第27話

文字数 1,631文字

 部屋の扉を開けると、外よりも暗く風がない空間が二人を包んだ。
明かりは点けず、彼女を振り返らずに歩くと、馴染みのない部屋の光景と匂いが記憶に強く刻まれた。
私はそのまま煙草を吸いに行くと言って、ベランダに向かうと彼女はここで吸えばいいと呟いたが引っ越したての部屋を汚すわけにはいかないと断った。


「そのうち気にしなくなるくせに。」


 彼女はそう言って洗面台の方に向かった。
これから私の怠惰によって積みあがってきた社会的地位が崩壊に向かっていくことを覚悟したが、実感を未だに腹の奥底に眠らせていた。
崩壊の一端を目の当たりして初めて目を覚ますだろうことは明らかだったが、その一端がどうにか留まることを祈った。

 すぐにでも友人の将大にだけは話してしまおうかとも考えたが、現時点で明らかな解決策など私の目にも明白で、それをさも正論のようにぶつけられるだけだと思いとどまった。
前提として陽菜を手放すことはできなった。

 私にとってのロッテが、お嬢さんが、皆が命を投げうった存在が、今私の腕の中にあるのだ。
彼女の目には今や私が居て、親友がその場所に思い焦がれることもない。
この幸福があれば、我々家族を苦しめた父の影など気にならないではないか。
その叔母や叔父から何を言われようと動じることなどないではないか。
彩音に軽蔑されようと平手を頬に受けようと、私の癒しは他にあるではないか。

 私もフランスにでも出かけようかなどと現実味のない空想を思い描いたが煙草を吸い終わると同時に思考からも消え去った。
 


 ベランダから戻ると陽菜も部屋着に着替えて戻ってきた。
部屋着を用意していない私は、上着と靴下だけを脱いで床に座ってテレビを点けた。
彼女は隣に座って私の肩に口を寄せた。


「煙たいぞ。」


「そうだね。焚火に当たった後みたい。」


「そんなにいいものじゃない。」


 彼女は寝息にも似た呼吸で気のすむまで吸い込んでいた。
私は彼女の頭に頬を乗せて、テレビを眺めた。
番組は雑音と化していたが、先ほどまでの思考も陽菜のことで覆いつくされていた。




   ***




 朝は狭いベッドで目を覚ました。生温い息が首元に当たる。
昔の面影が濃くなった陽菜の重みをしばらく感じていた。


「おはよう。祥貴。」

 彼女は目を瞑ったまま寝疲れたように微睡みの中で呟いた。
父の血を憎み、その恨みを潰すように彼女の頭を肩口に固く引き寄せた。
法には触れない罪を選び、社会に反論できない立場に身を置いてしまったのだ。
後悔はないが恐れがないわけではない。
冷たい外界から掛け布団一枚で隔たれ、相反するように体温と吐息の温もりを囲っていた。


「おはよう。」


「ねぇ、今日もここに居てくれる?」


「ああ。着替えだけ取りに戻るよ。」


「うん。待ってるね。」


「また不安になってるのか。」


「一人になるのがね。ちょっとだけだよ。」


 昼時には戻ると言って、外の世界に出た。
来るときの不安定な私とはまったく別の人物である気がして、一軒一軒の飲み屋の名前や外に張り出されているメニュー表をゆっくり眺めつつ歩いた。
駅までの道のりに、罪と罰の間の僅かな自由時間を得ることができ、微かに残る彼女の声に耳を凝らして歩いた。
袖に染み付いた彼女の匂いを口と鼻に押し当てて、誰にも聞こえないように陽菜の名前を声に出して歩いた。


 彩音からの着信は確認していたが、陽菜の前で返信を打ち込む時間を作るのは難儀を極めていた。
風化させるほどに黒ずんでしまうことは分かっていたが、「電車に乗るまで。」と甘美な時間を前に悩む時間すら惜しんだ。
風が立ち込む地下鉄のホームに降りると、私の望みに反し、目を光らせた電車がすぐに迫ってくる。
人がまばらに座るシートの一番端に腰かけ、重たい携帯電話を手に取った。


(祖父の体調は思うほど悪くなさそうです。)


(旅行先をいくつか考えておいてくださいな。三四日後には戻りますので。)



   ***



(祥貴さん?何かありましたか?)


(読みましたらお返事をくださいな。おやすみなさい。)







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