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文字数 1,799文字


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「喪失という言葉に対して、皆さんの持っている印象はどのようなものでしょうか」

 教壇に立ったおじいさん教授は、そんな問いかけで話し始めた。
 お喋りを続けていた人たちも、教授が話し始めると波がひくみたいに静まった。学生時代に植えつけられた条件反射というのは、ずいぶん強いものなのだろう。

「ほとんどの人が、喪失という言葉に対して持っているのは、ネガティブなイメージです。悲しい。つらい。遭いたくない。もちろん、それは当然の感覚です。誰だって大切なものを失いたくない」

 あたしは、周囲に座った人たちを見回した。二十人弱ほどの応募者たちは、全員が女性だった。
 ほとんどがあたしより一回り以上も歳が上。学生でこんなところへ来ているのは、あたしだけかもしれない。ちょっと居心地が悪い。

「けれど多くの人は見過ごしています。大切なものを失うよりも、もっとつらいことがあるということを。そこのあなた、なんだと思いますか」

 教授は先頭に座っていた中年女性に声をかけた。女性は、五十過ぎくらいだろうか。顔の肉に疲労が染みになって吸着してしまったような、ちょっと残念な肌をしている。さあ、と首をひねった。

「それは大切なものを大切だと思えなくなってしまうことです」

 教授の言葉に、何人かが頷いた。

「人生に意義があるのは、いつか死んでしまうからです。限りがあるからこそ、人は精一杯輝こうとするのですね。もしも人間が不老不死なら、皆、屍のような人生を送っていることでしょう。大切であるという感情は、いつか喪失してしまうことを知っているからこそ、感じられるものなのです」

 逆に人は失うことを忘れてしまうと、大切であることを感じられなくなってしまうことがあります、と教授は言った。

「とても大切な人であっても、一緒にいることがあまりに当然になると、いつか別れがくることを忘れてしまう。すると私たちは愛する人と共にそばにいる幸せをわからなくなって、苛立ったり憎らしくなったりしてしまう。それはとても悲しいことです」

 机の上には、事前に封書で提出しておいた、アンケート用紙のコピーが置かれている。用紙は二枚あって、『城代大学心理学講座 喪失カウンセリング実験被験者問診票』とタイトルがある。その下に、マークシートと自由記述、両方の設問がずらずらと並んでいる。
 一枚目は自身の健康状態に関するものだ。持病や薬の服用の有無を問う、病院でよくある類のやつ。
 あたしは二枚目の一番上の設問に目を落とした。
『あなたがいま一番大切に思いたい人は誰ですか?』という問いの横に、配偶者、子供、孫などの回答項目と、名前記入欄が並んでいる。
 二番目以降の設問は、その人物についての詳細を訊ねるものだ。『問1の人物の好きな食べ物はなんですか?』とか、たくさんの質問が並んでいる。ストーカーには垂涎ものの資料といったところだろう。

 待機中、みんな他人の回答が気になって仕方なかったために、情報交換をしていた。自然に、大切に思いたい人の設問で、同じ答えをチェックした者同士でかたまった。
 一番多いのは『配偶者』のグループ。年齢の幅が一番広いのもこのグループで、三十代から六十代までいろんな人たちが丸を付けていた。会話に聞き耳を立てていて、世の旦那さんは大変なのだなと思った。次に多いのは『実親』のグループで、これは年齢のいった人が多い。介護の話で盛り上がったあと、遺産について語り合っていた。
『子供』に付けている人たちもちらほらいる。
『恋人』につけているのは、あたし以外には一人だけだ。

「皆さんにも、大切さを感じられなくなってしまった人がいると思います。でもお願いです。自分を責めないでください。あなたが冷たいからではないのです。それは、その人の存在が、あまりに身近すぎるからなのですよ」

 教授が枯れ葉のような顔に仏様のような微笑みを浮かべた。

「今日のカウンセリング実験は、当たり前になった存在をもう一度見つめなおして頂くためのものです。きっと皆さんの心の整理に役立つと思います。それでは一日、よろしくお願いします」

 教授がお辞儀すると、教室に拍手が響いた。
 あたしは鞄から携帯を取り出した。雅也からのメールが一通も届いていないことを確認すると、鞄に放り込んだ。
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