

一回不動産屋さんに見に行ってみない?

私は吐く息に音を乗せるように答えていく。言葉の便利さにありがたみ感じていた。
決して乗り気でないわけではなかった。
然し、将来の話となると、殊に期待を膨らませた幸福そうな彼女を見ると、
今まで上手く大人を演じていた幼稚な自分が表れてくるのだ。
どちらの自分が本来の自分なのかはもはやわからなくなっていた。
少し、影を落とした彼女が目に入り、人間は都合よく鈍感でいてはくれないものだと
鼻から大きく息を吸って、音が聞こえないようゆっくり吐いた。

「そろそろ行こうか。」

「そうだね。」

伝票をもって立ち上がると、奥に立っていた女性が一歩目だけ跳ねるように動き始め、
レジに向かっていった。
彼女に預けていた財布を受け取り、支払いを済ませる。
押戸を開けて外に出ると、冷たい空気が火照った耳に冷たさを与えていた。
「次の休みはどこに行こうか。」
「どうしようね。」
声色は明るかった。
辺りの影の境界はぼやけていて、とても冷えていた。



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