第63話 計画

文字数 1,877文字

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 そんな内部事情もあったが、瀬戸のオーボエはなんら問題なく、より洗練されていた。ブレスコントロールひとつとっても、同じダブルリードでもバスーンとは全く別ものであるはずなのに、息が余ってしまうオーボエ特有のブレスが板についていた。
 木管セクション全体でも、夏の定期演奏会よりも際立って上達していた。金管、打楽器、弦楽器、なにより第一バイオリンの首席(すなわちコンサートマスターの)の学生の成長は素晴らしかった。夏の定期演奏会はみなTシャツ姿であったが、冬はレンタルのタキシードとブラックドレスに身を固める。その中で唯一、燕尾服を着ることが許されるのがコンサートマスター(および指揮者)なのだ。プレッシャーも大きいだろう。しかしこのコンサートマスターは初夏、そしてサマーコンサート、それから今にいたるまで黙々と練習をこなしていた。ストリングスのボウイング(弓の動かす方向)の統一など初歩の仕事もサマーコンサート――サマコンにも間に合ったし、音程にも耳ざとくなった。ドレミでいうと、ドとレのあいだを二等分にした音を半音という。これをさらに一〇〇等分した音程を一セントというのだが(厳密には違うが、ここで問題にはしない)、かれは弦楽器群での合奏中であっても二十五セント、つまり半音の四分の一の音程の狂いを判断できるようになっていた。
「コンマス、だいぶピッチ厳しくなってきたね」と、フルートの『お嬢様方』が小声でいった。「でもこれから。冬の定演までもっとよくなるはずよ」ころころと笑いながら「あたしら並みにレベルアップしたらオケも面白くなるかもね」といい、また小声で「まだよ、『局』が辞めてからよ」と結び、くすくすと肩を揺すった。
 鈴谷も瀬戸も、また高志もだれもなにもいわず、ペットボトルのミルクティーを飲むステージ下の吉川を見ていた。

 冬季定期演奏会の演目はファミリー層のみならず一般の、しかも目の肥えた客層も満足させうるものが好ましい。サマーコンサートの終了からほどなく、顧問と部長の田中や吉川、各パートリーダーやコンサートマスターなど幹部で決定した演目はこうである。
 序曲としてブラームス『大学祝典序曲』を、のちにビゼー『カルメン組曲』より華やかな、もしくは抒情的な曲を抜粋し、次いでベルリオーズの交響詩『フィンランディア』で短い前半の部を締めくくる。
 後半の部はベートーヴェン交響曲第三番『英雄』とした。この交響曲は演奏時間にして五〇分間を超える大曲なので、プログラムの前半の部は短くせざるを得なく、またアンコール曲も短いものを選ぶこととなった。
 アンコールについては一回目を弦楽器群のみで大バッハ『G線上のアリア』、二回目には管打楽器など全員が舞台に上がり、ドビュッシー編曲によるサティ『ジムノペディ』第一番と第三番とした。
 ハープなどの特殊楽器、および編成上どうしても人数が揃わないパートについては、学内の吹奏楽部、他大学からの応援を受け、指揮者も客員指揮者として外部から迎えた。
 時代ごとの人気曲を採り、一見して癖もなく凡庸なプログラムではあるが、この大学のオーケストラの編成、レベル、そして予算に鑑み、十分な挑戦であった。もともとこのオーケストラでは正規の団員で賄いきれない人員、楽器はほぼ日常的に外部から借りるのだが、むろんただ働きではない。さらに、どの団体でも十二月は演奏会シーズンである。借りてきた奏者も、それぞれの所属する団体での補欠奏者が回されてくる。それでもオーケストラとしては演奏したい演目というのもあるし、多少の出費を見込まなくては、そもそもの集客の時点で競争に負けてしまう。

 わたしはファーストオーボエの書き込みだらけの譜面を目で追う。高志ほどの悪筆ではない。だから、もし今わたしが死のうともこの楽譜は次のファーストオーボエの役に立てるだろう。そんなことも考えながらわたしはソロ部分に磨きをかける。実際にいま本当に死んだら、オーケストラは困るだろう、そんな予測を立てる。冬季定期演奏会。わたしの欠員募集、謝礼はいくらになるんだろう。
 でもね、わたしの生死はわたし自身には決めようがないんだ。たぶん。
 将来とか、来年とか、明日とか、あまねく未来は人間には体験しえない。明日どうなるかだなんて、神の領域なのだ「明日のわたし」になりたくても「今日のわたし」はどう転んでもなりえない。すべて未来は、神にしか分からないのだ。神は被造物の誕生から朽ちてゆくところまで、すべて計画しているという。すべて望ましく始まり、望ましく終えるように。
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