第１話 嘔吐
文字数 2,136文字
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「よし、団員は注目。もう帰るやつもいるけどな、残すのは後悔じゃなくって思い出だかんな。俺はずっと裏方やったけどな、いい四年間だった。感謝する――うう、立ってると吐きそうやわ。ほな、次の人いこう」
中締めを部長の田中が述べていたころ、かれはなにもいわずわたしの膝で眠っていたはずだった。
「おい平松、なんかいえよ」部長がいい、わたしが頭を叩いてかれ――平松――を起こそうと試みる。
まったく起きそうにない気配で、それを見た田中は「しゃあないなあ、使い勝手の悪い奴だ。じゃあ、ショウちゃん」と、わたしへ視線が向けられる。「じゃあ、ってなんですか、じゃあって。わたしだって立てません」
わたしはかれの寝顔を撫ぜる。幾分ひんやりとした肌。
「はあ、平松の介護はショウちゃん頼むからな」
ここで、いや、もっと早く気付くべきだったのだ。
唇が青い。頬に平手打ちしても起きない。隣で飲んでいる医学科の吉川が注視する。吉川はがん、と大きな音を立てジョッキを置く。
「ショウちゃん！ どけ！」
わたしは驚いて身を縮こませる。吉川は寝ているかれの襟を掴み、右拳で思い切り強く胸を叩打した（かれの吐瀉物があたりにまき散らされる）。吉川はそのままかれの体を寝かせ、顔を右に向けさせる（かれの口からさらに吐瀉物がぼたぼたとこぼれ落ちる）。
「お、おい、ヨッシー？」「やめろよ、店の中だぞ」と制止する者もいたが、吉川は大声で「黙れ！」と一喝する。
一瞬だけ静まる居酒屋の店内で吉川の舌打ちが聞こえた。
ややあって騒ぎだす団員がいたが、まだ笑っている団員もいた。それらを尻目にかの女はかれ――平松の体も足も、真っすぐにさせるようほかの団員に指示した（吉川の叩打は休むことはなくかれの胸に浴びせられ、そのたびに吐瀉物があたりに飛散した。吉川はかれの顔だけねじって横向きにし（横を向かせただけで口に残る吐瀉物がぼたぼたと床にこぼれた）、座卓を乱暴に蹴って脇にやる。かの女はかれの胸に手を二、三秒当て「くそ」と毒づく。
「安東と木村、ＡＥＤ探してきて。赤いケース。除細動の。交差点の角のホテルにあると思う。三分経ったら見つからなくても戻るように。ショウちゃん、いい加減どいてね――早くどけっての、もう！」
わたしはより一層状況を把握しかねた。周りの団員の理解力にもばらつきがあった。
それとほぼ同時にそばにいた若い女の店員が店内のトランシーバーでどもりながら人を呼んだ。「あの――」とその店員はこちらに話しかけたが、吉川が大声で「男子はテーブルとか、いいから早く、全部どかして」とがなり、かき消した。吉川はかれに心臓マッサージ――胸骨圧迫を施しはじめる（団員も事の重大さにようやく気付く。大慌てで座卓を隅にやる。グラスが倒れ、座敷から床に落ちて割れる音が響く。団員は騒然とする）。
「鈴谷と横山、ああ、横山じゃなくて田中、一一九番通報して。救急です、っていって、できるだけゆっくり話したらいいよ。残りは全員、今すぐ座敷からどいて」と、指示を飛ばす。わたしはこの出来事がまだよく理解できない。
年かさの男の店員が階段を駆け上がってくる。泣き出した若い女の店員を脇にやる。「大丈夫ですか！ 急アル？ 一気したの？ 意識は？」と矢継ぎ早にわたしに訊く。フルートの女の子が泣き出す。「もう！ あたしだって泣きたいよ。ねえ、この状況わかる？ わかる？ わかんないならどいてよ。男子は通りに出て救急車の誘導。全員、本当に、頼むから静かに」
確実にまずいことなのだと、団員は慌てふためき、その中で唯一の秩序は吉川の動きと、なににも動じずじっと座ったままのわたしであったように思う。「だれか、医学科でも看護でも、だれでもいい、ちょっと替わって。あたし吐きそう」との吉川がいい、看護学部三年次の男子が代わりにかれへの胸骨圧迫を続けた。吉川は完全に伸びて、「水」とだけいって、その場に嘔吐した（かの女の体には全身的に震えがみられた）。
「すごいゲロの量」
わたしはぽつりといった。
見るともなしに見れば、かれのであったり、吉川のであったり、つられた団員のであったり、とにかく吐瀉物だらけの居酒屋であった。騒いでも仕方ないか。なにがどう仕方ないのかよくわからないけど。。
「そういえば、わたし誕生日近いんだった」わたしはぽつりとつぶやいたが、この騒乱ではだれひとりとして聞き届かないだろう。
鈴谷という男子団員と、横山よりは酔っていない部長の田中がその場で救急車を呼ぶ。ちがう、緊急や鈴谷。そんなんどうやるん？
「指紋で入らず爪でホームボタン押して、緊急ってとこ押せ！ くそ！」と胸骨圧迫を再開した吉川が叫ぶ（泣き出したり嘔吐したりと、ほかの団員もそこそこうるさかったので大声で怒鳴らざるを得ないのだ）。
座敷はあらかた片付き、横たえたかれに胸骨圧迫を施している吉川の顔を見る（団員は屋外へ出て、救急車のために通行人を退かせたり、目立つところで立ったりしていた）。なぜ吉川は泣いているのだろう。わたしはただ、かれの穏やかな寝顔をいつもの、たとえばわたしより先にかれが寝てしまった夜のようだね、と思った。わたしもかれと同じく、穏やかな気持ちだった。
「よし、団員は注目。もう帰るやつもいるけどな、残すのは後悔じゃなくって思い出だかんな。俺はずっと裏方やったけどな、いい四年間だった。感謝する――うう、立ってると吐きそうやわ。ほな、次の人いこう」
中締めを部長の田中が述べていたころ、かれはなにもいわずわたしの膝で眠っていたはずだった。
「おい平松、なんかいえよ」部長がいい、わたしが頭を叩いてかれ――平松――を起こそうと試みる。
まったく起きそうにない気配で、それを見た田中は「しゃあないなあ、使い勝手の悪い奴だ。じゃあ、ショウちゃん」と、わたしへ視線が向けられる。「じゃあ、ってなんですか、じゃあって。わたしだって立てません」
わたしはかれの寝顔を撫ぜる。幾分ひんやりとした肌。
「はあ、平松の介護はショウちゃん頼むからな」
ここで、いや、もっと早く気付くべきだったのだ。
唇が青い。頬に平手打ちしても起きない。隣で飲んでいる医学科の吉川が注視する。吉川はがん、と大きな音を立てジョッキを置く。
「ショウちゃん！ どけ！」
わたしは驚いて身を縮こませる。吉川は寝ているかれの襟を掴み、右拳で思い切り強く胸を叩打した（かれの吐瀉物があたりにまき散らされる）。吉川はそのままかれの体を寝かせ、顔を右に向けさせる（かれの口からさらに吐瀉物がぼたぼたとこぼれ落ちる）。
「お、おい、ヨッシー？」「やめろよ、店の中だぞ」と制止する者もいたが、吉川は大声で「黙れ！」と一喝する。
一瞬だけ静まる居酒屋の店内で吉川の舌打ちが聞こえた。
ややあって騒ぎだす団員がいたが、まだ笑っている団員もいた。それらを尻目にかの女はかれ――平松の体も足も、真っすぐにさせるようほかの団員に指示した（吉川の叩打は休むことはなくかれの胸に浴びせられ、そのたびに吐瀉物があたりに飛散した。吉川はかれの顔だけねじって横向きにし（横を向かせただけで口に残る吐瀉物がぼたぼたと床にこぼれた）、座卓を乱暴に蹴って脇にやる。かの女はかれの胸に手を二、三秒当て「くそ」と毒づく。
「安東と木村、ＡＥＤ探してきて。赤いケース。除細動の。交差点の角のホテルにあると思う。三分経ったら見つからなくても戻るように。ショウちゃん、いい加減どいてね――早くどけっての、もう！」
わたしはより一層状況を把握しかねた。周りの団員の理解力にもばらつきがあった。
それとほぼ同時にそばにいた若い女の店員が店内のトランシーバーでどもりながら人を呼んだ。「あの――」とその店員はこちらに話しかけたが、吉川が大声で「男子はテーブルとか、いいから早く、全部どかして」とがなり、かき消した。吉川はかれに心臓マッサージ――胸骨圧迫を施しはじめる（団員も事の重大さにようやく気付く。大慌てで座卓を隅にやる。グラスが倒れ、座敷から床に落ちて割れる音が響く。団員は騒然とする）。
「鈴谷と横山、ああ、横山じゃなくて田中、一一九番通報して。救急です、っていって、できるだけゆっくり話したらいいよ。残りは全員、今すぐ座敷からどいて」と、指示を飛ばす。わたしはこの出来事がまだよく理解できない。
年かさの男の店員が階段を駆け上がってくる。泣き出した若い女の店員を脇にやる。「大丈夫ですか！ 急アル？ 一気したの？ 意識は？」と矢継ぎ早にわたしに訊く。フルートの女の子が泣き出す。「もう！ あたしだって泣きたいよ。ねえ、この状況わかる？ わかる？ わかんないならどいてよ。男子は通りに出て救急車の誘導。全員、本当に、頼むから静かに」
確実にまずいことなのだと、団員は慌てふためき、その中で唯一の秩序は吉川の動きと、なににも動じずじっと座ったままのわたしであったように思う。「だれか、医学科でも看護でも、だれでもいい、ちょっと替わって。あたし吐きそう」との吉川がいい、看護学部三年次の男子が代わりにかれへの胸骨圧迫を続けた。吉川は完全に伸びて、「水」とだけいって、その場に嘔吐した（かの女の体には全身的に震えがみられた）。
「すごいゲロの量」
わたしはぽつりといった。
見るともなしに見れば、かれのであったり、吉川のであったり、つられた団員のであったり、とにかく吐瀉物だらけの居酒屋であった。騒いでも仕方ないか。なにがどう仕方ないのかよくわからないけど。。
「そういえば、わたし誕生日近いんだった」わたしはぽつりとつぶやいたが、この騒乱ではだれひとりとして聞き届かないだろう。
鈴谷という男子団員と、横山よりは酔っていない部長の田中がその場で救急車を呼ぶ。ちがう、緊急や鈴谷。そんなんどうやるん？
「指紋で入らず爪でホームボタン押して、緊急ってとこ押せ！ くそ！」と胸骨圧迫を再開した吉川が叫ぶ（泣き出したり嘔吐したりと、ほかの団員もそこそこうるさかったので大声で怒鳴らざるを得ないのだ）。
座敷はあらかた片付き、横たえたかれに胸骨圧迫を施している吉川の顔を見る（団員は屋外へ出て、救急車のために通行人を退かせたり、目立つところで立ったりしていた）。なぜ吉川は泣いているのだろう。わたしはただ、かれの穏やかな寝顔をいつもの、たとえばわたしより先にかれが寝てしまった夜のようだね、と思った。わたしもかれと同じく、穏やかな気持ちだった。
