第61話
文字数 2,029文字
「ハシェド……?」
「なんでかな。こうしてると、母さんを思いだす」
ハシェドは顔をあげて、物悲しいような目で笑う。
「おれ、知ってました。クオリルがウソをついてること。クオリルはおれのことをアッハド皇子の第一子だと言ったけど、そんなはずないんです。おれのほんとの父は……伯父ですから」
「ユイラ人の……」
「ええ。アリエルの兄、ギュスタスです。おれが知ったのは大人になってからでした。
母はブラゴールにいるころ、伯父と恋仲だった。でも、伯父はすでに結婚して妻子がいた。家どうしの決めた相手だったようですが。伯父は泣く泣く母と別れた。
そのあと、母は弟のアリエルと知りあい、結婚した。そのときにはもう、母のお腹には、おれがいたんです。父はそれを承知で、おれを実の子どものように愛してくれた。
むろん、伯父はそんなことは知らない。だから、苦しんだでしょうね。愛する女が弟の妻になって、同じ屋根の下に……」
——愛していたわ。ギュスタス。でも、それは過去のことなの。
あの日、何もかも終わって、泣いていたのは伯父のほうだった。母はかわいそうな迷子を見るように伯父をながめた。
「愛していたわ。ギュスタス。でも、それは過去のことなの」
大人の男があんなふうに泣くのを、ハシェドは初めて見た。
たった今まで悪魔のようだった男が、子どものように泣いている。
「もう……とりもどせないのか? おまえの愛は、おれの上に……」
伯父は泣きながら去っていった。そのようすは風船のようだった。胸の内には何も残っていない、からっぽの紙風船。
「おれは子どもだった。愛や憎しみは見たままの形で、それ以外の見えない形をとるなんて、思いもしなかった。暴力が愛から、優しさが憎しみから生まれるなんて、考えもしなかった。
父が帰国したとき、おれはそのときのことを話しました。そのあと、父と伯父のあいだで、どんな話があったのかは知りません。
おれと家族は伯父の家を出ることになりました。伯父の屋敷の敷地を離れ、町なかに住みました。
もっと早く、そうすべきだった。おれが伯父を憎む前に……。
おれや弟妹の容姿では、外の世界で苦労すると思っていたのでしょうね。でも、おれは伯父を憎んでしまった。いつか、あいつを殺してやると思っていた。剣の
春には苦い思い出ばかりがある。
あのときも。
成長したハシェドは伯父の動向をさぐっていた。
いつ、どこの夜会へ行く。明日は商談でどこそこの屋敷へ。
好都合の夜が来た。
春、花の香りが風にとけていた。
伯父が夜会の帰り、馬車をおりて一人で歩きだした。ひきとめる御者をむりやり帰してしまい、暗い夜道を歩いていく。屋敷は近い。酔いざましのつもりだろうか?
ハシェドはかけよって、伯父に剣をつきつけた。
伯父を間近で見るのは十数年ぶりだ。
そのとき、ハシェドは二十五。伯父は五十になっていた。ユイラ人の伯父は、まだ充分に若かった。が、落ちついたふんいきになって、少し白髪が目立つようになっていた。
伯父は逃げなかった。抵抗する気配もなく、ただ静かに目をとじた。
そのせいで、ハシェドの気持ちに迷いが生まれた。切りかたが浅くなった。幸いだったのか、不幸だったのか。
伯父に切りつけた瞬間、剣と伯父の体のあいだに無言で誰かがとびこんできた。
ハシェドのようすがおかしかったから、ずっとあとをつけていたのかもしれない。
それは、父、アリエルだった。
「いけない……この人は、おまえの、ほんとの……」
路上に倒れて、父は動かなくなった。
「死んだと思った。父を殺してしまったと。でも、父は助かった。命だけは。
その夜、母から真相を聞かされました。父も母も、伯父も、みんな苦しかったのだと。
父は命はとりとめました。かわりに失ったものは大きかったけれど。おれがつけた傷の後遺症で、父は歩けなくなった。足がきかなくなってしまったんです。
それで、おれは砦へ来ました。父も母も、おれを責めなかった。でも、おれは自分で自分がゆるせなかった。ここへ来たのは、罰を受けるためなんです」
淡々と語るハシェドを、ワレスは見つめる。
いつも笑顔でいるハシェドのおもての下に、痛みが隠されている。
「いつか、おれも自分をゆるすことができるでしょうか? あなたは父を殺して悔いないと言った。おれは後悔している。あのとき、あの瞬間にもどることさえできれば、やりなおすことができるなら……。
伯父もずっと、そんな思いでいたのだろうか? 妻子を選んで母をすてた伯父。あのときに帰りたいと、心から願ったのでしょうか? わからない。おれには……」
あのときに帰りたいと願ったから、クオリルの心は止まってしまったのだろうか?
「それでも、生きているんだ。いっしょに歩いていこう」
ワレスのささやきに、ハシェドのすすり泣きがかさなる。
闇のなかで、二人は長らく肩をよせあっていた。