第8話

文字数 493文字

 時計は9時を回ろうかとしている。
いつもは迎えに来てから1時間ほどは話し込んでいるが、その日はすぐに帰るよう促してきた。
私も父の言葉には抵抗せず準備を始める。
私が立ち上がると彼女の影が一層黒みを帯びたようだった。
彼女の周りだけ落ち窪んだかのように。

 父はリビングに入ると同時に気付いていた。
陽菜に向かって感謝を述べるが、彼女の言葉は失ったままだった。
父はなんとか言葉を引き出そうと何度も優しく呼びかけた。
幾度目かの呼びかけで滲んだ音をぽつぽつと並べ始める。
それが精一杯の様子で。
泊まっていくことは何度もあった。
彼女は今回もそれを望んだのだ。


彼女は、私が帰る事実が色味を帯びると、全てが敵に見えているようだった。
この時もまた、私はどっち付かずの位置を望んだ。
私ではなく彼女の希望で居残るならば、素直に眠ることができた。
毎回のこの問答は、叔母が父か彼女かどちらを説得するかで決まる。
今回は父に軍配が挙がった。

 父が来てから、やはり1時間は経っていた。
負けを知った彼女は、朝と同じように座椅子に丸くなっている。
私は荷物を持って父のそばに寄った。

「また来るね。」

「うん。」

小さく綺麗な音だった。
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