第63話 アーチネスの初恋 1(表紙絵)
文字数 2,705文字
二十歳をすぎてからだから、ずいぶん遅い初恋だった。
ファーストキスは記憶もあいまいだが、たぶん、四、五歳のときに近所の女の子と、なんとなく。
十代の初めに向こうから告白されて、ガールフレンドもできた。
そのあと、二十歳までに二、三人とはつきあったし、一番長かった彼女とは三年続いた。
それでも、アーチネスにとっては、これが初恋だった。
相手のことを思うだけで胸がしめつけられるのは初めてだったし、明日あの人に会えるのだと思えば、うきうきと心が弾む。ドキドキが止まらない。
やっぱり、こんなことになってしまった。こうなるんじゃないかと思った。あの人の青い瞳に見つめられたときから……。
アーチネスが彼に出会ったのは、十四日前。
星の月、三旬めの六日だった。
ここ数ヶ月、アーチネスたち森林警備隊が手こずっていた怪事件を解決に導くため、前線の砦、ボイクド城に援助要請に赴いたときだ。
アーチネスの故郷は国境の森に近い小さな村だ。国境沿いの土地柄として、男は必ず一度、砦で兵役をおさめなければ一人前ではないという風潮があった。そのため、数ヶ月前に、アーチネスは森林警備隊に入隊した。
森林警備隊のふだんの仕事は、配属の城を守りつつ、国内の森を定期的に馬でまわって巡回するというもの。
もちろん危険がないわけではないが、魔物があたりまえに徘徊するという国境の外の森に接する仕事ではないから、最前線の砦にくらべれば、はるかに安全だ。
森のなかに砦は数多くあるが、最前線の砦だけは特殊だ。ほかの砦に比較して、死者の数が桁違いに多い。そのぶん最前線の砦の兵士は魔物退治の経験が豊富で、不可解な事件にも慣れているということだ。
というわけで、カンタサーラ城の城主ヘリオン伯爵の命令で、一旬半前、アーチネスたち一隊はボイクド城へむかった。
あの日、思えば、砦へむかう森のなかで、すでに友人のマリグランの態度がおかしかった。妙に浮かれていた。
マリクは同郷の幼馴染だ。同期でカンタサーラ城に配属されたが、ほんとのことを言えば、マリクはちょっと変な趣味があって、アーチネスは彼をあまり好いていなかった。
だが、やはり親元を遠く離れて城に暮らしていると、同じ故郷のことを話せるだけで嬉しかった。隊も同じだし、城での宿舎は同室だし、ほとんど四六時中、行動をともにしている。しぜんと相手の感情の機微にも目ざとく気づいた。
その日、朝から、いやにマリクが落ちつかないので、ボイクド城へむかう森のなかで、アーチネスは聞いてみた。
「マリク。今朝から、なんか変じゃないか? ちょっと興奮してる」
マリクのこんなようすは初めて見るわけではない。輸送隊がカンタサーラ城に到着する前後は、いつもこんな調子だ。
それはアーチだって、輸送隊は好きだ。周囲には町や村や炭焼きの集落さえない奥深い森のなかの砦に暮らしていれば、二旬に一度、国内から物資を運んでくる輸送隊は、とてもありがたい。輸送隊が持ってきてくれる家族の手紙も嬉しいし、輸送隊についてくる隊商の商品をひやかすだけでも楽しい気分になる。
でも、そういうことではないのだ。
マリクが毎回の輸送隊の到着を心待ちにしているのは、輸送隊に彼の恋人がいるからである。
これが、アーチがマリクをちょっと警戒する理由である。マリクは男色家なのだ。
男色家……。
嫌な響きだと思う。
それはたぶん、アーチがそういう趣味の男が好きではないから、そう感じるのだろう。
アーチは自分でも容姿は整っているほうと思うが、それはユイラ人には珍しくない特徴だ。
つややかな黒髪に黒い瞳。雪のように白い肌。大理石で作られた神の像のような美しさ。それが、アーチの生まれたユイラの国の人々の典型だ。
アーチもとてもユイラ人らしい外見をしている。唇が赤くて、ちょっと女の子っぽいと言われるせいか、昔からよく、そっちの趣味の男に誘われた。
いつもは相手にしていなかったが、一度だけ、とても怖い思いをしたことがある。
村の祭りのあと、夜道を一人で歩いていて、酔っぱらいにからまれ、林のなかにつれこまれたことがあった。
あやうく難をのがれたが、あのとき助けてくれたのは、ぐうぜん通りかかったマリクだった。あのことだけは、マリクに深く感謝している。でも、マリクには悪いが、あれ以来、その手の男は大嫌いだ。
だから、アーチはマリクがそういう男だと知ってから、カンタサーラ城へ配属されるまで、彼をさけていた。警備隊に入る前、一年ほど兵士の訓練を受けたが、そこでは他の大勢の村の友人がいたから、マリクのことは無視していた。
今だって、マリクが同じ分隊の仲間でさえなければ、口はきかなかっただろう。ほかにいないから、しょうがなく彼で妥協しているのだ。
なにしろ、マリクはカンタサーラに配属されるやいなや、輸送隊に恋人を作って、二旬ごとの逢瀬を満喫している。夜になると、こっそり宿舎をぬけだしていくマリクが、正直、気持ち悪くてしかたない。
だが、今日むかうのはボイクド砦だ。輸送隊は無関係だし、アーチもマリクもボイクド城へ行くのは初めてだ。そこにマリクの第二の恋人がいるはずもない。彼が浮かれている理由がさっぱりわからなかったので、聞いてみた。
「ボイクド城へ行くのがそんなに楽しいかい? 僕はイヤだな。最前線の砦なんて、危険きわまりない。警備隊なんて比較にならないんだろう?」
だからこそ、兵士に志願したとき、アーチは配属希望を森林警備隊にした。最前線の砦を守る正規兵なら、格は上だが、死亡率が高すぎる。たとえ任期が正規兵の倍の四年でも、警備隊のほうが無難に終えられる。
「最前線の砦だとたった二年の任期でも、百人のうち五人は死んでしまうんだってね。それも正規兵の仕事は砦のなかじゃ安全なほうだって言うじゃないか。これが傭兵になると、死亡率はいっきに十倍だって。ゼクタスじいさんがよく言ってたっけ」
最前線の砦で傭兵をしていたとなれば、もうそれだけでアーチの村では英雄だ。村に一人だけ、そういう男がいて、魔物を倒したときにできたという傷を自慢していた。この傷がどんな猛獣に襲われればできるのだろうという、ものすごい爪あとで、それを初めて見たとき、前線の砦には行くまいと、アーチは子ども心に誓った。
そんな危険な場所に行くというのに、マリクは浮かれている。
アーチがたずねると、マリクはハンサムな顔に、男を思うときのあの不愉快な笑みを浮かべる。
「ボイクド城には、ワレス小隊長がいるんだ。ワクワクもするさ」
「ああ。ボイクドの英雄か。名前は聞いたことあるよ」