第90話 鬱転

文字数 1,535文字

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 理化学実験棟の高橋ゼミ準備室で朝食を摂るということも、十二月も半ばとなると難しくなっていた。ただ単にアパートでの起床時間の遅さからできなくなったのだ。もちろん寝坊などではなく、起き上がれないのだ。

 自分でも認めたくなかった。
 何度も何度も否定しても、否定するたびに母の面影が浮かんでいた。父が泥酔状態で乗った列車内で亡くなってから数か月の期間、母は生きることにまつわるすべてを休んだ。葬儀法要も済ませ、昼夜分かたずカーテンの引かれた暗い家のなかを母は歩いた。歩いては、自分がいま何を考えていたのかも思い出せなくなって立ちつくした。昼夜逆転の生活になったのは序の口で、食事もその後片付けもわたしがして、洗濯や掃除、つまりすべての家事をわたしが引き受けることとなった。家事だけでない。生活が全般的に阻害された。母は周りの状況と無関係に泣いたり笑ったりし、墓参りに行って来るといっては、夕方に迎えに行くまでただ墓石に語り掛けていた。顔も洗わず、風呂にも入らず、歯みがきも、心療内科で出された薬の服薬も満足にできなくなった。
 それが――うつが、わたしの身にも起きつつあるのかと考えると恐怖でしかなかった。
 当時の母と違うのは、わたしには死別などの大きなストレスイベントがないことだった。ただの低気圧、ただの体調不良、そう自分にいい聞かせているうちに、あの時父の死に直面した母のような症状があらわれてきた。
「くそ」
 完璧無比な結論を導き、昼休憩の理化学実験棟の準備室を開ける。

 講義の合間を縫ってサンドイッチを食べる程度なら出来たのかもしれない。でも、パンの購買は昼休憩にしか来ないし、大体、朝のうちにコンビニで昼食を買っておけるほど元気なら、何かしら朝食も用意できたことだろう。
 昼に学生食堂まで行くのも面倒だった。
 わたしは理化学実験棟の準備室で『昼組』として昼食を摂ることとなった。いや、そもそも朝組だの昼組というのは文系キャンパスの学生食堂にゆくのが面倒で、理化学実験棟で食事を簡単に済ませたいという者の集まりだ(もちろんかれら集団に帰属意識があるのかは疑問だが)。

「あ、ショウちゃん。おひさー」
「ああ、里美さん」ドアを開けると横山の明るい声がする。かの女の隣に座り、購買で買ったミックスサンドとブラックの缶コーヒーをテーブルに置く。「久しぶり、なのかな」
「だよだよ。きのう練習で会ったぶりだよ」
 考えるのを放棄したわたしは「ああ――」と不明瞭にうなずき、形ばかりに祈りを捧げ、サンドイッチの包装を解く。
「その――その照り焼きサンド、たまらなくおいしそうだよね、うん。照り焼きサンドって神様に愛されてるよね。そうだ、うちの玉子焼きと交換しない?」
「え? あ、いいよ」とわたしはサンドイッチを横山の方へ滑らせる。横山の表情が少しのあいだ止まる。そののちかの女は笑いながら肩をはたいてきた。
「ちょっ、じょ、冗談、冗談だよ、ショウちゃん。そりゃあんまりに分が悪いよ。照り焼きサンドに玉子焼きは、ないってば」
 といい、横山は笑いながら玉子焼きを食べる。「ま、うちの作った玉子焼きの価値を認めてくれたのは嬉しいけどね」
「え? ああ、うん。そうだね」
 生返事をし、ぼんやりとサンドイッチを食べる。横山は怪訝そうな顔でこちらと見ていた。
 わたしには、もうどうでもいいんだけどね、セシリア・横山里美姉妹。もしくは焼き鳥シスターズ、かな。
 もうどうでもいい、というか、なにかを好んだり、嫌ったり、考えたり感じたりするのが極度に体力を消耗することに気づいただけなのだ。仙人か、もしくは植物にでもなった気分だ――植物になった自分に、感情や気分といった複雑な機能が残存していれば、の話だが。
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