第34話 盛装

文字数 1,600文字

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 知らないうちに寝てしまっていて、開け放しのカーテンの外は真っ暗だ。寝相も悪かったのか、シャツはたくし上げられ、枕はベッドの下に落ちていた。体の上になにも掛けておらず、寒い。手探りでエアコンを消そうとしたが、それより先に毛布が見つかったので体に掛け、エアコンは諦める。時計表示のみになったパソコンの液晶では、夜の三時。スマホには吉川からのLINEで「おーい、聖子?」とだけ送られていた。気持ちが悪い。これが二日酔いというものなのか。昼、というか朝に飲んだ三五〇mlの酎ハイのアルコール度数が五%なら、無水エタノール換算で――約一七・五ml。多いのか少ないのかわからなかったが、吉川には「ごめんなさい」とだけ返し、なにについて謝っているのかもまた分からなかった。そのうちまた寝てしまう。
 
 五時。
 開け放したままのカーテンから明るい光が差し込んでいる。「朝?」
 猫のように跳ね起き、もう一度時計を見る。五時一分。夕方ではない。あれから二時間も寝たのか。エアコンのつけっぱなしで寒い。酒を飲んだ影響もあるだろう。アルコールは血圧と心拍数を上げる。血管を末梢に至るまで拡張させ、全身に熱を血流によって運び、また放熱を早めるのですぐに体が温まる。しかし、拡張した血管は外気の影響を強く受けるので、体表近くで熱を放つだけ放った動脈血は、すっかり冷めた静脈血として全身を冷やしにかかる。酔いがさめるにつれ、つまりアルコールが抜けるとともに寒く感じるようになるのはこのためだ(さらに汗が冷えたのも悪かった)。わたしは身震いをして起きあがる。

 服を脱ぎ捨て、風呂にたっぷりの湯をためながら鏡の前に立つ。化粧っ気はなく、一重まぶたが切れ長の目をより鋭く見せている。鼻はやや低いが、形はいい方だろうか。上唇は薄く下唇がやや厚い。唇をなめる癖があるので荒れてしまっている(唇が命の吹奏楽部でしばしば注意を受けた)。子どものころからのやせ体質で、顔も体も輪郭はシャープだ。胸は――シャープでもない、普通だろう。中学生の頃からずっとショートへアなのも相まって、ボーイッシュな印象か。平松――あの男が一目惚れをする対象たりえるのだろうか。
「だから、ええと、困るから」なにかを乞うようにいいながら頭を振り回し、下着を脱いでそのまま湯船に入る。湯が大きな音を立てて洗い場にあふれる。かまわず頭も湯につけ、全身を湯船にひたす。「ぱあっ」湯から頭を上げ、髪からしたたる水をぶんぶん回して振り払い、落ち着いて湯につかったところで「さて、困ったね」とつぶやく。
 湯から上がり、時間をかけて髪を梳かしながら乾かす(ブラシには埃がついていたので水ですすいでから梳かした)。外は明るいが、時刻はまだ六時も来ていない。世の女性がするように保湿クリームを顔、首、胸元に塗り潤いを与える。マーガリンだけのトースト、コーヒー、アロエヨーグルトというかんたんな食事を摂って、姿見を見るともなしに見る。
 文机の引き出しに眠っていた毛抜きで眉を整え、日焼け止め入りのBBクリームを塗りこみ、眉を描き、薄づきのリップを差す。メイクをするうちにわたしは胸が高鳴るような、母親の化粧道具で遊ぶ女児のような高揚感を抱いた。いま施したものよりも複雑だったり、高度なメイクはしたことがない。つまり、これが自分の最上級のおしゃれなのだ。脈絡とか理由や必要よりも、行為そのものにときめいていた。文机のスタンドミラーの中の人物が一気に女になった気がした。この過程の必要がどこにあるのかわからないが、確かに化粧をすれば自分の顔は「いい」方なのかもしれない。鏡の中の女が微笑んで見せる。「いいね」と返す。
 七時、スキニージーンズにTシャツを着る。講義の準備を整え、次年度も引き続き特別奨学生を確実なものとするよう、鏡に向かって「頑張れ」と念を押すようにいう。アパートを後にする。
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