第1話:木下七郎のおいたち

文字数 3,017文字

 木下家は徳川家の関連の旧華族「侯爵」で由緒正しき名家で東京に大きな屋敷を持ち日本の戦後でも不自由のない生活を送った。大正時代、所有する土地は池袋から渋谷まで続いたという広大なものだった。政界、財界、軍上層部との強いパイプがあり第一次大戦後1915から20年の空前の好景気「大正バブル」の時に持っていた広大な土地を新興財閥の富裕層に全て売却し金にかえた。

 その資金で、秘密裏に友人の大手商社の役員、山下真一に依頼し多額の金地金144Kgを買ってスイスの銀行に保管。関東大震災で東京が焼け野原になったにもかかわらず武蔵野の自宅は、ほとんど影響を受けなかった。1945年に入り終戦が近いと感じた時、長年、交流のあった佐藤和彦弁護士に依頼。遺言信託の手続きをとり、その数ヶ月後、1945年9月、父、木下康男は玉音放送に納得できず自らの命を絶った。

 木下家の人々は終戦後、質素な生活してなんと生きながらえ、その後、木下貞夫が以前、父、木下康男と交流のあった三井物産の会社役員、山下真一の口ききで三井物産に就職した。しかし木下貞夫、一人で豪邸の維持費と家族の生活費用を賄うのは難しいと考た。そこで富豪に売りわたし家族は武蔵野の家に移り住んだ。しかし木下家の家訓で子供には教育熱心で専属の家庭教師をつけて小さい時から英才教育を施された。

 語学、数学、文学、音楽を小さい時から、みっちり教え込まれた。七郎も2歳になり言葉を話せる様になると書生さんが絵本を読み聞かせた。どの本が好みか一通り、毎晩見せて気に入った本を選出。英語の絵本を毎晩、読み聞かせた。3歳になりしっかり言葉を話す様になった頃から国旗や地図、九九算を教えると覚えが、早いのに驚いた。

 そこでジグソーパズルを買い与えると瞬く間に覚えた。そのため多くの知育玩具を買い与えた。4歳でアルファベットや簡単な英会話の絵本をみせると英語に興味をもった。すぐに英語を音で覚えた。英語を話した後に、必ず、日本語で同じ事をくり返し覚えさせた。その時、耳が良い事がわかり、ドレミの音階を教えると、すぐマスターした。

 その後、乗り物の写真と名前、国旗の写真あてゲームや日本の地図と、世界の国も首都と地図も覚えた。父は気に入り高価な大きな地球儀を買い与えると喜んだ。5歳で、それらをほとんど全て覚えた。九九を覚えたので応用に掛け算を暗算で練習してみると集中。面白い様に遊んでくれ1ケ月で1桁を習得。3問正解するとビスケット1つ、ご褒美に与えた。

 暗算も得意になり、次に2桁の簡単な掛け算「インド数学」も少しずつ教えた。その中でも外国語と音程と暗算が特に得意。簡単に日本語と同じ英語とフランス語、ドイツ語、スペイン語の文を書いたものを家の家庭教師の書生さんに書いてもらった。その次に外国語で書いた文書を話してもらい覚えさせた。すると6歳になる頃には簡単な日常会話文を英語とフランス語、ドイツ語、スペイン語で記憶したのには父の木下貞夫も驚いた。

 家族で海外旅行に行く時、七郎も連れて行こうと思っていた。小さい頃から食力も旺盛で、なんでも食べ大きくなった。特に肉類が好きで身体が大きい割に足も速い。6歳の頃、兄弟で競走しても一番早かった。散歩し近くの公園に行くと広い公園を走り回り元気な男の子に育った。七郎が6歳になった1959年の秋、子供達の見聞を広めるために米国へ海外旅行を計画。

 ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルを約1ヶ月の長期旅行に出発。しかし次男の七郎だけがインフルエンザにかかり東京の家にお手伝いさんと共に残った。その1ケ月後、木下家の人達が米国から日本へ帰る飛行機が事故で墜落し家族全員が死亡。木下家では七郎だけが生き残るという悲劇に見舞われ天涯孤独とになった。

 木下七郎は旧華族で徳川家の近い由緒正しき名家の出身で6歳の時一家が飛行機の墜落という悲劇に見舞われ一瞬にして七郎が一人ぼっちになった。戦後、横浜のインターナショナルスクールで知り合ったロスチャイルド家のリチャードに可愛がられた。翌年、横浜の南部に引越し小学校に入学したが彼は既に簡単な英語、ドイツ、フランス、スペイン語を話していた。

 数学も中卒程度までマスターしていたので横浜の外人学校「セント・ジョセフ」のスカラーシップ試験に合格して学費無料で入学。やがてジュニアハイスクールに入り多くの友達を持ち、その中でも特にティムとは親友になるまでに多くに時間がかからない、いわゆる馬が合ったのだ。ティムはロスチャイルド家の血筋を引く名家の出であり頭脳明晰な子供だった。

 一方の七郎は冒険好き、芸術、文学、音楽大好き、直感力に優れた行動派と言う感じで全く、異なった性格の持ち主。二人とも、それぞれの個性を尊重しあいながら充実した学校生活を送った。ティムはテニス部、七郎は柔道を横浜の道場で習い学校ではラグビーを楽しんだ。七郎は、この頃には日本人の友人よりも外人の友人の方が多くなり、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語の語学力を向上させた。

 中でも特に理系の才能に優れており暗算の早さ正確さは目を見張るものがあった。もちろんジュニアハイスクールでは学年で常に上位の成績。この頃にはティムの鎌倉の家で夕飯に招待される様になった。ティムの父のリチャードは、こんな七郎に惚れ込んで七郎はリチャードの家に入り浸るようになり自宅の借家には、めったに帰らなくなった。

 そんなある日、リチャードは七郎にうちに来ないかと誘った。今の借家の契約を解除してリチャードの大きな屋敷の2階の1部屋を無料で使っていいと言ってくれた。そんな時、リチャードが七郎を横浜のYCACに連れて行きラクビーをさせる様になった。ラグビーの練習後シャワーを浴び、食堂で大きなビーフステーキをご馳走した。七郎は、世の中に、こんな旨い物があるんだと驚かされた。

 七郎が外国人と話す事ができ、更に日本の柔道ができるので回りの人達も興味を持たれた。ラグビーの練習に行った時、YCACの仲間が七郎に声を掛けてくれるようになりYCACでも人気者になった。その後も横浜の柔道場に週3回、放課後、練習に言った。その後、リチャードと七郎に、ちょっとした事件が起きた。

 それはリチャードが仕事の接待でお酒を飲んで帰ってきた日の晩の事だった。リチャードが七郎を部屋に呼んで日本は敗戦で経済も悪く食糧事情も良くない。そこで日本を捨てて米国人にならないかと言いだし米国の国籍を申請したらどうかと提案。それに対して七郎は確かに今の日本の現状が欧米に劣っていて自分も欧米に憧れもある。

 しかし日本には欧米にない良い伝統、文化があり、それが大好きだと発言。だから日本を見捨てる訳にはいかないと大人びたことを言った。リチャードは驚いた様に本当に日本が欧米に追いつけるとは思わないと意地悪そうに言った。そんな事はない日本人の勤勉さと正直さ結束力で、きっと10年、20年後には追いつくと言い切った。

 そのため七郎は頑張って勉強していきたいと言いはった。リチャードは、更に七郎、冷静に見て君は家族を亡くして1人ぼっち。それで何ができるとい言うのだと意地悪そうに言った。七郎は確かに今の自分には、その通り、何もできないかも知れないが、頑張って大きく人間になってやると意地を張った。 
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