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　通話を切ったあとも、しばらく携帯を握りしめたまま呆然としていた。何をどうして話が噛み合わなくなったのかわからなかった。
　大学入学時から間借りしているマンションの窓から、雪化粧に白くなった家々の屋根が見えている。結露した窓の表面に並んだ『バカ』の二文字が、零れ落ちはじめた水滴で歪んだ。泣いているみたいだと思った。
　すぐにメールの着信音が鳴った。雅也からだ。

【俺たち、いいかげん、距離置いた方がいいのかもな】

　あたしはまぶたを閉じた。耳元でわんわんと耳鳴りがするようだ。窓に額を押し付け、頭を冷やした。
　しばらく、ひんやりとした感触に身を浸してから、炬燵にもぐりこんだ。
　ノートパソコンを引き寄せる。
　ブックマークを開き、そのページに接続した。

【喪失の小部屋】

　グレーのシックな色合いの壁紙に、タイトルが表示されている。タイトルの下には『城代大学喪失体験カウンセリング出張所（非公認）』と記載されていた。
　あの実験の後、参加したみんなが寄りあって始めたサイトだ。はじめは実験参加メンバーだけの運用になっていたが、試みに一般公開すると口コミで広まり、今では人気サイトになっている。あたしは設立に関わってはいないが、由香里からメールが回ってきたので、ときどきアクセスしていた。

　ページにはずらりとチャットルームが並んでいる。人数制限つきの２ショットチャットで、入室した当人たち以外は、会話の内容を見ることができないようになっている。
　名前を入れる欄の横には『遺族』と『通知者』のラジオボタン。
　あたしは『遺族』にチェックを入れると、自分の名前の欄に『マキ』と入力した。大切にしたい人の名前の欄に『マサヤ』と打ち込む。
『年齢』、『相手との関係』、『喪失の形態（事件、事故、病気）』などの任意記載項目を埋めた。ある程度の情報がないと、チャットをする上で食い違いが生じ、雰囲気が出ないという注意書きがある。

　しばらく待っていると、ビープ音が鳴って、『林（医師）』が入室してきた。
　有志の死亡通知者役の一人で、あたしも過去に一度、チャットしたことがある。当初は通知者役は運営メンバーが行っていたのだが、利用者の増加にともなって手が回らなくなり、有志を募ったようだ。林以外にも何人かが常駐し、チャットに参加している。
　通知の仕方は人によって様々だ。林のように、正統派の医者役として喪失相手の病死を宣告する者もいれば、飲酒運転のドライバーになりきって、相手を轢き殺したことを告げる者もいる。
　飲酒運転ドライバー役とは以前やって、真に迫ったチャット技術に引き込まれたが、あとでリアルの職業が長距離トラックの運転手だと聞いて、それはちょっとどうなのだろうと思った。

【（病室の中。ベッドに横たわったマサヤの顔には、白い布がかけられている）】

　林がチャットを始めた。
　描写の仕方は人によって個性が出るところだ。最初から最後まで会話のみで進める人もいれば、小説のように詳細に〝地の文〟を書く人もいる。状況がわかりにくくても雰囲気が出ないし、あまり詳細に記述しすぎるのも、作り物めいてしまうという欠点がある。

【マキさん。残念ですが、マサヤさんは先程息を引き取られました。】
【……どういうことですか？】
【マサヤさんは以前から、肝臓癌を患っておられました。もう長くはもたないと本人もわかっているようでした。】
【嘘です！　そんなの、私聞いたことないです。先生だって、ちょっと働きすぎなだけだって言っていたじゃないですか】
【あなたにだけは言わないでくれと、マサヤさんに頼まれていました。あなたに心配をかけたくなかったのでしょう。（林、マキに二枚の紙切れを渡す）　これを、息を引き取る間際に、マサヤさんから預かりました。一緒に行けなくてごめんということでした】
【これは？】
【映画のチケットです。あなたが観たいと言っていたのを、マサヤさん覚えていらしたんですね】

　映画に行きたいと雅也に言って、興味がなさそうにあしらわれたことは、以前チャットをしたとき、世間話で林に話していた。それを覚えていて、小ネタに使っているようだ。
　感動を狙っているのだと思うが、ちょっとあざとい気がする。心配をかけたくないから癌のことを言わないというのも、考え方が安易ではなかろうか。どうして言ってくれなかったのか、理由を掘り下げてもらえないと、ちょっと納得できない。心配をかけたくないだなんて上辺の言葉で表すのは表現として陳腐だ。雅也のあたしへの気持ちを、その内面を、もっと鋭く、抉るように深く描写してほしいところだった。

　ちなみにあたしは読書家だ。
　なぜか誰もあたしと本の話をしてくれない。

【そうだったんですか】
【雅也さん、あなたを愛していらしたんですね】
【……そうですね】

　もう一つ愛が感じられない死に様に終わった。一応、雅也の遺体に縋って泣くところまでやったが、入りきれないままチャットは終わってしまった。これでは死んだ雅也も浮かばれない。