第42話 魔都化

文字数 2,581文字

 焼け落ちた中門の前を右に折れて、巨大な白い獣は石畳を蹴った。松の林が密度を増しており、法隆寺の境内を埋め尽くさん勢いである。それは東の方角に向かえば向かうほど、酷くなっていくようだった。その中を、白い獣は風のように走り抜ける。
 背中には、吐き気をもよおしている鹿目征十郎(しかめせいじゅうろう)と、後ろに、はしゃぐ千春、更に後ろには、首が赤子のように据わらない武くんが跨がっていた。あと五分もしない内に、武くんの首は取れてしまうだろう。

「やはり東大門も、焼け落ちて、ぶっ!」

 激しく上下する中で、捉えた視覚情報を後ろの二人に伝えようとして、鹿目は舌を噛んだ。鹿目が伝えたかったのは、あっという間に見えてきた東の出入口である東大門が、他の門と同じ様に焼け落ちているという事と、そこから先が真っ暗で、向こう側が確認出来ないという事だった。

 当然ここは一旦停止。
 安全を充分に確保してから進むべきだが、きっと、育った環境が大きく違ったのだろう。巨大な霊獣である雪丸は、鹿目達を乗せたまま、まるで空を飛ぶかのように東大門跡を飛び越えた。
 雪丸は、些細な事は気にしないタイプらしい。着いた場所は、これまでとは違って、松が左右に整然と並んで続いており、薄暗い参道の入り口に立ったようである。

『さて、邪悪な気配が近づいて来たよ。降りるかい?』

 雪丸がそう言ったので、千春を残して、鹿目と武くんは、広い背中から降ろしてもらうことにした。
 雪丸の背中から降りると、武くんは金属バットを杖のようにして、辛うじて立っている。鹿目は肩を貸した。が、鹿目も吐き気がしてフラフラだった。病人が病人に手を差し伸べたようになっている。

「ふう……。さあてと、本当に大丈夫か武くん。きつい戦いになるぞ」

「……ああ、大丈夫。しょうもない事気にすんなや。豊聡耳(トヨサトミミ)に会えるんや。やっと佳世の仇がとれるねんで。楽しみでしゃあないわ」

「そうか、佳世ちゃんの仇か。なら俺も協力しよう」
 
 鹿目は、千春の姉の菜月を思い出した。彼女には、どんなに会いたくても、もう会えないのだ。だから、余計に会いたくなった。

 鹿目達が、横一列に並んで進み出すと、夢殿に通ずる門の前に来た。ここら一帯は東院伽藍(とういんがらん)と呼ばれており、夢殿は、その中の一つの建物である。門は、さほどの大きさはなく、向こうの様子を窺うと、特に異常はないようだが、禍々(まがまが)しく重い空気が漂っている気がした。
 三人と一匹は、それぞれの顔を交互に見る。次に大きく息を吸って、一歩踏み出そうとした。
 その時に声を掛けられた。

「ようやく着いたか神使。少し遠くに飛ばしすぎたかえ?」

 鹿目達が、ぎょっとして振り向くと、十歩ほど離れた後ろに、薄い若草色の羽衣を羽織った女がいた。まるで天女が、ひっそりと舞い降りたようである。一重で切れ長の目が、じっと一点を見詰めており、紅をひいた口元には、冷たい笑みが浮かんでいた。

 千春を乗せた雪丸が、頭を低くして対峙する。威嚇するように喉を鳴らした。

『神使、気が付いたかい? 十五年前に僕達を穴に落とした張本人がやって来てくれたよ』

「うお! マジか。法隆寺のお出ましか!」

 鹿目が驚くと、突如、銃声が響いたので二度驚いた。よく確認もしないまま、千春が猟銃をぶっぱなしたらしい。
 口より先に鉛の弾が出る。
 法隆寺の右肩が押されて、そのまま後方に飛んだ。

「おい! いきなり撃ったのか! 化け物じゃなかったら、どうする!」

 鹿目は手の早い千春を叱る。
 千春は半泣きになって答えた。

「違う違う! 思い出した! あいつおった! お姉ちゃんが襲われた時、遠くで見とった女や!」

「何だって!?」

「俺も覚えてるぞ! 見たことあるぞ! うらあああああ!」

 武くんは、そう叫びながら、金属バットを担いで駆け出すと、倒れた女に向かって振り下ろした。まるで躊躇(ためら)いがない。
 乾いた音が聞こえると、武くんは腕を庇うような仕草をした。金属バットが跳ね上がって、倒れていた女が消えてしまった。幻のように女が居なくなってしまい、武くんの一撃は、硬い地面を殴って終わってしまった。

「……クククッ」

 後ろから笑い声がした。
 何一つ愉快な事などない状況で、どこか陰鬱(いんうつ)な声は、場違いなのでよく響く。
 鹿目達は、また振り返った。
 東院伽藍の門の向こう、八角形の夢殿を背に、法隆寺が立っていた。いつの間に移動したのか、誰にも分からなかった。

「……クククッ。もうすぐじゃ……。もうすぐ魔都化が再び起こるぞぉ……。クククッ……。お前達が用を済ませて死ねば、すぐにでも暗黒が舞い降りる……。さあ死ね。さあ死ね。早く死ねぇぇ……魂を、魂を差しだせぇぇ。くその掃き溜めどもがぁ!!」

 げぇ……なんだ、こいつは。
 本領を発揮した法隆寺を前にして、鹿目は思わずチビりそうになった。綺麗な顔して汚い言葉を、よくぞここまで並べたものだ。全ての言葉が耳元で囁かれたように、ダイレクトに伝わってくる。心が真っ黒に染まってしまいそうだった。

『させないよ。魔都化なんて……。君は僕の主人を囲っているよね? 返してもらおうか』

 襲いかかる圧迫感のなか、一人雪丸だけはいつもと変わらない。

「黙れよ犬。妾に偉そうな口をきくな……。クククッ……。お前の主人など囲ってなぞいないが……。まあ、よい。豊聡耳に会いたいのか? 会わせてやるぞ」

 法隆寺は大きな口を、にぃぃと広げた。笑っているのかも知れない。だが、蛇が大きな獲物を喰らうために、顎の関節を外したようにしか見えなかった。その蛇が、恐ろしい事を言い出す。

「……と、その前にだ。豊聡耳の偉大な功績について教えてやろう。つい今しがたも、奈良県を南下中の総勢二十五名を、鳥どもに襲わせて皆殺しにしておったぞ。女子供も見境なしだ。血も涙もないな……クククッ」

「なんやとぉ! それは本当か!!」

 と武くんが言った。語尾が震えている。

「……クククッ。自分たちで確かめたらどうだ? 妾はここで待っている」

 法隆寺が真顔になる。
 邪悪だ。
 どこまでも邪悪な顔だ。

『いけない! 気を付けて!』

 甲高く、雪丸の声がしたのを最後に、眼前に何かが貼りついて、急に景色が見えなくなった。
 訪れた暗闇の中に、一瞬、観音像が浮かび上がったが、すぐに小さく遠退いて消えた。鹿目は抗うが、顔に貼り付いた黒い影が取れなかった。
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