第51話 八月の十八

文字数 2,803文字

「……し、……しん……神使(しんし)。起きて。……はよ」

「はやく起きて神使。……わたし、こわいよ……」

 寒くはない。
 どちらかと言えば 、少し暖かく眠るのには心地よい。いつまでも横になっていたかったが、誰かに呼ばれたので、鹿目征十郎(しかめせいじゅうろう)は目を覚ますことにした。
 目蓋(まぶた)を開けると夜空があった。夜空は無数の流星に埋め尽くされていた。まるで、星々が一斉に寿命を迎えたようである。

 鹿目は上半身を起こす。
 背の低い草に囲まれていた。小高い丘の上に居るようで、他に何もない。見下ろすと遠くに家々の灯が見て取れて、あれは奈良の盆地かも知れないと、何故かそう思った。

「やっと起きたん神使。身体はもう大丈夫?」

 声がする方を見ると、千春が居た。鹿目と目線を合わすように、草むらの上にちょこんと正座している。

「……ああ、大丈夫だ。武くんや雪丸も無事なのか?」

「さあ? どうなんやろ? 私は神使しか見てないよ」

「そうか……、じゃあ、探さないと……しかし、此処はどこなんだ?」

 と言いながら鹿目は立ち上がった。少しふらつくが、問題はない。やはり、知らない土地に来ているようだ。視界は暗く良好ではないが、このような場所は記憶にない。

「どこやろな、私も分からへん。……あれ? 何これ?」

 立ち上がった千春は、自分の足元を見て驚いた。ベージュのチノパンの裾から下が、足首ごと白く光っている。シューズはもう、光に埋もれてしまって見つける事が出来なかった。

「動くなよ。今調べる」

 鹿目は慎重に観察した後、屈んで手を伸ばした。光は絶え間なく動き続けているようで、キラキラと輝いている。伸ばした手は意外にも、一切の反発なく光を通り抜けた。
 (さわ)れない。千春の足首を掴めない。草を掻き分けて何度も試すが、千春の足に触れない。そこには存在していないかのようだった。
 白い光は徐々にその面積を広げ、膝の辺りにまで到達した。当然そこも触ることが出来ない。虚しいまでに鹿目の手は、何度も空を切った。

「何なんだ! どうなっている! 大丈夫か千春!」

「神使! 助けて! 私、消えてしまう!」

 星が降り注ぐ静かな丘の上で、二人は散々に取り乱していたが、ふいに気配を感じて振り返った。

 近くに巨大な鹿が立っていた。
 だが、只の鹿ではないようだ。
 空に向かって枝を張る大木のような角を持っており、毛並みが銀を帯びた白だ。ガラス細工で作ったような、様々な色を(たた)えた瞳が、鹿目と千春を捉えていた。

「……誰だ、お前は?」

 鹿目は千春を、背中に庇いながら問いかけた。
 誰だ? と聞くには相手が適当ではないかも知れないが、不思議とそんな疑問は湧かなかった。

「……このような姿をしておるが、ワシは豊聡耳(トヨサトミミ)じゃ」

 通常の鹿より、二回りは大きいであろう白鹿から凛とした女性の声がした。
 この声は初めてではない。
 間違いなく豊聡耳の声だ。

「お前は、夢殿で死んだはずだ」

 鹿目は、燃え盛る火の塊に天十握剣(あめのとつかのつるぎ)を振り下ろした場面を思い起こす。豊聡耳は、この世を呪うかのような奇声をあげて夢殿と共に崩れ落ちたのだ。

「ああ、そうじゃな。神格としての活動は、もうすぐ終わる。終わりを迎えて、ようやく目が覚めた。神使、そして人間の娘よ。すまなかった。この世界に大きな傷を与えてしまった。許しておくれ……」
 
 白鹿は、申し訳なさそうに頭を垂れた。巨大な角が迫り、鹿目は思わず反る。

「やっと素面(しらふ)に戻ったのかよ。だったら教えろ。此処は何処なんだ?」

「此処は時間の濁流(だくりゅう)の中、お前達は、十五年前に向かって時を(さかのぼ)っている最中だ。本来なら認識することは出来ないが、ワシが可能にしておる」

「へ、へぇ~……なるほどな。にわかには信じられんが、神様が言うんだ。しょうもない反論はしないでおくよ……ウヘヘ」

 そう言って鹿目は夜空を見上げた。相変わらずの流星群だ。闇夜に光の線を落書きしたように、その線が増えていく。
 確かに、不思議な空間だ。あるようで決して存在しない、一度も見たことが無い景色だ。

「あ、あかん! 神使! どうしよ、これ止まらへん!」
 
 鹿目が上を向いたまま呆然としていると、後ろから千春の鬼気迫った声がした。
 振り返ると、千春は胸元まで白い光に包まれていた。物凄い勢いで、光が千春の身体を侵食し始めている。思っていたよりも遥かに速い。

「大丈夫か千春!? 一体何なんだこれは? 豊聡耳、どうやったら止まる?」

 豊聡耳のガラス細工の目が、様々な色を見せて薄い紫に変わった。

「その娘は行けない。過去には戻れない」

「何? どういう事だ?」

 鹿目は食い気味に言ってから、千春を無我夢中に抱きしめた。豊聡耳の冷たい声がする。

「過去に戻れるのは、お前と雪丸だけじゃ。その娘は消える。十五年後の世界は、また違う世界になるのだ」

「おい! しっかりしろ千春!」

「……し、神使」

 抱き締めた千春が、鹿目の耳元で囁く。力を失って、ぐったりとしていた。もう、光に呑まれていない部分は、顔と肩、腕ぐらいしか残っていない。

「……どうやら、もうあかんわ。どう頑張っても無理みたい。そこの鹿さんが言ってる通りになりそうや」

「…………!」

「……ねえ神使。もし無事に戻れたら……、しっかり仕事してな。私が、またお姉ちゃんと暮らせるように、武くんが佳世ちゃんと離れんで済むように……」

「ああ! ああ! もちろんだ! 全力でそうさせてもらうよ。休みも返上して、お前らの為に働くよ!」

「……ふふっ、安心したわ。……わたし、神使の事、ちょっと好きやってんで……。ありが……とう、し、んし……」

 鹿目の両腕が空を掴んで交差した。子供の(あみ)から逃げる蝶のように、光の粒になった千春が空に昇っていく。千春は天空の星に誘われて、仲間になった。彼方へ流れて行く。

「……それで? 俺は、これからどうしたらいい?」

 一陣の風が吹いていった後で、鹿目は豊聡耳に声をかけた。空を睨んだままだ。

「この時間の逆流は、十五年前の八月十八日の午後。法隆寺境内でワシと出会った後に、中門を潜る場面につながっている。法隆寺は、そこからまたやり直すつもりだろう。従って、それを(くじ)く」

「一体どうやって?」

 鹿目は豊聡耳を見る。

「魔都化が始まる初日にお前を送り込む。この時間の繰り返しの中で、恐らく初めて、お前が法隆寺より一歩抜きんでる瞬間だ。まずは夢違(ユメチガイ)を消せ。そうすればワシも役に立てる。この一回が最初で最後だ。無駄にするなよ」

「わかった。雪丸もいるんだよな? 心強い」

「では、頼んだぞ神使。ワシもそろそろ存在維持の限界だ。優しい世界で、また会えますように」

 豊聡耳が白い光に包まれる。
 あっという間に細かい粒になると、千春と同じように空へ昇っていった。
 鹿目は、なんだか泣きそうになって、一人明るい空を見上げた。
 心の整理に、少し時間がかかりそうだった。

「さようなら豊聡耳。大和の神様、聖徳太子……」
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