第56話 抱擁

文字数 6,115文字

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 九時ごろ帰宅する。アパートに高志がいるかどうかが気がかりでコンビニへも寄る気分にもならず、かといって電話をかけるのはためらわれ、のろのろと四階までの階段を上った(外から見たところ、灯りはついていなかった)。早く事情を聞きたいが、それもなんだか怖い。できればなにも知りたくない。なにもなかったことにしたかった。平和的秩序への安寧――いつも通りの生活に戻りたい。
 だって、見るからにそうではないか。これは高志と吉川のふたりのあいだに起こった、きわめて個人的な問題なのだ。そうとしか取れない。不機嫌と不安、および苛立ち。デスクのビニールマットに爪を立てるようなもどかしさを感じていた。
 背後に注意しつつ部屋の鍵を開ける。暗闇のなか、靴脱ぎ場で高志のサンダルを踏んでしまう。玄関から居室へ続く三メートルの廊下を歩く。途中、左側にある調理場の照明をつけ、引き戸を開けて部屋へと入る。窓は開いているようだったが、分厚い遮光カーテンは重く、風を通すこともなく緩慢に揺れていた。わたしは照明の紐を引っ張る。
「ただいま」
 わたしは肩を落とす。バックパックをベッドに放り投げ、ああ、とか、はあ、とため息とうなり声の中間のようなものを発し、エアコンの電源を入れる。
「いないなら」わたしは窓を閉め、クレセント錠をかけ、そのロックをし、座卓の酒の空き缶を眺め、ため息をつく。
「窓くらい締めてってよ」

 かれは吉川と一緒なのだろう。それがこの場合大変なことなのか、ではどのように大変なのか、わたしには判断材料も能力も乏しい。事実として、ふたりは過去に付き合っていたこと、瀬戸のオーボエ転向希望でなにがしかの問題がかれらの内に生じたらしいということ、高志はアルコールを飲んでいること、それくらいしかない。だが、それだけあれば十分にひと悶着もふた悶着も引き起こせるようにも思える。
 急に強い疲労感を覚え、自分がエアコンの風の真下にいることに気づく。腰を上げて冷蔵庫の中身を見る。きょうの献立を自動的にリストする。座卓の酒の缶が邪魔になり、機械的に引き戸の向こうの調理場へ片づけにゆく。まだ中身が残っている缶があった。それも半分ほど残っている。
「ぬるいビール、ね」
 ビールは初めて飲む。とくに考えも持たず口をつけた。苦い。ビールというものはこんなに苦いものなのか。苦労して口の中の苦い液を飲み込み、残りを流しに空ける。飛沫とともに漂ってくる匂いに幻滅する。
 高志と吉川。この件で特段わたしが動くべきところはない、と自信をもって断言できるだけの根拠もまた、ない。ではどうすればいい。わたしは自問した。夜の九時はとうに過ぎているし、明日からはおそらく瀬戸へのレッスンも始まる見込みだし、なによりわたしは疲れているのだ。とりあえずは寝よう、ほかに健全で建設的な方策はないのだ、そう結論付ける。これ以上なにをどうするというのだ。これでいいじゃないか。
 大学を出てスマホを見ていないことを思い出す。舌打ちをしてバックパックのスマホを取りだし、画面を確認する。通知がゼロであることにかえって不安を覚えた。
 高志がわたしのために買っておいたのであろう、ピーチ味の軽い酎ハイを冷蔵庫から取り出す。くっ、と呷り、食道から胃までを冷たい液体が下ってゆくのを感じる。空腹であったのですぐに酔いが回る。座卓で湿気ていた塩分の高そうなスナック菓子をすこし食べる。もうひと口、もうふた口と酎ハイを飲む。「今日はさんざんね」と独りごち、「聖子、おつかれさま」とねぎらってみる。「乾杯」座卓のふちに缶を当てる。おそらく本当に疲れているのだろう。不機嫌も虚脱感も、疲労のせいだ。
 缶を置いてベッドに倒れこむ。ごろ寝したまま腕をうんと伸ばし、バックパックの中身を明日の講義のために入れ替えようと試みる。情報処理演習は出して、英語Ⅲを入れ(窓の外から中国語の痴話喧嘩が聴こえる)、関係法規をベッドに叩き付け、酵素工学を思い切り壁に投げつける(外から怒号と平手打ちの音が聞こえる)。
「ああ! もう、もう面倒なんだよ!」わたしは吠えた。「なんで高志とヨッシーが一緒にいなくなるんだ。一緒にかよ。どこへ行ったんだよ。知らないよ。わたしはなにも知らないんだよ!」
 座卓の酎ハイへ手を伸ばし、一気に飲む。途端に強い嘔気に見舞われるが、我慢する。代わりに低いげっぷを出し、スマホをつかむ。電話はすぐに出た。
「高志! どこに行ったんだよ。ヨッシーと一緒なの? わたし? 当ててごらん。この通りやけ酒飲んでますよ――え? ヨッシーが? そうなの――うん、うん。わかった。すぐに行く。家はわかる。うん、わかってる。わたしは大丈夫」
 胃の中が陰圧になるような錯覚を感じつつ支度を始める。

 ふたりとも吉川の家か。しかし先ほどの高志との電話で、それはさほど重要なことではなくなった。吉川の家にはあれから一度も行っていない(大学で毎日顔を合わせており、とくに出向く必要もなかったからだ)。近所であることだし、すぐに着いた。高志によると吉川はひどく、なんというか、自信を喪失し、また憔悴しており、差し迫ったリスクを感じさせているそうだ。高志の言を借りれば、つまりやばいということだった。
 吉川のアパートに着く。階段を五階まで上り、ドアチャイムに伸びかけた手を引っ込め、息を整えなが声をかける。「ヨッシー? 高志? いるの?」と声をかける(このくらいのドアなら声も中まで聞こえるだろう)。
 音もなくドアが開けられ(施錠はされていなかった)、かれが出てきた。声をかけようとしてやめた。居室の方から吉川の泣く声が聞こえる。
「どういう状況なの」わたしは極めて冷静に、押し殺した声で暗がりのなかでかれを質す。「いいから入って」とだけいわれ、手招きに応じて奥へ進む。
 わたしも酒の酔いも手伝って呼吸に乱れがみられる。口をすぼめて静かに深呼吸しながらコンバースを脱ぎ、裸足で廊下のフローリングをぺたぺたと進み、ラグの上でかれにすがるように泣いている吉川を見る。「ヨッシー」
「聖子?」洟をすすり上げ、「ごめん、合わせる顔がない、っていうか会いたくない」やれやれといった表情で、かれはわたしに詫びるような目をする。「だってさ」と吉川は座卓のティッシュで鼻を強くかむ。わたしはラグの上に正座する。「あたし、オケでも恋愛でも、新しく入ってきた子には負けるし、女子には局っていわれてるし、成績もいい方でもないし、なんか、この人生損だったな、って思って」
 ティッシュを取り、また鼻をかみ、「ショウちゃんはそんなことないよって慰めに来たの? こんなつまずいてばっかりの人生、どう肯定的にとらえるさ。父さんが死んで、苦労して入った医学部でも下から数えるような成績だし(洟をすすり上げる)、高志は取られるし、どこでも孤独、孤独、孤独で―――当の高志に義理で慰められてるんだよ。自分、こんなにみじめなやつだったかなって思った。でも思っても、思ったところでもうどうしようもないんだよ!(かの女は座卓を拳で叩く)おかしいね、あたし。おかしいよね(繰り返すうちに吉川の涙はどんどんあふれていった。泣きながら続ける)。ほんと、毎日泣いてるよ、練習のあと泣きながら勉強してるよ。報われないけどね」
 吉川はしゃくりあげて話し、高志は顔を上げる元気もないのか、床に視線を落としてかの女の背中をさすっていた。かれがわたしに視線を投げる。思うに高志ひとりでどうにもならなくなり、わたしを呼んだのだろう。顔を半分もたげた高志に目で訴えられる。
 座卓に突っ伏して泣くのをこらえている吉川に静かに近づく。かの女は素早く起き上がり、座卓の酒の缶に手を伸ばし、荒々しく呷る。中身はなく、雫を飲んだだけだった。(缶の口が歯に当たり、かちかちと硬質な音がする)。大きな音を立てて舌打ちをして、バッグから小さなプラスチックのケースを取りだし、中から錠剤を二錠、手に出す。口に含み、歯で噛み砕いて飲み下した。大きく息をつく。
「抗不安薬。好きで飲んでるわけじゃないよ。あたしが人並みに生きるにはドーピングが必要なんだ」
 かれは大講堂の様子から一転、やつれきってベッドにもたれている。瀬戸の、バスーンからオーボエへの転向の話の後、先に帰った吉川が心配でこの時間まで付き合っていたのだろう。わたしは座卓の上の空き缶を眺める。六本あった。
「ヨッシー」とわたしは小さくつぶやく。「なに――」
 吉川を押し倒しながら抱きしめる。かの女は細い体で抵抗したが、それ以上に強く抱きしめる。「ちょっと、なんのつもり」
「ぎゅう、ってする」より強くわたしは抱きしめる。
 吉川は嫌そうに「じゃまだってば」と押しのけて起き上がろうとすると「ヨッシー、こういうときはぎゅう、ってするって教えてくれた」わたしはそれを上回る力でなおも抱きしめる。動揺したのか、ややどもりながら「し、知らないわよ。それにあたし、あんたのことちょっと敵視してるんだよ。な、なのに、情けまでかけられちゃ(かの女は嫌がりながらも目に涙をたたえている)」
 少しの沈黙があった(高志はそばで呆けたように見ている)。
「――聖子?」
「ヨッシーだいすき、泣いていいって、初めて許してくれた。生まれて初めて許してくれた。だから、ヨッシー、だいすき」
 わたしは思い出す。はじめてかの女がわたしを抱きとめてくれた時のことだ。わたしのアパートにバイクを停めたとき、疲労(なのか感極まってなのか)で、泣きだすわたしを制止することもなくかの女は自分の胸で泣かせてくれた。その次はかの女のアパートだった。それでもわたしは「自分に優しくしてもメリットはない」と拒んだ。しかしかの女はその抱擁でもってすべての答えを出してくれた。
 わたしは吉川が呻吟した苦痛のほんの一部分しか知らないし、またわたしが自分自身で味わった苦しみも、吉川のそれと比べればごく軽いはずだ。
 労も知らずに生きている人はいないが、かの女はあまりにも多くのことを辛抱して生きている。だが、それを周囲が理解したところでかの女の荷は軽くならないのだ、絶対に。
「聖子、わかったから。重いってば」
 初めてだ。
 人が泣いていて悔しさを覚えた。いいようのない怒りがこみ上げた。吉川、わたしの大好きなかの女が苦しんでいることに腹が立ち、だれでもなく――あえていえば神を――恨んだ。高ぶる感情のまま、すべてを暴力的な抱擁の膂力に換え、泣きながら吉川を抱きしめ続ける。
「ヨッシーにも、ぎゅうってしてあげたい。あの時ね、わたしすごくうれしかった。ぼろぼろになって泣いた。だから、メリットとかそんなんじゃなく、ぎゅうってする。ヨッシーだいすき」
 強さや矜持を持つこと、抵抗すること、何もかも諦めてわたしの下で吉川は泣く。かの女はわたしの背中に手を回してくる。「聖子」
「だいすき。ヨッシー、だいすき。ぎゅうって、しよう?」思いを伝えるための言葉はそれだけだった。「ヨッシー、あいしてる」
「あたし――」言葉も継げず、吉川は嗚咽を上げる。両腕をわたしの背中に回してしがみつく。
「あたし、苦しかった。辛かった。一杯やらなきゃいけないことがあって、どれもろくにできないのに、もっとやれ、もっとやれ、って。失敗ばっかして、だれにも褒められないし、好かれないし、もう、嫌だった。大学も、オケも、ほんとはぜんぶ嫌だった」

 わたしたちのどちらが先に泣き止んだかは覚えていない。しかし、今でもこのときのことは折に触れ思い出す。医師となり多忙を極める吉川と会う機会(といっても年に数回あるかないかだが)があると、このことを(会話に出さないにせよ)を想起するのだ。

 ふたりとも泣き止んでしばらくは部屋が静かになった。高志が麦茶を注いだコップを二脚、座卓に置く音がやけに大きく聞こえた。わたしたちは離れ、寝転がったまま顔を見合わせ、ふふ、と笑った。
「暑い」吉川が座卓にぶつかりながら起き上がる。「あ、聖子、ごめん」吉川は起き上がってティッシュでわたしのTシャツを拭く。わたしが甲高い声を出したので「ちがうよ、なんかオーバーラップするけど、あんたの服に鼻水、ついちゃったから」と歯を見せて笑った。「鼻水っていうか、ごめん、マスカラもついた。クレンジングじゃないと落ちないわ、これ」わたしも吉川の服の肩のあたり、自分の鼻水のあとを見る。わたしたちは互いの服を拭き合いながらまた笑った。
「ああ、喉乾いた。お茶ありがとう」吉川は麦茶を飲み、「なんか、急に疲れたな。ごめんね、ショウちゃん。でもあたし、こんなに弱いはずじゃなかったんだけどね」とぼやき、空のグラスを座卓に静かに置く。
「感情を制御しようとなかったのは久しぶりだったな。いつも我慢してた。いつも」といい、どこか遠くを見ながらため息をつく。「物心ついてから初めてだ、この感じ。泣くのを許可された」
 わたしもグラスの麦茶を飲み干し、天井に向かって息をつく。ベッドに背をもたれかけさせ、なんでこんなことになっちゃったんだろう、と仰ぎ見る。こんなわたしでも、吉川のためになったのだろう。自分以外を利することと、自分を利すること、不整合なく両立できたのだ。この状況を簡便に形容する言葉はいくらでもあろう。ただわたしは、これは愛というべきだ、とおぼろげに考えた。キリストでも仏陀でも、なんでもいい。大事な人のために涙を流し、それを愛と呼ぶなら。父の葬式以来だ、はじめてだれかのために泣いたのは。
「わたし、好きなのかも」
 吉川の視線が本棚の上の置き時計の方へ向かう。「高志、帰れる?」
 かれも長時間、自失状態であったためか、ぼんやりと目の焦点を宙にさまよわせながら「ネカフェがあるよ」といった。
「今さら遠慮するなよ。聖子の家に行ったらいいじゃない」と吉川が煙草の包装をときながらいった。「そっちこそ気にするなよ」とかれは顔を両手でぺろりと撫ぜる。
「わたし」といいかけ、そのまま口を結ぶ。ん? と隣に座る吉川は顔を上げる。「今日はヨッシーと一緒がいい」と緩慢にいった。「聖子、優しいな。優しすぎるくらいだよ」と、伏し目がちに吉川はいう。
「ええと、なんというか、邪魔しちゃ悪そうだな」とかれはいい、「おれ、行くよ。また明日な」と立ち上がった。吉川とわたしはふたりともこれ以上、なにかを考えたり行動したりする余力もなく、フローリングをぺたぺた歩き、かれがローファーを履いてドアの向こうへ出る姿をぼんやりと目で追った。
「聖子、シャワーしたらいいよ。あたし、ちょっと煙草吸う」
 吉川がベランダに出るのをまどろみながら見て、その後の記憶は断片的になり(ベッドへ寝かされたり、テレビの音がするのを聞いたり)ながら朝を迎えた。

 この日だけ吉川は自分のために泣き、この日だけ吉川は人に縋った。
 次の日は朝早く吉川に起こされた。寝ぼけまなこにシャワーを浴び、バイクでアパートまで送ってもらい、バックパックを取り、またバイクで大学まで一緒に行った。
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