第11話 正負

文字数 3,777文字

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 子ども時代からのならいで、夏休みは涼しい学校の図書館へ通っていた。
 高校一年生の時、受洗してすぐの夏にはリチャード・ドーキンスの著した「利己的な遺伝子」を読み、ただちに神のほかこの業は行えない、なんと偉大なのだと感銘を受ける。
 神は創造の第一の日「光あれ」と、言で世界を造った。どんなプログラム言語より美しい言で行われたことを確信した。恣意的な読み込み方だったが、多感な女子高校生にはロマンの香りがしたのだろう。その後も読むペースを上げてダーウィンの「進化論」、それと同時に、礼拝に使っていた聖書も一通り読んだ。結論として、聖書の内容が依拠する、聖書より前の時代の文献はなかった。しかし、と考える。聖書の共同執筆者は四〇名、それも別々の場所、時代(実際、執筆期間は一六〇〇年の長期にわたる)に、互いに相談も協同することもなく、ひとりの神だけを書いたのだ。六十六編におよぶ書簡を集めた聖書だが、奇跡も真実もなにもなくして、不整合なく、それぞれの事象をまとめえるであろうか。
 もちろん生物学や遺伝学の文献も(年代により多少の相違はあったが)相互に論説を補強していることは当然にあった。それは聖書と同じだが、聖書については、あまりにも執筆期間が長く、またつじつまも合うのだ。このことにわたしはめまいのような感覚に見舞われた。
 しかし科学の発展とともに恐竜が存在したと見なされ、自然発生説も否定され、遺伝子のメカニズムも解き明かされつつある。聖書の反証はあるのだろうか。知的好奇心の赴くまま、わたしは高校一年の夏休みじゅうかけて学校の図書館、市立図書館、バスを乗り継いだ県立図書館で探した。聖書を決定的に退ける書物のたぐいは見当たらないまま新学期を迎え、その後の座右の書として聖書を据えることを選んだ。

 遺伝子、また進化といった分野は聖書に反したもので、当時のわたしには進路を決めるうえでも、信仰のうえでもあまり興味もなければ関係もない分野であった。
 だが、のちにわたしは工学部へと進み、遺伝子工学を志すことになる。
 生命の起源は聖書通りではない。我が国の世間一般が支持している進化論に立地すれば、そうなる。しかし聖書は進化論を否定し、恐竜を否定し、ネアンデルタール人を否定する。

 洗礼を受けることを決めた高校一年生当時、聖書の書かれていることをほぼすべて肯定的にとらえ、自然発生説は否定せざるを得なかったものの、進化論もビッグバン説も疑わしく思えたものだ。奇跡は神かキリストか、使徒でもなければ為しえない。よってわたしたち一般人が「奇跡など存在しない」と断ずるのは「見たことがないから恐竜はいない」と同レベルの論であり、いずれも裏付けのない詭弁だった。

 ところで一般的にはフィクションと思われる精神分析学という学問では、一番の先駆者であったフロイトを信奉するか、反対にフロイトを批判するかの、いずれかから始まるという。高校一年生のわたしにとって、聖書はフィクションではなく、すべて整然と列挙された事実であった。いや、そうであってほしいと願っていたのかもしれない。いずれにせよ、確証も反証もないのだ。だから、奇跡などが「ある」と信じる意見を退けるだけの力は、今の世においては存在しない(天国へ行って、また帰ってくれば話は別だが)。わたしは、期待を込めて信じる方を選んだ。牽強付会なく、確信に満ちた信仰を得るため、また洗礼にしても、聖書の内容を裏付けるために受けたのかもしれない。

 だが、わたしの信仰は急激に弱化する。
 父の死だ。
 法学部へ進み、法を武器に身を立てるため文系特進コースでわたしは日夜闘っていた。が、その道もすっぱりと諦めたのだ(正確にいうなら嫌気が差した、となる)。父は、父の死は思い出すだに哀れな死だった。あのとき亡くなりさえしなかったら、とだれもが悔やんだことであろう。大手不動産の営業マンだった父は接待の宴席の帰りがてら、仲間内で無茶飲みをしたらしい。挙句、帰りの私鉄の中であらゆる老廃物をまき散らしながら死んだ。
 そこで民事訴訟があった。
 ダイヤを乱し、客席を汚損したとして鉄道会社が遺族である母を訴え出て、裁判所は父の生命保険金をたやすく吹き飛ばせるような額の損害賠償金を支払わせた。

 わたしには世の中のだれをも信じるに値しない、と判断するに十二分な仕打ちに見えた。人間である以上、罪も欲望もごまんとある中、せいぜい神様を信じるくらいしかないこの世で、その神は父と母とを庇わなかった。父は、その死によって責め立てられた。だれからも介抱されずに死ぬに任せられた父を、わたしが夢に描いていた法曹はだれひとり救わなかった。裁判官は乗客がスマホで撮影した父の死にゆく動画をなによりも重んじた。

 法学部、しかも国立で。目指し国語、英語、数学、理科、社会と、五教科七科目をみっちり詰め込むなか、唯一の息抜きが法学――六法の勉強だった。高校二年生に上がりたての頃、日本国憲法前文をそらんじられただけで法律に強くなれた気がした。将来が明るく感じられたのだ。

 わたしが憧れていたのは国選弁護人だった。経済的弱者を救い、真実を求める。それは「人を裁いてはならない」とした聖書と法治国家との妥協点に思えた。この国に生きる以上、聖書で禁じられているから、などという理由で裁判や紛争は避けることはできない。だからこそ、だ。何人たりとて不当な扱いを受けてはならない。

 新約聖書に、姦通の罪を負った女に投石していたユダヤ教のグループに対し、イエスが「あなたがたのなかで罪を犯したことのない者が石を投げよ」といった旨を話したという記述がある。我が国の裁判は、罪を憎んで人を憎まずとの言葉どおり、罪状が人間性そのものにまで波及しない。また同時に、人間性が優れていても罪状を清算することもできない。よって聖書のこのくだりは現在の我が国ではむろん、通用しない。それならばなおのこと、罪は罪として正確無比に裁かなければならない。つまり、要約すれば刑事裁判の争いで、確実に正しい結論を、弁護士費用の多寡に左右されずに導くべきなのだ。これは聖書にもとらない我が国の正義として、わたしには極めて妥当と思われた。
 現状、刑事弁護の場で、被告人と原告の貧富の差が正義を左右している。立法の時点でも完璧は存在しない。したがって、個々の法曹の力量が正義をなすのだ。正義は裁判の勝ち負けではない。正しく、事実に即し、不公平なく終わった裁判から生じる結末をいう。訴状、罪状の適切さ、それらを法と照らし合わせて限りなく妥当であること。
 それこそがすべての裁判、その罪状において国内で等しく、普遍的に下されるべき決着だと、わたしはそう信じていた。

 父の死に際し、民事裁判の法廷で死そのものを咎められ、罰金のように賠償金を請求された。
 悪法も法という法諺がある。だが、正義を法廷上で現すのは悪法でも金科玉条でもなく、それらを使う法曹の力と力の争いだ。みな勝ちたい。だれも正義に基づいて身を引くことなどしない。口のない、死人から勝利をもぎ取らなければおさまりがつかない。

 わたしはなにを目指していたのだ。
 わたしは正義を守ろうとした。しかし、なんのために、正義という実体のないものを追究していたのか。これは怒りだった。お金をせびった鉄道会社に腹が立った。毎日のように泣く母をみて、父へも怒りがわいた。正義なんて、神でもないなんでもない人間の用いる道具にはならない。やはり、だれも正しく裁けやしないのだ。

 特進コースの文系から、(わたしには)簡単な試験で同じ特進コースの理系に転向し、わたしは静かにたぎる怒りとともに勉強を進めた。みなが心配し、みなが怪訝そうな顔をした。志望動機書や二次試験の面接対策をどのように指導するのかなど、学校教務にも動揺が生じていた。あの子はおかしくなったのか、と。

 人が人を裁けないのなら、人を造った神を裁くしかない。
 わたしの成績は理転しても下がらなかった。むしろ理系科目においても学内トップクラスだった。みんな――

 ――みんな馬鹿で助かるよ。あんたらのおかげでわたしの校内成績はもうすぐトップだ。

「朝野さん、この間の模試、すごいね。B判すらないし。これ、公立の医学部もじゅうぶん圏内じゃない? せっかくなら工学部よりそっちにした方がいいと思うんだけどなあ」二年生の終わりごろ、進路指導の面談中に担当教員がいった。
「その必要はありません。というより不都合です。わたし、理研に入るので」そういうと目を丸くし、「理研? 理研って、理化学研究所? いや、そもそも、ついこのあいだまで弁護士目指してたのに、なんで」と驚いてみせた(やや不機嫌そうにも見える)。
 一介の教員にいちいち教えなくては将来のあるべき自分の姿も選べないのか。そんな事実にいささか辟易する。日本国憲法二十二の一、職業選択の自由。
 わたしは教室の窓を見るともなしに見てから「二次試験対策はもうできています。あとは内申点の問題です。この高校から医師や弁護士を出すにしても、理研を出すにしても」と面倒くさそうに答える。いいのだ、わたしは学年首位で、すこし性格が悪いだけなのだ。
 進路指導の教員は黙って腕組みをした。
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