第14話

文字数 1,332文字

 彩音は、私が店についてからいつも少し遅れて店に着く。
大学終わりの時は、奥の座敷で仕事着に着替える。
波のような白い布を胸に飾ったシャツに、黒いタイトなスカートを履き
腰に紺のエプロンを巻いていた。

 店の電話が鳴り、奥さんが受けた。


「あら、石原さん。ええ、お待ちしておりますわ。
 お二人でよかったかしら。」


いつもの名前が聞こえた。
広告代理店の社長を名乗る、でっぷりと腹の肉を突き出した男だった。


「では、お気をつけていらしてください。」






   ***






 夜の7時より少し前に、店の扉が開いた。
男が現れると、目尻と口尻は下に垂れ、膃肭臍のような低い声で
おうっと挨拶にも満たない声を出して、入り口近くの壁際のカウンター席に座る。
照りの乗った紺色のスーツに身を包み、腹の肉を支えるように背筋は後ろに反らしていた。
二回りは若い女を連れて隣に座らせ、皺だらけのセカンドバックから二つ折りの
使い古された携帯電話を取り出した。


「おう、大将。ビールくれ、ビール。」


大将は、伝票に書きながら受けて、適当な肴の注文も受けた。
ショーケースの中から、いくつかの魚の柵を取り出した。


「彩音ちゃん、ビールお出ししてあげて」


彼女は、軽快な返事をして瓶ビールの栓を開け、小さいグラスを二つ
持って行った。
グラスを渡して、一杯目を注ぐ。


「おう、女。男はできたか。」


「いえいえ、出来ていませんよ。いい人がいらっしゃると良いのですけど。」
赤の映えた笑顔を作り、器用に注いでいた。


「なんだ、まだできてねぇのか。じゃあ、あいつでいいじゃねぇか。
 好みじゃねぇのか。」


「祥貴君ですか。受けてくださるかしらね。
 もういい人がいらっしゃるかもしれませんし。」


「よし、じゃあ俺が聞いてやろうか。」


そういうと、男は厨房に目を移す。見かねた奥さんが割って入って
彼女から話を引き継いだ。なだめるように話を逸らし、ひとしきり話しこんでくれた。
それに興が覚めた様子で、隣の女性と話し始め、半分ほど、一息にビール飲んだ。
私は厨房の奥で、ばつが悪い心持がして静かに息を潜めた。
厨房裏は、料理の受け渡しのために壁が抜かれるように店内と繋がっていた。
洗い場はそのすぐそばにあり、料理の受け渡しも私が行っていた。


 彼女がカウンターから戻ってきた。
私は作業台に腰をもたれて、何もない時間を纏わせていた。
彼女は戻ってきた勢いを使って一瞬私を視界に入れ、私の目線が向いていないことを確認すると
すぐに彼女も目線を外した。
目を向けなかった後悔と、あの丸々と太った男伝手に明らかにしてもいいという
一種の希望と不安を何とか押しつぶすように時間を使った。


 空虚を眺める時間は、雑音の一粒一粒を明確にするように穏やかにしか進んでくれなかった。
ぽつぽつと客が入り始めると、魚を焼いたり、飯をよそったり、戻ってきた皿や
グラスを洗う。
彼女も、酒を注いだり、甘いお酒を混ぜ合わせたり、淡々と仕事をしている。
彼女が、料理や酒を運ぶたびに心を固めたが、私の用意した言葉が役目を果たすことはなく終わった。
2時間ほど酒を飲んだ男は、気持ちよさそうに顔を赤く腫れあがらせ
ふらふらと店を出ていった。


「祥貴君。彩音ちゃん。まかない食べていくかい。」


大将は、そう言って手際よく作り始めた。

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