第4話:チェルノブイリと世界恐慌

文字数 3,417文字

 次に七郎が今後、日本円が強くなるのではないかと言うと、その意見にリチャードも賛成した。日本の優秀な電機製品、車など売れてるし品質も良いのでソニー、パナソニック、トヨタ、ホンダなどの株を買っても良いかも知れないと言った。1979年ソニーを2万株、1600万円で購入し、トヨタ株2万株、1600万円で購入し残金が1600万円となった。

 そこでスイスの銀行に連絡し七郎の金地金144kgを日本円に変えたいので金価格を注視する様に指示した。1982年末に4300円/gの高値となり金地金100kgを4億円で売却し1982年末、七郎が30歳で資産が4億1600万円。1985年の9月22日のプラザ合意で急激な円高と日本株高で日本株を買うべきか円を買うべきか迷った。

 どっちを買うか1日かけて考えて株の変化の方が大きいと考え、残金1600万円を残して大勝負に出た。ソニー株30万株で3億円とトヨタ株30万株3億円の合計6億円で購入した。予想通り1986年、33歳から日本株が一気に上昇し、日本株上昇と共に日本円も高くなった。その年の4月26日、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所4号機で史上最大の原子炉事故が発生。

 原子炉が暴走し炉心溶融に続いて水蒸気爆発が起こり原子炉や原子炉建屋が破壊され大量の放射性物質が国境を越えて拡散した。 爆発や急性放射線障害などで31人が死亡。11万6000人が避難を強いられた。当初、ソ連政府はパニックや機密漏洩を恐れ、この事故を内外に公表せず施設周辺住民の避難措置も取られなかったため彼らは数日間、事実を知らぬまま通常の生活を送り高線量の放射性物質を浴び被曝した。

 しかし翌4月27日、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所にて、この事故が原因の特定核種、高線量の放射性物質が検出された。近隣国からも同様の報告があったためスウェーデン当局が調査を開始。この調査結果について事実確認をスウェーデンがソ連に求めた。遂にソ連は4月28日、その内容を認めたため事故が世界中に発覚。

 当初、フォルスマルク原発の技術者は自原発所内からの漏洩も疑い、あるいは「核戦争」が起こったのではないかと考えた時期もあった。爆発後も火災は止まらず消火活動が継続。アメリカの軍事衛星からも赤く燃える原子炉中心部の様子が観察された。ソ連当局は応急措置として次の作業を実行した。火災の鎮火と放射線の遮断のためホウ素を混入させた砂5000トンを直上からヘリコプターで4号炉に投下。

 水蒸気爆発「2次爆発」を防ぐため下部水槽、圧力抑制プールの排水、後日、一部の溶融燃料の水槽到達を確認したが水蒸気爆発という規模の現象は起きなかった。減速材として炉心内へ鉛の大量投入したが実際には炉心には、ほとんど到達しなかった。次に液体窒素を注入して周囲から冷却、炉心温度を低下させた。注入した時には、既に炉心から燃料が流出していた。

 この策が功を奏したのか一時制御不能に陥っていた炉心内の核燃料の活動も次第に落ち着き、5月6日迄に大規模な放射性物質の漏出は終わったとの見解をソ連政府は発表した。砂の投下作業に使用されたヘリコプターと乗員には特別な防護措置は施されず、砂は乗員が砂袋をキャビンから直接、手で投下した。作業員は大量の放射線を直接浴びたものと思われるが詳細は不明。

 原子炉に近い水槽サプレッション・プールの排水は放射性物質を多く含んだ水中へとソ連陸軍特殊部隊員数名が潜水し手動でバルブを開栓し排水に成功。爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために延べ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺と呼ばれる。事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ周辺は居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。

 避難は4月27日から5月6日にかけて行われ事故発生から1か月後までに原発から30km以内に居住する約11万6000人全てが移住とソ連によって発表された。事故処理従事者86万人中5万5000人が既に死亡しておりウクライナ国内「人口5000万人」の国内被曝者総数343万人「総数の7%」の内、作業員は87%が病気に罹った。また周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生が高くなった。

 この時、九州の「通販生活」カタログ・ハウスという会社が「チェルノブイリ事故で苦しんでいる子どもたち」の事を紙面に掲載し「チェルノブイリの母子支援募金」を募った。1990年11月からスタートした募金は年間4、5000万円が集まった。そのお金で医療機器やビタミン剤、医薬品、放射能測定器などを購入しベラルーシやウクライナのいくつもの病院に届けた。

 更にモスクワに「チェルノブイリ救援連絡事務所」をつくってゴーリキー通りの日ソ合弁会社の一室を借り8人乗りのワゴン車を二台とファクシミリ等を設置し日本語もできる事務局員をおいた。発起人は斉藤社長。チェルノブイリ担当の神尾さん「この会社の社員」と言う。その若い女性は市民グループの世話をしたり一見、優しそうな感じの人なのだがカタログ誌上の報告では次のような厳しい文書を書いた。

 チェルノブイリ現地の医療器具の圧倒的不足について「人工衛星を一基とばす予算で最新の医療器具がどっさり備えられたのにソ連の権力者たちは一体、市民の生命をなんだと思っているのだろう……」。その後、広島大や信州大の先生をはじめとする医療専門家「小児の甲状腺癌」や検査技師が集結し各々の活動や調査、研究の報告を行い情報交換した。そして今後のより有効な支援「救援」活動の方向を話し合い小児患者の治療を最優先に実施した。

 治療の指揮をとったのが信州大学外科出身の菅谷昭先生。彼は信州大学で将来、教授候補の筆頭だった地位を投げうって単身、チェルノブイリに渡り日本人医師の指揮をとる。この話は今でも語りぐさだ。現在、その実行力をかわれ2017年、松本市長として活躍中。チェルノブイリ原発事故の様な大災害が追い打ちを掛けるように世界の不安の増大と共に経済も音を立てて崩れおちた。

 翌年1987年10月15日にはイラン・イラク戦争のアーネスト・ウィル作戦で米軍の護衛を受けていたタンカーがイラン海軍の攻撃を受けミサイルを被弾する出来事があった。米軍は報復として当日未明、イランがペルシャ湾に持っていた石油プラットフォーム2基を爆撃し市場参加者の間には原油市場に対する不安が沸き起こった。

 七郎は嫌な予感が心をよぎり1987年、34歳、翌日、ソニー株、トヨタ株を全株、成り行きで売った。ソニー株とトヨタ株32万株ずづ合計64万株で合計19.2億円で売れ資産合計が19億3600万円。ただし日本経済は依然、好調なので下げた所を買うつもりで、市場を見ていた。1987年10月19日のブラックマンデーの当日はニューヨーク証券取引所のダウ30種平均の終値が前週末より508ドルも下がった。

 この時の下落率6%は世界恐慌の引き金となり1929年の暗黒の木曜日、ブラック・サーズデー、下落率12.8%を上回った。これを見て七郎は震え上がった。そこでリチャードに相談すると米国市場の混乱は1年くらい続くかも知れないが日本の景気は良いから一気に下げるであろうが、明日、買うか、もう一段下げた所を買うか、上げ始めた所から買い始めるか、この3つのどれかを選ぶべきだろうと言った。

 七郎はその意見を聞き1987年10月20日が開く前にソニーとトヨタ株を10万株ずつ合計20万株、成り行きで買った。米国での株安を受け日本では1987年10月20日に日経平均株価が前日比で3837円安「-15%」という大きな下げを記録。更に1988年があけて1月にソニーとトヨタ株を成り行きで25万株ずつ合計50万株を6億円で指値を入れ買った。この時点での残金1億1840万円。

 やがて1987年も終わりを告げて1988年の新春を迎え、1988年から日本株は再び急上昇し初め1988年8月には40%も上昇。1988年末から再び日本株が上昇。1989年1月から上昇が加速した。1989年11月も急上昇したのでピークが近いと考え1989年末に高値売りを狙い12月の最終日にソニーとトヨタ株を25万株ずつ計50万株、13億円で売却し資産合計が14億1840万円とした。
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