第30話 暗闇の中で
文字数 3,764文字
菜月の店から法隆寺 までは、直線距離で約二キロ。
女子高生の姿に擬人化した南大門 は、強大過ぎる力を使って、法隆寺 まで続く松並木 を作った。
まるで神の御業 だ。
瞬きする間に地形を変えることなど、格の高い神使 でも出来ない。
唯一、それに近い事が出来るとしたら、天音 大佐を除いては、他にいないであろう。だが、大佐の場合は、作るのではなく破壊活動の結果で地形が変わってしまうのだが……。
鹿目征十郎 がトボトボと歩いている道は、大型トラックが余裕で通れそうなぐらいの広さがあった。両脇に松が鬱蒼 と繁 って、空を覆い隠すので陽が射さない。
松は、幹と幹が絡み合うように伸びており、それが何重にも折り重なっているので、通り抜けるのは不可能だ。前か後ろにしか進めない。
後ろを振り返ると暗闇だった。菜月の店はもう見えない。
鹿目は、先月の七月三日に二十四歳になった。
神使 になってから、実に四年の月日が経過していた。
はじめに神使になった時、鹿目の序列は四十二番だった。それが今は九番。前にいた三十名ばかりは、何処に行ってしまったのか?
簡単に言うと、それぞれが災難に巻き込まれて戦列を離れていた。災難の種類は、死亡や怪我での再起不能。死体が見つかれば良いが、そうでなければ、永遠と行方不明扱いにされた。
現代の日本で、このような待遇を受ける職場が他にあるだろうか?
きっと無い。
無いと信じたい。
「好きでやってんじゃねえよ。ウヘヘ……」
鹿目は辿り着きたくなかった。
何処にも行けないので、仕方なく暗い道を歩いているだけだ。
序列が九番の鹿目に出来るのは、刃物を幾つか取り出して、火をつける事ぐらいだ。それ以外は何も出来ない。
延々と続く道を作るような化け物に、抗う術など恐らく待ち合わせていない。
負けが濃厚の試合をする羽目になるのだろう。
何か妙案は浮かばないかと考えているが、非常に難航していた。
「家に帰りてぇなぁ……ウヘヘ……」
盆暮正月のみ、帰省することを許されている。それ以外は、電話することも禁止されている。
父親は死んでしまったが、五十を過ぎた母親が、まだ家にいた。奈良に派遣される事になったので、今年の盆は母親に会えていない。
鹿目はズボンのポケットをまさぐった。
検索と業務連絡にだけ使用しているスマートフォンが出てくる。
ふと、ルールを破って、母親に電話をしようかと思った。
無事に生きて帰れる保証など何処にもない。
最後の最後に、声を聞くぐらいなら許してもらえるだろう。
すると、手の中でスマホが震える。
液晶画面には、『注意!天音 大佐』と表示されていた。
少し早い三時の定時連絡だろう。
相変わらず抜群のタイミングだ。
鹿目はダルそうに息を吐くと、通話表示のマークを触った。
もちろん、歩くのを止めて道の端に立っている。
誰も居ないのに何故だろうか?
それは生き様だ。
鹿目は軽薄だが、槍が降ろうとも歩きスマホだけは、しない男なのである。
「これは大佐。ご機嫌いかがでしょうか? エントリーナンバー九番の鹿目で御座います」
「…………」
「おんや? 天音大佐は、ご機嫌斜めなのですね。何も返事がないぞ」
電話をかけてきておいて、何も喋らないとは。
随分と舐められたものだと鹿目は思うが、これぐらいの仕打ちは、いつもの事である。いちいち気にしていられない。
「では、勝手に喋らせてもらいますね。豊聡耳 の行方は未だ不明です。法隆寺の中門を守っていた阿形吽形 が、わざわざ襲って来たので、これは倒しておきました。それから色々あって、何処にも行けなくなったので、今は法隆寺に向かっていますよ。必然的に豊聡耳の捜索は後回しになりそうですね。はい、そういう感じで、よろしくお願いします」
「…………んん。ああ、すまんすまん。少しお前の資料を確認していた。今から法隆寺か、気を付けていけよ」
やっと返事があった天音大佐の声が、何故かいつもより優しく感じた。
前も後ろも先が見えない暗闇の中で、孤独に立っているから、そう感じるだけかも知れないが……。
「わかりました。では、また明日の定時連絡で……」
鹿目は通話を終えようとする。すると天音大佐が、待て、と言った。
「いや、鹿目。急遽 、私も奈良入りする事になった。貴様は確か……斑鳩 だな。合流場所はどこがいい?」
「え? 大佐が来られるんですか? いつです? いつ頃になりますか?」
希望の光が見えてきたと鹿目は思った。
大佐が来てくれれば、戦力的には申し分ない。南大門が引き連れていた大蛇の大群も、天音大佐なら、きっと対応出来る。
「明日の午前中だ」
すぐに目の前が暗くなった。
まさに今、鹿目は地獄に続く一本道を歩かされている所なのだ。前か後ろにしか進めない中で、明日の午前中まで時間を稼ぐのは難しい。
一度、戻ろうかと後ろを振り返ると、今来た道が無くなっていた。
「ウヘヘ……」
鹿目の口から、乾いた笑いが思わず漏れる。
いつの間にか、松の幹が絡み合って、後ろが壁のようになっていた。南大門の仕業だろう。鹿目が逃げ出さないように、道を塞いだのだ。いよいよ鹿目は、前にしか進めなくなってしまった。
「……申し訳ありません大佐。明日の午前中までは待てません。化け物の一人、南大門の罠にかけられてしまって、もうすぐ法隆寺に着きそうです」
「そうなのか? よし、わかった。なるべく早く、そっちへ向かう。それまで耐えろよ」
「わかりました」
と鹿目は返事をしたが、本部のある東京都千代田区神保町から、奈良までは何百キロも離れている。南大門や法隆寺との戦闘は、一先ず鹿目が一人で請け負うしかなさそうだった。
話しながら前に向き直ると、遥か先の闇の中から白い点が飛び出して、此方 に向かって来るのが見えた。
「大佐、すみません。何かが向かってきます」
「化け物か?」
「い、いえ、あれは……犬です。白い……犬」
物凄いスピードで近づく物体は何かと目を凝らすと、それは白い犬だった。
菜月の買い出しをしている途中で出会って、松並木の手前で別れた雑種の犬だ。
元気にやっていたようだ。松並木は動き回って、絶えず変化していたから、びっくりしていた事だろう。
犬は鹿目の足元まで辿り着くと、頭を太ももに擦り付けた。甘えたような細い声を出す。
「白い犬だと? ああ、今声が、こっちにも聞こえた」
天音大佐は少し驚いているようだ。そして、冷静さを欠いてしまったのか、とんでもない事を言い出す。
「鹿目中尉。その犬と一緒に向かえ」
「はい?」
「犬を連れて行けと言っている。私が到着するまで、お前とその犬のコンビで耐えるんだ。分かったな?」
「あのぅ……。本音を言いますと、よく分かっていませんが……」
「分からなくてもいい。いいから連れて行け。それとも、私の命令がきけないのか?」
鹿目は、また、このパターンだと思った。無理難題を押し付けられて抗議しても、まるで取り合ってもらえない。
どっと疲れが押し寄せて来た気がして、鹿目は目線を落とした。
相変わらず白い犬は、嬉しそうに鹿目にすり寄っている。
もし無事に、今回の任務をやり遂げる事が出来たなら、返上していた休暇を返してもらおうと思った。この、なついてくれるワンちゃんを実家に連れて帰って、散歩してやってもいい。首輪をしていないから野良なのだろう。何も考えずにぼんやりと過ごす、そんな休日が欲しくなった。
「……分かりました。おっしゃる通り二人で仲良く法隆寺まで向かいますよ。それと全部片付いたら、休暇をもらって実家に帰りますからね! 誰が何と言おうと、そうさせてもらいます!」
奈良以外にも五県、魔都化の兆候があると聞いたが、そこには他の神使が派遣されているはずだ。そこへ応援などという事になれば、いよいよ不眠不休で働かされる。極限の任務を連チャンでもしたら、身も心も壊してしまうだろう。
「実家に帰るだと? 本気で言っているのか?」
天音大佐の声が冷たい。だが、ここで挫けては休暇は貰えない。
今から必死で化け物どもと戦うのだから、それぐらいの餌はあってもいいだろうと鹿目は思った。
「鹿目中尉。お前の実家は何処 だ?」
「え? 何処って、あそこですよ大佐」
「だから、何処だ?」
「ええっと……、あれ? 何処だっけ? 思い出せないなぁ……ウヘヘ」
おや? と鹿目は記憶を遡 る。
父親が早くに死んでしまって、母親と二人で暮らした家は何処にあったのか?
そういえば、母親の顔も靄 がかかったように、はっきりと思い出せない。おかしい……一体どういう事なんだ。
困惑する頭に、天音大佐の声が届いた。
「お前の資料に書いてある。お前の実家は千葉県という所にあった。だが、魔都化が完了してしまって、今はもう無い。今年の六月の話だよ」
「え、そ、そんな……。でも覚えています。少しだけど覚えているんです!」
鹿目は狼狽 える。天音大佐の言うことでも、今度ばかりは素直にきけない。
「お前は今、魔都化が進む奈良にいる。半分あちら側にいるという事だ」
人々から忘れられた土地には、魑魅魍魎 の類 が住み着き魔都と化す。
その土地に関する全ての事は、記憶というざるから砂のように抜け落ちていく。
――ここ奈良も、いずれそうなる運命だ。
女子高生の姿に擬人化した
まるで神の
瞬きする間に地形を変えることなど、格の高い
唯一、それに近い事が出来るとしたら、
松は、幹と幹が絡み合うように伸びており、それが何重にも折り重なっているので、通り抜けるのは不可能だ。前か後ろにしか進めない。
後ろを振り返ると暗闇だった。菜月の店はもう見えない。
鹿目は、先月の七月三日に二十四歳になった。
はじめに神使になった時、鹿目の序列は四十二番だった。それが今は九番。前にいた三十名ばかりは、何処に行ってしまったのか?
簡単に言うと、それぞれが災難に巻き込まれて戦列を離れていた。災難の種類は、死亡や怪我での再起不能。死体が見つかれば良いが、そうでなければ、永遠と行方不明扱いにされた。
現代の日本で、このような待遇を受ける職場が他にあるだろうか?
きっと無い。
無いと信じたい。
「好きでやってんじゃねえよ。ウヘヘ……」
鹿目は辿り着きたくなかった。
何処にも行けないので、仕方なく暗い道を歩いているだけだ。
序列が九番の鹿目に出来るのは、刃物を幾つか取り出して、火をつける事ぐらいだ。それ以外は何も出来ない。
延々と続く道を作るような化け物に、抗う術など恐らく待ち合わせていない。
負けが濃厚の試合をする羽目になるのだろう。
何か妙案は浮かばないかと考えているが、非常に難航していた。
「家に帰りてぇなぁ……ウヘヘ……」
盆暮正月のみ、帰省することを許されている。それ以外は、電話することも禁止されている。
父親は死んでしまったが、五十を過ぎた母親が、まだ家にいた。奈良に派遣される事になったので、今年の盆は母親に会えていない。
鹿目はズボンのポケットをまさぐった。
検索と業務連絡にだけ使用しているスマートフォンが出てくる。
ふと、ルールを破って、母親に電話をしようかと思った。
無事に生きて帰れる保証など何処にもない。
最後の最後に、声を聞くぐらいなら許してもらえるだろう。
すると、手の中でスマホが震える。
液晶画面には、『注意!
少し早い三時の定時連絡だろう。
相変わらず抜群のタイミングだ。
鹿目はダルそうに息を吐くと、通話表示のマークを触った。
もちろん、歩くのを止めて道の端に立っている。
誰も居ないのに何故だろうか?
それは生き様だ。
鹿目は軽薄だが、槍が降ろうとも歩きスマホだけは、しない男なのである。
「これは大佐。ご機嫌いかがでしょうか? エントリーナンバー九番の鹿目で御座います」
「…………」
「おんや? 天音大佐は、ご機嫌斜めなのですね。何も返事がないぞ」
電話をかけてきておいて、何も喋らないとは。
随分と舐められたものだと鹿目は思うが、これぐらいの仕打ちは、いつもの事である。いちいち気にしていられない。
「では、勝手に喋らせてもらいますね。
「…………んん。ああ、すまんすまん。少しお前の資料を確認していた。今から法隆寺か、気を付けていけよ」
やっと返事があった天音大佐の声が、何故かいつもより優しく感じた。
前も後ろも先が見えない暗闇の中で、孤独に立っているから、そう感じるだけかも知れないが……。
「わかりました。では、また明日の定時連絡で……」
鹿目は通話を終えようとする。すると天音大佐が、待て、と言った。
「いや、鹿目。
「え? 大佐が来られるんですか? いつです? いつ頃になりますか?」
希望の光が見えてきたと鹿目は思った。
大佐が来てくれれば、戦力的には申し分ない。南大門が引き連れていた大蛇の大群も、天音大佐なら、きっと対応出来る。
「明日の午前中だ」
すぐに目の前が暗くなった。
まさに今、鹿目は地獄に続く一本道を歩かされている所なのだ。前か後ろにしか進めない中で、明日の午前中まで時間を稼ぐのは難しい。
一度、戻ろうかと後ろを振り返ると、今来た道が無くなっていた。
「ウヘヘ……」
鹿目の口から、乾いた笑いが思わず漏れる。
いつの間にか、松の幹が絡み合って、後ろが壁のようになっていた。南大門の仕業だろう。鹿目が逃げ出さないように、道を塞いだのだ。いよいよ鹿目は、前にしか進めなくなってしまった。
「……申し訳ありません大佐。明日の午前中までは待てません。化け物の一人、南大門の罠にかけられてしまって、もうすぐ法隆寺に着きそうです」
「そうなのか? よし、わかった。なるべく早く、そっちへ向かう。それまで耐えろよ」
「わかりました」
と鹿目は返事をしたが、本部のある東京都千代田区神保町から、奈良までは何百キロも離れている。南大門や法隆寺との戦闘は、一先ず鹿目が一人で請け負うしかなさそうだった。
話しながら前に向き直ると、遥か先の闇の中から白い点が飛び出して、
「大佐、すみません。何かが向かってきます」
「化け物か?」
「い、いえ、あれは……犬です。白い……犬」
物凄いスピードで近づく物体は何かと目を凝らすと、それは白い犬だった。
菜月の買い出しをしている途中で出会って、松並木の手前で別れた雑種の犬だ。
元気にやっていたようだ。松並木は動き回って、絶えず変化していたから、びっくりしていた事だろう。
犬は鹿目の足元まで辿り着くと、頭を太ももに擦り付けた。甘えたような細い声を出す。
「白い犬だと? ああ、今声が、こっちにも聞こえた」
天音大佐は少し驚いているようだ。そして、冷静さを欠いてしまったのか、とんでもない事を言い出す。
「鹿目中尉。その犬と一緒に向かえ」
「はい?」
「犬を連れて行けと言っている。私が到着するまで、お前とその犬のコンビで耐えるんだ。分かったな?」
「あのぅ……。本音を言いますと、よく分かっていませんが……」
「分からなくてもいい。いいから連れて行け。それとも、私の命令がきけないのか?」
鹿目は、また、このパターンだと思った。無理難題を押し付けられて抗議しても、まるで取り合ってもらえない。
どっと疲れが押し寄せて来た気がして、鹿目は目線を落とした。
相変わらず白い犬は、嬉しそうに鹿目にすり寄っている。
もし無事に、今回の任務をやり遂げる事が出来たなら、返上していた休暇を返してもらおうと思った。この、なついてくれるワンちゃんを実家に連れて帰って、散歩してやってもいい。首輪をしていないから野良なのだろう。何も考えずにぼんやりと過ごす、そんな休日が欲しくなった。
「……分かりました。おっしゃる通り二人で仲良く法隆寺まで向かいますよ。それと全部片付いたら、休暇をもらって実家に帰りますからね! 誰が何と言おうと、そうさせてもらいます!」
奈良以外にも五県、魔都化の兆候があると聞いたが、そこには他の神使が派遣されているはずだ。そこへ応援などという事になれば、いよいよ不眠不休で働かされる。極限の任務を連チャンでもしたら、身も心も壊してしまうだろう。
「実家に帰るだと? 本気で言っているのか?」
天音大佐の声が冷たい。だが、ここで挫けては休暇は貰えない。
今から必死で化け物どもと戦うのだから、それぐらいの餌はあってもいいだろうと鹿目は思った。
「鹿目中尉。お前の実家は
「え? 何処って、あそこですよ大佐」
「だから、何処だ?」
「ええっと……、あれ? 何処だっけ? 思い出せないなぁ……ウヘヘ」
おや? と鹿目は記憶を
父親が早くに死んでしまって、母親と二人で暮らした家は何処にあったのか?
そういえば、母親の顔も
困惑する頭に、天音大佐の声が届いた。
「お前の資料に書いてある。お前の実家は千葉県という所にあった。だが、魔都化が完了してしまって、今はもう無い。今年の六月の話だよ」
「え、そ、そんな……。でも覚えています。少しだけど覚えているんです!」
鹿目は
「お前は今、魔都化が進む奈良にいる。半分あちら側にいるという事だ」
人々から忘れられた土地には、
その土地に関する全ての事は、記憶というざるから砂のように抜け落ちていく。
――ここ奈良も、いずれそうなる運命だ。