第57話 低迷

文字数 5,762文字

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 五線譜をよどみなく踊る連符のように日々はすぎた。そのどれもが今でもたびたび回想する、わたしの記憶に深く刻まれた毎日だった。

 オーケストラは、顧問やコンサートマスター、各パートリーダー、シングル・ダブルリードのパートリーダーの吉川らの判断で、瀬戸をオーボエへ転向させることを正式に決定した。同時にわたしは瀬戸のオーボエを冬の定期演奏会までに仕上げさせる責を負った。
 予想外にも瀬戸へのオーボエのレッスンは十月中に終わった。とはいえ、とても難しいものではあった。というに、かの女のレベルが思いのほか高かったのだ。かつて持ち替えなどでバスーンのみならずオーボエやフルート、クラリネットなど主要な木管楽器を経験しただけあって、素地もよく、また飲み込みもとても早かった。単にオーボエを吹くという技術はいわずもがな、そのさらに上の表現力や、微妙なニュアンス、オーケストレーションされたスコアにおける音楽性の追求までもがレッスンの場に求められた。わたしは教えられるすべてを教え、そのすべてを瀬戸は迅速に吸収した。ふたりで二本のオーボエからなる基礎合奏も早々と実現した。その後シングル・ダブルリードのパート練習にバスーンとしてではなく、セカンドオーボエとして加わるのも、これも九月には始まった。
 正規のバスーン奏者は、確かにファーストの吉川だけとなる。しかしそれは学内のブラスバンドなり、他大学や市民オーケストラなどから借用すれば(頭数の問題に限っては)済む話でもあった。いずれにせよ、オーボエかバスーン、どちらかには欠員が生じる。しかし幹部も吉川も、瀬戸をセカンドオーボエとしてステージに上げることを優先した。
 パート練習においても吉川は厳しかった。初心者相手ではなく、瀬戸が最初からセカンドオーボエであったかのような指示も出した。が、そのどれにも瀬戸は応答した。ロングトーンの均一性、音程の正確さ、運指の早さ、曲にニュアンスやフレーズ感をつけるアーティキュレーション、どれをとっても初心者ではなかった。もっと早く転向希望を出したらよかったのに、と後になって吉川も笑って話すほどであった。
「でも、その、怖かったですし」と瀬戸がはにかむ。「あ、いえ、吉川先輩が怖かったとかじゃなくて、自分が本当にこのオケで通用するかどうか、っていうのが不安で」
「もう、いわなきゃ気づかなかったのに。まあ、あたしも慎重すぎたんだ。聖子も瀬戸ちゃんのレッスン、ありがとう。しかし瀬戸ちゃんがあともう二、三人欲しいところだね」と吉川も冗談を飛ばした。

 蝉時雨はやみ、夜は秋の虫が鳴きだし、夏は去った。キャンパスは秋へと色づき、大講堂のエアコンも風を送るのをやめた。
 すべてがあるべきところへあった。どの事がらも、その事がらが率先して定位置に収まるように動いているように感じられた。パズルのピースはぴたりとはまった。順風満帆、ひとことでいえばそうなる。
 それも秋がピークであった。

 普段通りの講義と練習、高志との生活は、いずれも夏から秋へと、円満かつ順調に進んでいた。
 秋の終わりごろだった。最終時限ののち、専攻別のホームルームでゼミの説明があった。ゼミ選びで自分の行く末――というと大げさだろうか、ともあれ持てる力をどの領域へ傾注していくかを、じっくり悩む子もあれば早々と決める子もあった。わたしはホームルームに使われた講義室から出、ひと気もまばらな廊下で立ち止まる。そこにある新聞ラックには地方紙から全国紙があった。また、となりのマガジンラックには一般向けから専門色の強いものまで、ひと通りの科学雑誌が持出禁止のシールが貼られ、並べられてあった。『ニュートン』、『サイエンス』、『ナショナル・ジオグラフィック』、岩波書店の『科学』、『ジャーナル・オブ・バイオロジカル・ケミストリー』。その他さまざまであった(ごく一部を除き日本語版であった)。これらの雑誌に自分の名前が載ることはあるのだろうか。載せたいという欲があるのだろうか。しかし、と振り返る。
 自分は、自身の死をもって研究を完成させるつもりだったはずだ。

 その日はオーケストラの練習にも身が入らず、八時か八時半ごろ、パート練習もそこそこに早めに帰った。自宅のパソコンでぼんやりとiPS細胞やES細胞の研究に関するサイト――理化学研究所、他大学のラボ、製薬企業――を閲覧した(温めていた冷凍食品は電子レンジの庫内でふたたび冷めつつある)。その研究はどれも自分には無縁なように思えた。手が届かないのだ。
 この大学の敷地から、つまり学部生や院生、もしくはOB・OGから直木賞や紫綬褒章が出ることもあるかもしれない。だが、ノーベル賞は厳しいだろう。――ノーベル賞。人がヒトを造ったら、それは生理学や医学へ貢献する発見ではなく、ただの(それも重大な)倫理問題だ。自分が成そうとしていたことが、ふと馬鹿馬鹿しく思えた。これまでの熱がエネルギーすら保存されず、一気に冷めるのを感じた。我に返ったのだ。わたしは電子レンジの中の冷凍食品のことも忘れていた。
 今日の献立を考えよう。何かないだろうか。カップ麺ならあるかもしれない。カップ焼きそばを棚から出す。湯を注ぎ、湯を切り、それだけを食べて眠った。眠る前、久方ぶりに祈りをささげた。
 お願いします、生きてていいよと、だれか、だれかいって――。

 次の日も講義に集中できなかった。覚醒レベルを維持しようと目をぱちくりと見開いたりつむったりしてみた。指の関節や首を鳴らしてもみたが、なにひとつぱっとしない。種のない鉢植えに水を撒いて肥料を与えているようだった。
 なぜこの自分が生命工学を取り扱おうと思ったのかを省みた。父の死があった。だれにも、神にも顧みられなかった父の死が。それがスタートだったのだ。
 わたしは将来、人為的にヒトを造る。創造主の意義が無効だと証明するか、神の怒りを受けて死に、そこで神の存在を悟るかの二者択一だった。だが、とてもじゃないが今のわたしには可能性が薄すぎる。
 だめだ、今目の前にあることに集中しろ。頭を振って講義の内容をすべて拾おうと努める。入学試験での二次試験を思い出せ。ペーパーテストも口頭試問も、ほぼパーフェクトだったじゃないか。初年度から奨学生待遇とならなかったのが不思議なほどだ。自信を持て。やりたいことが分からなくなっても、なんだってできるのだから。
 スライド式の黒板上を何色ものチョークでの講師の走り書きの字が躍る。

「このように遺伝子の運び屋をベクターといい、主にプラスミドの得意分野ですね。プラスミドは予習してきてると思うので、それを想定して進めます。シラバスを読んでわかる通り、このコマではかなり詰め込みます。みなさんのそのテキスト、やたら分厚くて重いですよね。ええ、網羅性も広いんですが、このテキスト、後期だけでさよならします。よって予習復習は大前提、絶対条件になります。
 さて、このプラスミドは細胞の染色体とは別に細胞質内にある、自律した遺伝子のこと、というのも完璧に予習済みですよね? これには先ほどいった大腸菌とか、そのようなものを使いますが、これをどのようにしてほかの、ここではヒトのなかへ送るかといいますと、テキスト一〇一ページの――」
 わたしはすべて予習(そして復習も)していたし、この講師の一言一句聞き漏らしもない。大丈夫、わたしはトップである。
「そうしたベクターが一躍、脚光を浴びたのがiPS細胞のニュースですね。逐次的にニュースにはならなくても、今この瞬間も研究は進んでますからね。ラボのサイト――国内でも構いません、チェックしてる人はいますか?(わたしとそのほか、二、三名が手を挙げる)ああ、そうね、そんなものよね。で、ヒト体細胞にいくつかの遺伝子をベクターで送り込むことで分化の万能性を実現したわけですね、それも倫理上の問題も軽く。既存のES細胞の技術は受精卵破壊ですからね、殺人に当たらないかと懸念があります。
 さて、そうしたわけで結論からいうと、クローン人間は作れます。技術的には、ね。あくまでも技術的には。それでは作りましょう。はい、できました。それで、人権はどうするんですか? 作ったとして、短いテロメアで生まれたクローンに平等はありますか? そもそもなぜ不利な生まれ方しかできないのに作るんですか? と、問題は山積みなんですが、その辺は生命倫理の先生に譲るとして――」

「――ということで今日はここまで。質問のある人は自分でしっかり調べたうえで速やかに研究室に来てください。ああ、それと、私のゼミに志望理由書を出してくれた学生は十八時、夕方六時に研究室に来るように。ではお疲れ様」
 わたしは腕時計を見、講師の知らせた終業の時刻が定刻より二分遅いことを知る。講義室の時計も二分遅れていたので仕方のないことだとも思う。
 外に出る。日差しは眠たげで、やや肌寒い風が黒の半袖Tシャツから出る二の腕をすっと撫ぜ、通り過ぎる。今日も気温は上がらない。やはりカーディガンを羽織っていた方が体のためだ。講義室で腰に巻いていたグレーのカーディガンをまとう。実験衣でもあればよいのだろうか。研究衣、診察衣など、着る者の肩書によって呼称は異なるが、ともかくあまり風を通さない白い実験衣は、この季節にはよいように思われた。それを着たまま外に出れば、衛生上の観点で白衣の意味がまるでないのだが、実際、理系キャンパスにそういった白衣姿は多く、単なるユニフォームとなっていることがうかがい知れる。それに第一、白衣の一着で清潔を保てるわけでもないのだ。
 カーディガンの前を留め、理系キャンパスから文系キャンパスまでの短い距離を急ぐ。学生食堂に入り、混雑のなか食べるだけ食べ、トレーを返そうとしたときに吉川の長い黒髪に気づく。
「ヨッシー」人ごみの中、スマホを操作しながらカレーライスを食べていた吉川は顔を上げ、すぐにわたしを見つける。「ショウちゃん(口いっぱいに頬張りながら答える)」
 かの女の隣が空いていたため、わたしはすぐに掛ける。長い黒髪や、華奢な鎖骨のくぼみから耳の下まで伸びる胸鎖乳突筋の繊細な表情、咀嚼のたびに上下する下顎骨の細さにやや目を奪われる。ふといい匂いがした。女の匂いだ。
「違ってたらごめん、ショウちゃん、いまセクハラ親父みたいな顔してるよ」
「うん、いいと思う」
「はあ。ショウちゃんって前はこんなやつじゃなかったのにな」カレーライスの最後のひと口を頬張りながら吉川はあきれて見せ、「で?」と整えられた細い眉を上げて訊く。「なんか困りごと? いまの季節なら恋かゼミかに決まってる」と続けた。我に返ったわたしはただちに会話の意欲をなくしたかのように吉川から視線を外す。床に落ちているだれかの(しかしだれのものでもない)ヘアピンをじっと見る。
「ははん、そうか。なるほど。高志が毎晩やりたくって仕方ないとかで困ってるんだろ」と吉川は水を飲み干し「ごちそうさま」と手を合わせる。「いまのはカレーに対してだからね」
「ヨッシー」
「うん?」
「いいゼミがないの。どのゼミも面白くなさそうに思えて、自分でもわかってるんだけど、調べても調べても、気持ちが動かないの」
 ちょっと待っててね、と吉川はトレーを返しに席を立つ。何番煎じの茶葉か分からないサーバーの薄いお茶を二杯持って戻ってくる。
「三限、講義?」わたしは首を振る。「そっか。でも、なんかやりたいことがあって工学部入ったんでしょ? でもまあ、しかしながら、勉学を深めるうちに見失った、と」
 周りの学生はほとんどが食事を終え、それぞれの講義棟へ急ぐか、食堂のすみでお茶を飲みながら自習をするなどしていた。吉川は簡単に化粧直しをしている(食堂での化粧は禁止されているのだが)。
「わたしがね、そもそも遺伝子工学やりたいって思った動機、話してないよね」
「あ? ああ、そういえば聞いてないな。説明に時間がかかるようなら練習のあと、うちにおいでよ。あたしも聖子と二人で飲みたいし」かの女の言葉を断る理由もさして見つからず、「うん、ヨッシーさえよければ」とうなずいた。
「オッケー。じゃあまた」そういって吉川は化粧ポーチにリップをしまい、機敏な動作で立ち上がり、外へ出て行った。急いでいたのだろう。そのなかで時間を割いてもらったのだ。
 わたし、邪魔、しちゃったかな。かの女の口紅のあとがついたお茶のカップを眺める。お茶が冷めてゆく。自分のお茶を飲み干し、器をふたつとも下げ、自分はなにがしたいのだろうかと自問する。なにがしたいのかではなく、どれならできるか、とノルマを消化する気持ちであったことに気づく。ノルマ。大学をノルマだと思うだなんて。

 集中に欠いた日だった。講義であってもオーケストラであっても、今ひとつ身が入らない。平たくいってつまらなかったのだ。舌打ちをする。なんだろう、この感覚は。季節性うつ病なのだろうかと疑いさえする。
「朝野先輩?」
 我に返る。
「どうしたの?」なんでもないような顔で瀬戸へ訊き返す。「あの、リード、ふやけません?」
 机の上に置いた腕時計を見ると七分以上、リードを水に浸漬していた。「ああ、これは」といいかけ、しかしうまい言い訳を考えることもできず、口をだらしなく開いたままうつむく。瀬戸は怪訝そうな顔で見ていたが、やがて自分の楽器にストラップを通し、構えた。「先輩、もう『英雄』は大丈夫です。セカンドもファーストもぜんぶ暗譜できました」いった直後に横目でわたしを見、ばつの悪い表情をし、「あ――その、セカンドの練習が第一ですよね」と謝り、「練習、してきますね」と離れていった。
 なにをやっているのだ。机に置いたノートをねめつける。遺伝子工学のゼミを調べ、それぞれに審査項目を設け評定し、さらに総合的な判断――下はCから上はAまで――で評価したものだ。Aに該当するゼミはない。つまりどのゼミもB以下だった。早くなんとかしないといけない。早くゼミを決めないと。机の腕時計はリードを浸漬してから一〇分以上経過していることを知らせている。わたしはうなだれる。
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