第26話

文字数 1,216文字

 薄明るい橙色の空気の中を二人で歩いた。
彼女の髪に風の形が現れ、落ち着いた匂いが甘く香った。
彼女の足取りは軽く、歩幅は小さい。
着かず離れず、彼女の影を切り取るように眺めながら歩いた。

 大通りまで歩き、来るときに見た飲み屋街の端にある、小さい中華料理屋の前まで来た。


「もうここでいっか。」


「ああ、どこでもいいよ。」


「いっぱい食べてあげる。払ってね。」

 寂しさの裏返しのようなわざとらしい我儘。
それが一種の照れ隠しと、私を悦ばせる効果的な言葉であることを、彼女は理解しているようだった。
私の前を歩いていた彼女は、そのまま先に店に入っていった。
上着を脱いで席に座る。俯きがちにメニューを眺める彼女の唇は少し尖っていた。


「祥貴は何にする。」


「んー、麻婆豆腐でいいかな。」


「じゃあ、エビチリとカニチャーハンと餃子にする。」


「本当にいっぱい食べるんだな。食べきれるのか。」


「知らない。余ったら食べてね。」


 料理が運ばれ、彼女は一口水を口に含んでから食べ始めた。
最初から食べきることなど考えていないようだった。
最後に残りの水を飲み切ると、半分ほど残った皿を私に差し出した。
拒否される気など毛頭もないような笑顔を私に向けて、じっと待っていた。
私は静かに受けとって浚えた。その姿を見た彼女は、満足そうに笑った。


「やっぱり食べられなかったな。」


「わかっているなら、最初から頼みすぎなければいいじゃないか。」


「そういう問題じゃないの。」


「そうか。」

 明確な理由はわからなかったが、理解はできた気がした。
不明瞭なものを無理やり言葉にして体現させても、どこかに齟齬ができてしまう。
ただ受け入れて、あふれる感情を味わうことが一番理解に近い。
私は、陽菜を、陽菜の言葉を深堀せず、受け入れて理解することを望んでいた。


 会計を終わらせ、外に出た。
彼女は口を閉じ、先に歩き始めた。
車の風切り音とエンジン音が間隔をあけて鳴り響いた。
大通りを離れて住宅街を歩く。
彼女は歩みを緩め、立ち止まる勢いで私の肩の傍へ寄った。
彼女がぽつぽつと口を開き始めた。
「ねぇ。」
彼女が不安と葛藤の音を鳴らす。
覚悟を決めた私には、彼女の不安は色濃く感じられた。
どんなに揺さぶれようと、助け舟を感じようと、もはや私に懸念などなかった。
私にとって彼女の不安は、すでに風化した黒い塊だった。


「祥貴は嘘つき?」


「もう、違うよ。」


「間違っていることは私も気付いているよ。」


「俺も気付いているさ。随分、昔から。」


「そっか。正しさに憧れないでね。」


「君の嫌う場所に憧れるものか。」

 そう言って私は彼女の手を取った。
握り返す力と体温から、彼女の答えを受け取った。
私は手の中に残っている震えを握りつぶそうとした。
彼女のものか、自分のものか分からない。あるいは、双方のものかもしれない。
どちらにせよ、繋いだ腕がうまく振れなくなるほど強く握った。
いつしか彼女は私の少し後ろを歩く。甘い香りが耳元の暗闇から漂っていた。
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