第43話 楽団

文字数 1,813文字

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 きょうも練習に向かう。
 夕方になり、オーケストラの様々な楽器が様々な音を鳴らしている大講堂へ入る。うるさくない音は存在しないが、うるさい音もまた同時に存在してはならない。ひとえに練習の賜物である演奏では、すべてがあるべきところへ過不足なくおさまり、調和以外のなにものも許さない。が、そこへ至る練習自体は基本的にやかましいので、大講堂に一堂に会して練習するわけにもいかない。だから屋外へ出るなり分散して練習するなりしなければ、自分の音も聞き取りづらくなる。屋外で流した汗は、合奏で大講堂内へ入れば一気に冷め、体熱を奪いとる。しかし、屋内とはいえ合奏となると大汗をかく。体温も上がるし、エアコンの設定温度をためらいもなく下げねば団員は倒れてしまう。冷え性の多い女子団員には羽織ものの必須な室温だ。

 合奏の時間を吉川が告げ、団員がステージに並べられた椅子(大講堂内で練習していた弦楽器群の者があらかじめ用意してくれていたものだ)に掛け、それぞれペットボトルの水や麦茶を飲んでいた。
「あの、鈴谷先輩」と、話しかける(わたしから話しかけるのは初めてだった)。「ん、呼ばった? まあ俺のこと先輩とかいうてくれるんは、朝野しかおれへんけどな。せやろ、平松先生?」と、隣に座った高志の方を見る。「え、そうっすか? おれいつも鈴谷先生のこと保健体育の第一人者と思ってますよ」と高志が返す。「あのなあ平松。まあ、ええわ。で、どしたん?」とやれやれという風にかぶりをふった。
「ポカリ飲みながらだとリード、傷みません?」とわたしは合奏の時刻を少し気にしながら訊いた。
 一拍おいて、「せやな。たしかに指導者によっては塩分や糖分が楽器に悪いとはいうけどな、こうも暑いとリードの寿命より自分の寿命を優先するんよなあ。コンクール常連とか、強いとこではよくスパルタみたいな指導しとるけど、あれはかえって効率的やないと思うんよなあ」と、鈴谷は明快に答え、二リットルボトルのスポーツドリンクをぐいぐい飲む。
 コンクール常連で、スパルタ。そんな母校をどこかプライドにしていた面もある。あの吹奏楽部は、体質も、顧問も、とにかく県内では最も過酷であった。毎月のようにオーディションがあり、上級者も含めみな恐々としていた。自信を持ってはいけない、その自信はいつか君を裏切る――顧問の言葉だ。そんな陰湿な空気は、この団にはどこにも見当たらない。

 黒い管体にシルバー、もしくはゴールドのキィメカニズムのオーボエとクラリネットは吹奏楽部の花形だ。しかしそのいずれも、音量の点で総金属製(木製のものも少なからずあるが)のフルートに若干劣る。
 オーボエ、クラリネット、フルートといった木管楽器は十九世紀にベーム(ボエム)式システムが発明され、のちに小改良を施されながら現代の楽器として成った。フルートはきわめて複雑で華美なフレーズも演奏しやすく特殊奏法にも富み、オーボエ、クラリネットよりも秀でた面もある。反してオーボエ、クラリネット、バスーンといったシングル・ダブルリードは気おされがちではあるが、フルートより稠密で艶があり、とろみのある音色でもって主旋律を奏でる場面も多い。

 管弦楽を演奏するという意味でのオーケストラの編成は、ルネサンス期に興りバロック期から近代にかけて完成を見、以降も絶えず変化し続けた。古典派のモーツァルトからロマン派のベートーヴェン、そしてラヴェルが活躍した近代にかけて編成様式が確立したといえるが、配置は決まって各セクションが固まって演奏するように組まれる。呼吸の音すら聞こえそうな距離で、横目でお互いの動きを読んで演奏するのだ。おおむね、クラリネットの平松はオーボエであるわたしの右後方にある。だからか、お互いのくせなどもよく気が付くのだ。特にサマーコンサートが近づくと、練習時間もかさみよけいに目につくようになる。
 暑がりの平松はいつも汗をしたたらせ、休憩をはさんで練習が再開するときは煙くなる。クラリネットも上手い。この団の活動ではさしたる練習量も取れるとは思えないのだが、リードケースを見ると完璧といえる手入れの具合だった。上級者揃いのフルートのお嬢さま方(と、団員にささやかれているだけで、わたし自身はそもそも陰口を叩かない)、バスーンもセカンドに瀬戸という一年次ながらも名手がおり、木管セクションもかなり仕上がっていたといえるだろう。
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