第21話 荷物

文字数 2,654文字

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 夏休みも明け、一年次後期になっても選択必修科目には、悲しいことに勉強に関係のない体育もあった。
 わたしはまず球技や格闘技を選択肢から除外した(突き指でもしたら勉強に支障が出るからだ)。自動的に、ストレッチをして、ただただ走り、またストレッチをするという、あえて大学構内で行う理由の見つからないコマを取ることとなった。不幸中の幸いか、ランニングには慣れていた。中学高校の吹奏楽部時代、練習が始まる前には全員必ず走っていたからだ。九〇分いっぱい、存分に汗を流し、一人だけの更衣室で着替えをしているとほかの女子学生たちが入ってきた。それまで楽しげにおしゃべりをしていたかの女らはわたしを見るや急に黙り、伏せた目でかの女ら同士の合図を送りあっている。わたしはかの女らを見ながら舌打ちをし、荒いため息とともに更衣室のドアを閉める。これでわたしと会話する人間――つまり、その会話で消費されるエネルギーが幾人分か減ったことになる。夏の空は広く、その清々しさを思わず神に感謝しそうになり、ただちにやめた。舌打ちをしてキャンパスを早歩きする。

 午前の講義がすべて終わり、芋を洗うような混雑の学生食堂へ向かう(ほかにもまあまあおいしい軽食を出す喫茶もあったが、ボリュームと価格設定の点で劣っていた)。来るのが遅かったと少し悔やむ。幾人もがすでに券売機には並んでおり、その列の後ろにつく。順番が回り、肉と魚とが選べる日替わり定食のうち、魚の方を発券する。定食用のカウンターへ持っていき、日替わり魚、と声をかける。「はーい、立てといて」といわれ、カウンターに置かれた三〇センチ四方ほどの人工芝の前へ行く。プラスチックの毛足を仕切りとして使い、番号の書かれた小さなプラスチックの板が等間隔に何枚も立たせてある。何枚もの食券の、一番右手前の三十二と書かれたところへ自分の食券を立て、プラスチックの番号札を取る。
 ほどなく「三十二番の日替わり魚、だれ? いないんならおばちゃん食べちゃうよ」と大声で呼ばれる。礼をいって番号札を渡し、定食のトレーを受け取り、席へと運ぶ。おいしそうな鯖の煮つけのために祈り、ゆっくり噛んで食べる。

 午後の講義が終わった。
 図書館での自習がひと区切りつき、自宅に帰ると九時を回っていた。
 キャンパスまで徒歩圏内という好立地にあるアパートの界隈はしかし、住宅街になり損ねたざわめきがある。学生街という趣はまるでなく、水商売の人間と出稼ぎの外国人が多く居住し、窓を開ける季節には、日本語、中国語、その他よく聞き取れないが諸外国語での騒ぎ声や痴話喧嘩がやかましい。治安はもとより、ごみや吐瀉物のにおい、あるいは夜の街に職を得た者の生活音など、公示地価で分類された住宅地という言葉のイメージからはかけ離れた様相だった。
 そんな有象無象の暮らすアパートの一階、集合ポストの前に立つ。周囲のひと気をよく確認する。ダイヤル錠を開け、ポストの中に入っていた投げ込みチラシを脇に置かれた古紙回収ボックスに捨てる(傍らで死にかかっている大きな蛾に嫌悪感を覚える)。切れかかった照明のちらつきが目に悪いなと思いつつ、四階にある自分の部屋まで階段を上る。新聞受けに挟まっている黄色い紙片に気づいた。宅配物の不在連絡票だろうか。手に取ってみると、発送元には郷里の母の名前がある。後ろと階段の方を振り向いてから鍵を開け、連絡票を持って家に入る。
「お母さん、起きてる?」バックパックを下ろし、灯りを点け、カーテンを閉めながら電話をかける。
 ――なんだ、聖子か。悪いけどお母さん今ね、ドラマ見ててね。
「はいはい、わかったから。お母さん、荷物送ってくれてた? 不在票が入ってたんだけど」冷蔵庫からお茶のサーバーを出し、コップに注いで一気に呷る。
 ――ああ、それがね、お母さん、引っ越すことにしたんよ。市営住宅の抽選、当たってさ、狭くなるからあんたの持ち物とか、何回かに分けて送ろうと思って。
 二杯目はグラスに半分ほど注ぎ、ゆっくり飲む。「いらない」
 ――えっ? 
 やはり驚いたらしく、
 ――でもあんた、聖書とか楽器とか、あるじゃん。
 と、懐柔のような、抗議のようなことをいわれる。母の声を聞けて嬉しいはずなのに、わたしはなにも感じなかった。
 ――あの楽器なんて、お父さんに最後に買ってもらったんよね? 形見みたいなもんじゃない。
 と続ける。わたしは押し黙る。
 ――とりあえず、送った分は受け取ってよ。
 と電話はいい、しばらくの沈黙の末、切れた。
 聖書と楽器か。服も着替えず倒れこんだベッドから天井をにらみつける。
 中学、高校と続けた吹奏楽で、いい思い出は乏しかった。たしかにコンクールで勝つこともあった。しかし、嫌な思いや悔しい思いの方が印象強い。

 とはいえ、高校二年生の春に父に楽器を買ってもらったことはとても嬉しかった。
 新年度の最初のオーディションで、わたしがオーボエのファースト奏者に選出されたことを父はいたく喜んでくれたのだ。その記念にと、父からのごほうびだった。
 父から贈られた楽器は樹脂でなく、本物の木だった。グラナディラという木材を管体に採用していた。高校生が持つにはそれだけで充分である。キィメカニズム、つまり楽器のどこを押さえればどのように動くかの方式にはコンセルヴァトワール式を、現在主流のセミオートマティックによる楽器で、スチューデントモデルとしては最高峰か、いや、それ以上のものだった。
 それまで部の備品を使用していた当時から、消耗品などを求め学校帰りにたびたび寄る楽器店で、オーボエのカタログをもらっていた。欲しいモデルにしるしをつけ、寝る前にはスタンドの灯りの中、カタログを眺めては夢を描いていた。しるしをつけたその中でも、一番高価なものを父から贈られたとき、わたしは喜びより先に戸惑いを覚えた。自分には分不相応にも思えたからだ。しかし、備品でなく、自分専用の楽器を持てたことは吹奏楽部内ではステータスでもあり、その楽器の性格に合うよう、発音器のリードを削って作る時間も、とても楽しく心地よく思えたものだ。

「でも、いま送られてきても、吹く場所も時間も、理由もないからね」
 画面の消えたスマホに向かってつぶやく。父と母の顔が目に浮かび、やがて消えた。その日の夕飯はいつも通り冷蔵庫にある惣菜ですませ、シャワーを浴びて短い髪を乾かす。肌の保湿もなにもしないで(もとより、そんな作業に興味もない)倒れるように寝た。
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