第40話 試験

文字数 1,897文字

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 七月も終わりに差し掛かると、サマーコンサートに向けて練習も熱気を帯びる。さらに月末からは前期末試験が控え(もっとも、わたしの頭脳と講義レベルから鑑み、さして危ういものもないが)、やらなければならないことが卓上カレンダーの紙面にひしめき合う。吉川も長い黒髪を(男子学生にはわからない程度に)切り、わたしも顎まであった髪を頬のあたりで切った。前髪はたしかにうっとうしかったが、流すことにした。前線は蒸し暑さと多雨を呼び、なかなかすっきりしない空模様だった。かれもまたかなり短く切り、金髪を染め直していた。

 文系キャンパスで講義室から講義室への移動だけで、袖が腕に張り付くほどの汗をかいていた。太陽光線が視力に与える影響も危惧し、講義室前の唯一の日陰である灰皿付近に着く。平松がアンクルパンツにランニングシャツ、サンダル姿で団扇をぱたぱたとあおぎながら煙草を吸っていた。あと五分後には経済学の試験だ。典型的な休日のお父さんといった体なのでからかってやろうとも思ったが、わたしとて似たり寄ったりだったので我慢する(それよりも暑さでばてていたのだ)。わたしの外出着も今シーズンでくたびれたら、来年はパジャマになっているだろう。

 経済学は本来なら一年次に履修、というより消化すべき科目であるが、わたしもかれも、一年次に登録しそびれていた。それにはいくつかの理由があるが、いつでも取ろうと思えば取れる、平易なコマであることが第一に挙げられる。実際、講義内容、水準も高校の延長線上にあった。国税と地方税、円高と円安の違いからの手ほどきであったし、おおかたの学生は課題提出もコピー・アンド・ペーストで済ませているとうかがえた(それは単に時短のためで、実際にペンで書こうと思えばすらすら答えられるはずだ)。経済学は、講義を受ければ試験難度も予想もつくし、忙しい二年次で履修したのはさしたる失敗でもなかったはずだった。
 だが、実際の試験はやや傾向の異なった出題だった。
 北欧三国の租税制度、日米英の生活保護など、公的扶助にかかる資力調査、さらには五つある大問のうち最後の二問は記述問題であり、第五問目が「生活保護制度にかかる受給者はスマートフォンを所持できてもパソコンの所有は認められにくい。それはなぜか。また、生活保護制度にかかる受給者がパソコンを所有するためにはどのような要件が求められうるか」であるなど、時間配分も含め、なかなか骨の折れる問題構成であった。
 試験終了のアラームが鳴ると、講義室全体からため息が聞こえたような気がした。
 外に出ると、平松がぐったりとうなだれていた。
「ああ、平松」
「聖子お疲れ。おれもう帰って寝たいよ」
 煙草も吸わずコーラを飲んでばかりいたので話してみることにした。
「試験そんなに難しかった?」
「難しいなんてもんじゃねえよ、あんなの詐欺だよ」あたりで煙草を吸う学生にも、騒いだり笑い声をあげたりする者もいなかった。
「まあいい刺激になったんじゃない? いいじゃん、ひとつくらい落としても大丈夫だよ」
「よくねえよ。これでも奨学生狙ってるんだよ」
「狙ってる? 南極からホッキョクグマを? でも、どうして」講義室で涼んでいた体がまたじっとり汗ばんできた。
「ひでえな、常にひでえな。考えてもみろ、数学科だぞ? 就職難しいぞう。頭いいことアピールできたら少しでも就活で有利になるかなあ、って思ってるんだ。いくら数学で突出してても、アベレージでの頭いいやつを採るに決まってんじゃん。どうも数学が好きってだけじゃ食っていけないらしいんだよね。私立の教員か、どこかのラボで助手にでもなれっていうけどさ、世間は。そんな頭脳はないっていいたいね。それより一般企業の方がまだ見込みはあるし」と、間延びした声のわりにまともなことをいうので、
「へえ。わたし途中まで文系だったから、文系科目なら教えてあげられるよ」と進言した。
 平松は団扇をあおぐ手を止め、
「え、文系だったん? いや、家庭教師って、どこで? 聖子んち?」と目を輝かせるので、
「ばか、図書館よ。うち来るんなら光熱費出してよ」と心持ち冷ややかにいった。
「でもそれ、おれんちで家庭教師してくれるんならチャラよな?」と満面の笑顔を見せる。だめなんだろうな、この男にはなにをいっても。いい加減周りの煙のにおいが服に付きそうなので、
「もう、なんでもいいから少しは紳士的になってよ。こっちまで恥ずかしくなるじゃない」と失笑しながら逃げる。
「わかった、部屋掃除する、するから」と平松は後を追う。
「元気になったみたいでよかった」と、ふたりで歩きながら話した。
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