第20話

文字数 1,381文字

 将大から車の鍵を受け取った。
ボタンだけが付いた鍵の形をしない鍵は、やけに重く感じた。
心臓が震え、その震えはハンドルを握る手まで、微かに伝わっている。
慣れない車の為だと、小さく呟き、車を発進させた。
 いつものトンネルは通らず、漁船が幾つも留まっている海岸沿いを通った。
堤防の切れ目に、濁った海が時々顔を出す。
薄明るい黄色い電灯を孕んだトンネルを、左手に横切った。
砂利道の振動は、私の心臓の震えを更に助長させた。



 敷地に入り、車を停める。エンジンが完全に止まりきるまで、ゆっくり静かに待った。
黒ずんだドラム缶が見える。火は炊かれていない。
乾いた草の匂いを意識的に感じつつ、あの軽い扉に向かった。
靴底と砂が玄関前のタイルに擦れ、濁った音が鳴る。
取っ手を掴みドアを開けた。ドアは抵抗なく開いた。
重さを覚悟していたが、往々にして覚悟は無駄に終わることが多い。
それでも、保身のためにせざるを得なかった。



叔母の名前を呼んで、しばらく反応を待ってみた。
少しの静寂の後に現れたのは祖父だった。
私を認識するのに数拍の時間を要し、ゆっくりと私の名前を呼んだ。
濁点のついた感嘆を吐き、もう一度私の名前を呼んだ。


「久しぶり。」


「おお、久しぶりだな。本当にすまなかったな。あのバカのせいで。
 俺はもうあいつとは、縁を切ったからな。祥貴は、いつでもここに来たらいいんだぞ。」

堰を切ったように言葉を紡ぎ出した。

「ああ、ありがとう。これからは時々、顔を出すよ。
 陽子さんたちにも会いに来たのだけど、いるかな。」


「おうおう、とりあえず上がれ上がれ。陽子さんは、今ちょっと出かけててな。
 すぐ連絡してやるから、ちょっとゆっくりして行け。」


そう言うとすぐに携帯電話を取り出し、電話をかけだした。
わざわざ呼んで貰わなくても良いと断ろうとしたが、すでに発信音が漏れ出していた。



「ああ、陽子さんか。あのな、祥貴が来てるから、ちょっと戻ってくれないか。
 そうか。おう、おう、じゃあ、頼むな。」


端的な会話をすると通話を切った。


「祥貴、すぐ戻ってくると言っているからな。戻ってきたら、昼飯でも食いに行こうか。」


私は断ろうとも思ったが、言葉に甘えることも相手の為だと学んでいた。
喜んで受け入れてみることにした。
いつかの本で言っていた。嬉々として向かった家からは歓迎されていないが、
気乗りせず、嫌々訪れた家からはこの上なく歓迎されるものだと。
今回の私は後者であると、そう信じて全てを受け入れてみようと固く決心した。


「陽菜もいないのか。」


「おう、陽菜か。陽菜は、高校の寮にいてな。まだ帰って来ていないぞ。
 今年、卒業だが4月からは名古屋で暮らす予定だと言っていたな。」


「そうか。」


 これほど平常心を保つことに苦労したことはなかった。
判決を先延ばしにできた安心感がなければ、とうに崩れていたかもしれない。
あってはならない。この心に正直になることなど、何があってもあってはならない。
何かと訳を見つけてからでしか近づいてはならないと、若い時分ですら長く感じた期間を
乗り越えてきた。
それが、手を伸ばせば、足を延ばせば届く位置に向こうからやってきた。
すでに私はどう突き放すかではなく、近付く術を模索していた。
そんな自分を恥じるべきとは理解している。
然し、正論や正義、罪などは私の耳には雑音でしかないほどに、私の心は壊されていた。

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