第45話 利潤

文字数 2,796文字

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 スクーターが停車する。風が急にやむ。
「ごめんなさい」わたしが泣くのをこらえながら先に謝ると、吉川は煙草に火を点けながら「なんで? ていうか吸ってよかった?」と訊いた。
「わたし、歳もひとつしか離れてないのに、甘えてばっかりだったなって」わたしはそういいながらヘルメットをのろのろと外す。
「学年はそうだけど、歳は二歳ほど離れてるからねえ。もうおばさんよ」
「え?」
「ははっ、いってなかったっけ? でもあたし的にいわなかった方がよかった? あたしね、一浪してさ。私大に行く金はないし。でも医学部行けないなら生きてる意味ないからね。浪人して地方国公立狙ってたんだ。頭もそんなに良くなかったからさ」
 煙がしみたのか、吉川は目をしばたたきながら話した。
「うちの親父さ、あたしが高校の頃に死んだんだ。すぐに母さんとあたしふたりで新聞配達のバイト、始めたんだ。その流れで新聞社の奨学金で行こうって話になってね。生命保険や遺族年金だけじゃなんにもならないし。親父さ、医者だったんだよ。よくある話だけど、泊り続きで睡眠が不規則になるんだよね、どこの勤務医だってそう。で、当直室で睡眠薬代わりにプロポフォールっていうんだけど、麻酔薬を投与量間違えて自分に打って死んだ。麻酔深度も微妙でさ、警察も来たけど、労災もなにもかもうやむやのまんま自殺扱いになった。もう少しね、病院の人員配置がなんとかなってたらなって思う。今でも思う。ま、無理だけどね。医者が圧倒的に足りないもん。でも、もし助かってたらあたしの人生も変わってたよ。――ああ、ごめん。話重かった?」 
 わたしはもう泣きやめて吉川の話をずっと聞いていた。
「それより聖子にはここどこ、って話だよね。ここ、あたしのアパート。いちばん最初に乗せた時びっくりしたよ。あんたんちと徒歩圏内とはね。上がる? ビール飲む?」
 向こうのスーパーの看板はたしかにいつも通りがかる店舗のもので、見る角度が少し違うだけだ。
 バイクを降りて歩くと涼しかったはずの風は生ぬるく、二の腕を触るとじっとりと汗ばんでいた。シャワーも浴びたいが冷えたお酒も悪くないかと思えた。今のわたしの思考能力ではいずれにしてもよい判断はできない。わたしは正しいことをする努力を諦めた。吉川について階段で五階まで上り、ドアを開けてもらって部屋に入る。「おじゃまします」
「いいよ、座れるとこに座って。どうせ汚い部屋なんだから。遠慮しない方がお得だよ。エアコンつけるね」と、吉川は自分のフルフェイスヘルメットを置き、てきぱきと動いた。
 そうはいわれたものの、実際はきれいに片付けられた部屋だった。唯一の特異点が圧倒的な書籍の数だ。たった一学年の差がこうも開くものなのかと驚きさえした。基礎医学、臨床医学、解剖学、生理学、関係法規。そしておびただしい数の分厚いファイルにバインダー。背表紙だけではなんのテキストかすぐにはわからない原書もあった。
「煙くない」わたしが無思考で感想を述べると「室内禁煙だからね。ハウスクリーニングとか、ここを出るとき大変だから。ビールにする? 酎ハイもあるけど」と、吉川は冷蔵庫から出したビールのプルタブを空けながら訊いた。「ああ」と吉川は立ったまま飲む。「うめえ」それを見てわたしは急に喉の渇きを覚えた。「え、でも――じゃあ酎ハイを」というと吉川は冷蔵庫の天板に肘をついたまま庫内を即座に開け(下に腕を伸ばすときにかの女の長い髪がさらりと揺れ、それはとても美しものだった)、冷えた酎ハイを持って渡す。ベッドに背中をあずけ、ふたりでラグの上にあぐらをかいて飲む。
 わたしは多種多様な疲れをアルコールが手伝って、眠くなりながらくつくつと笑いだす。
「なに、あんた笑い上戸? 怖いわ、この手合いは怖いわ」と、上機嫌にビールをぐびぐびと飲む。「わかんない。人生二杯目だから」
「二杯目にしても百杯目にしても、あんたあれでしょ、成人して――るよね? ま、とりあえずそういうことにしといて」わたしは笑いをこらえながら努力してうなずく。吉川は「はは、まあ、いいか」とビールを流し込んだ。
 もはや今が何時なのか、それも分からないし興味を抱ける事柄でもなかった。「回った。煙草吸ってくる」と吉川がベランダへ行こうとした。
「あの」
「シャワーなら適当に使って。大丈夫、まだガスは止められてないから」そういって吉川はふらふらとベランダに消えた。
 防音性が高い物件なのだろう、ひとりだけ部屋にいると静かだ。隣人の音も聞こえない。
 バッグの中でマナーモードのスマホが振動音を発していることに気づく。スマホを手に取ると振動は止んだ。通知には平松から不在着信とLINEのメッセージがあり、内容は「ひとりで飲んでます」「さみしい」とかいったものだったので、無視した。いいのだ。平松のことだ、うまく察するだろう。それがどのような察し方であれ、もうわたしは生まれてから起算して二本目の酎ハイを空けようとしていたのだし、シャワーを借りようと服を脱ぎかけていたし、先ほどまでぐずぐずと泣いていたのだ。
 吉川がベランダから部屋に入るところで「おっ、いい体」とからかわれ、わたしはそのまま浴室へ入った。
 シャワーから上がり「ごめんなさい、バスタオル勝手に借りました」というわたしに「いいよ、好きに使いな」と吉川は答え、「ドライヤー出してるよ」とさらにいった。「なんで」
「あ?」
「なんでそんなに優しいんです? わたしにそんなことしても、なんのメリットも――」そういうわたしに吉川は立ち上がり、
「ばーか」と抱きしめた。

 飲みながらそのまま眠るかと思っていたが(いや、わたしは確実に眠りたかったのだ)、吉川に自分のアパートまで歩いて送ってもらった。時折泣きながら、そのたびに吉川になだめられながら、ほんの一キロメートル弱をよたよたと歩いた。わたしは自分のアパートに着いたらなにもせず眠ろうと決めた。
 おやすみ、とドアの前まで送った吉川はまた抱きしめてくれた。部屋の鍵を開けたときはよほど中に招こうとか思ったが、わたしは自らの甘えを抑えた。吉川は帰ってゆき、わたしは部屋でどうしようかと逡巡したのち、もうすでに日付の変わった時刻であることを知る。吉川はなぜあんなに優しくて、強くて、自らを顧みないのかをすこし考えた。
 結局、吉川のアパートでは酒をそれぞれ一本空けただけで(わたしは風呂も借りたが)、とくにこれといってなにかをしたというわけでもなかった。唯一いえるのは、去年の春に実家を出て初めて安心できた場所であったことだ。
 この時間なら寝ているはずだろう。ねえ母さん、ホームシックを癒してくれる先輩が見つかったよ、と電話するのもおかしいか。そんなことを考えているうちに着替えて寝たようだった(というのも朝には記憶が少々飛んでいたからだ)。
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