第23話 寄道

文字数 2,102文字

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 秋のキャンパスはカエデやイチョウなどの落葉樹で地面は黄や赤に染まり、学生の装いも深緑や臙脂、辛子色としている者が多かった。わたしは黒一色をまとい、だれとも馴れあうこともなく、コンバースを講義棟へ急がせる。すでに情報処理演習の講義にじゅうぶん間に合う時間であると、カシオの廉価な腕時計で確認する。歩調を緩め、呼吸も落とす。
 
 専門基礎科目の情報処理演習に間に合い、その次、簡単な一般常識を問うかのような――ありていにいってレベルの低い――社会学の講義まではなんの用意もせず、学内を歩いていた。歩くにつれだんだんと気が滅入った。だれもかれも、時には火の消えていない灰皿もが煙を吐き出し、周り中に放散している。ニコチン依存症の者が灰皿の周りにたむろしている光景は哀れとしかいいようがない。第一志望校の民度の低さに少なからず嫌気が差していたのは事実だ。だが、あれらもわたしには縁もゆかりもない人種だと断じ、諦める。サージカルマスクをかけて社会学の講義棟へ向かう。
 始業の七分前に講義室へ入り、教卓の出席票を取る。講義が始まるまでに学籍番号、氏名、講義名を記入する。社会学といっても、ロートル講師の語る昔の自慢話や思い出話の類を延々聴くだけの講義で、寝ていない学生は全体の半分ほどであった。ただしその分、わたしを含めほかの起きている学生たちは、思い思いに講義とは別な勉強をする、格好の自習時間ではあったが(もっとも、寝るか自習をするかのどちらかしか選択肢のない講義でもある)。
 講義を終え、後ろの席から順々に回されてくる出席票の束に自分の分を重ね、前の者へ送る。

 その日の講義をすべて終えた。図書館へは寄らず、バスで市街中心部へ向かう。時刻は十八時半すぎだ。その楽器店はこうこうとライトが点いており、店内には高校生らしい客の姿もあった。
 駅前の繁華街のなかでも特に栄えている区画だ。ビルの外からも見える吹き抜けのエスカレーターで二階に上る。二階に上った正面にその店はあった。入り口両脇にショウケースがあり、左手の方にはフルート、バイオリン、サクソフォンといった花形楽器が、流行りの電子管楽器などと一緒に並ぶ。右手には艶のあるブラックとホワイトのラッカー塗装が対照的な電子ピアノが二台、その横に最新号の音楽雑誌がマガジンラックにディスプレイしてあった。自動ドアに迎えられ、管楽器売り場へ向かう。初めて来る店だが既視感があった。店内商品の配置もおおむね把握でき、レッスン教室用のスペースは右手側、レジやスタッフブースは左手側とみえる。楽器屋はどこも変わらないのだな、と簡単に評した。
 高校生の男女がフルートを試奏しており、吹き口――リッププレートを拭かず、お互いの楽器を取り替えて吹いていた。やがてそのことに気づいたのか、男子高生の方が「お前、これってあれじゃない? やべえ」と(大いに照れながら)指摘し、「あ、ほんとだ。ねえ、やばいんだけど。なんで、ねえ?」と、女子はまんざらでもないような笑い声をあげる。
 いいのではないだろうか、唇が楽器越しに触れたかどうかで笑えるうちは。そのうちお互いがお互いを蹴落としたり、どうやって出し抜こうかと歯噛みしたりするかもしれないのだから、と冷ややかに見送る。

 わたしはクラリネットやオーボエ、バスーン(英語圏で「ファゴット」と称そうものなら殴られる)の並ぶシングル・ダブルリード属のコーナーへ行く。先ごろ実家より届いた楽器の後継機種があり、自分の持っている楽器の、当時のカタログ価格とほぼ変わらない値札がつけられていた。オーボエの完成リードはほかの楽器のリード類とまとめてひと区画をなしており、その中でサンプルの試奏、つまり実際に使ってから購入することが可能なリードを店員に尋ねる。許可が取れたすべてを水に漬ける。そのあいだに持参した楽器をバックパックから取り出し、組みつける。母から送られたリードはすでに水につけてあり、まずはそのリードで試奏する。これがベースの吹奏感で、店の商品を評価するための基準となる。
 最低音から最高音までを半音ずつ上下するクロマチックスケールを俊敏に行い、舌突き、すなわちタンギングの歯切れのよさ、また音の出だしに強弱をつけたアタックの表現性、ほかできるだけ弱く、それから強く吹いたりまた弱くしたりで応答性を試し、全体の官能性――簡単にいえば心地よさを、複数のリードごとに短時間で試す。いくつかの完成リードを購入した(それでも母のリードはかなりよい出来だということも分かった)。
 最新の音楽雑誌も二冊買い、レジで会計中に「お客さん、上手ですね。完成リードだけだけど、ご自分では作らないんです? 工具ならあちらにありますが、いかがです?」と訊かれ、時間がないので、と答える。「そうなんですね。今年、受験?」とさらに尋ねられ「わたし、妊娠したんで」と嘘をつく。店員は複雑そうな顔をし、黙った。家に帰り、昨日の餃子の続きを食べ、完璧に歯磨きをする。風呂でゆっくりと体を温もらせ、冷めないうちにベッドに入る。朝六時半のアラームまで一度も目覚めずに眠る。
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