6-2

文字数 2,063文字

「こんなこと、もうやめるんだ」
「……もうやめない?」

 雅也の呼びかけに、あたしも重ねた。これが合田があたしを解放する最後のチャンスだ。雅也がこの状況を見る前にあたしを解放してくれれば、なんとか場は収められる。雅也と相対してしまったら、合田はもう後戻りできない。
 合田はあたしをちらりと見た。迷うように目が揺れたが、すぐに視線を戻した。引く気はないようだった。それでもあたしにナイフを突きつけて雅也を脅すまでの覚悟は持てないところが、この男の小心なところなのだろうと、他人ごとのように思った。

 雅也の足音が近づいてくる。ドアの向こうに姿を現した。
 ベッドの上にあたしの姿を認めて、雅也は足を止めた。
 真紀――と口を開きかける。

 奇声があがった。横合いから合田が跳びかかった。タックルを仕掛け、雅也を廊下の手摺りに叩きつける。雅也の顔を手で塞ぐように、ハンカチで覆いこんだ。
 雅也の身体が一瞬、よろめいた。

 次の瞬間、雅也が合田の両手首を掴んだ。わめく合田を押し返す。合田がよろめき、たたらを踏んだ。ハンカチが舞った。ガンダム柄だ。黒猫柄のハンカチは、あたしのポケットの中にある。
 雅也の拳が合田の顔面を捉えた。合田がわあっと声をあげて鼻を押さえる。その腹に、雅也は容赦なくもう一発叩き込んだ。合田が潰れたカエルのような声をあげ、床にうずくまった。
 雅也は合田に構わず、あたしの方を見た。

「真紀!」

 その目にパニックの色はない。
 転がったあたしに駆け寄った。大丈夫、と頷いてみせると、素早くあたしを後ろに向かせ、手首のロープに手をかけた。固く結ばれたロープを外しにかかる。

「……気づいてたんだ」

 背中越しにあたしは言った。
 雅也は、出てこい合田、と呼びかけていた。出てこい神崎、ではなく。
 あたしが本当に浚われたことを、見破っていたのだ。

「合田からあんな電話があったからな。はじめはまた悪戯だと思ったけど、やっぱり不安になってさ」

 安否を確かめようと、雅也はあたしの携帯に電話をかけた。繋がらずにやきもきしていたところで、〝神崎〟から全く同じような誘いを受けたのだ。

「おかしいだろ。今まで誘っても断ってきてたのに、急に合田と同じタイミングで誘ってくるなんてさ。すぐにわかったよ。なんかまずいことになってるって。だからチャットの延長上に思ってるように、偽装して返事をした。俺がごっこにノッてやってるうちは、合田も真紀を傷つけないと思ったんだ」

 雅也もあたしと同じ考えだったらしい。こんなところででも通じ合っていたのが、なんとなく嬉しかった。

 窓の向こうから、パトカーのサイレンの音が近付いてくる。雅也が通報したのだろう。
 手首を自由にすると、雅也は足首のロープに手をかけた。

「こんな状況じゃないときに、誘ってくれれば良かったのに」
 固く結ばれたロープを緩めながら、ぽつりと呟いた。
「待ってたんだぜ。リアルで会おうって言ってくれるの。――打ち明けてくれるの」
「……気付いてたの?」

 あたしが神崎だということに。

「前、夜中に部屋に入ったときに、ノートパソコンを開いたからな。喪失の小部屋を表示させたら、名前入力欄に『神崎』ってあった」

 雅也と口論になったあの夜だ。
 そういえば、あのとき、ノートパソコンがスタンバイモードになっていたことを思い出した。あれは、雅也が使ったからだったのだ。

「笑ったよ。そういうことか! って。やけに俺のことも真紀のことも詳しいから、なんか妙だとは思ってたんだ」

 では、その後の雅也のチャットは、全部神崎をあたしと知った上でのものだったのだ。雅也が神崎に語った言葉は、すべてあたしに向けられたものだった。
 出し抜かれていた。悔しい。
 何が悔しいって、あたしじゃなきゃ駄目なんだというあの言葉が、あたしに伝えようと打たれたものだったことを、信じられなかった自分が悔しい。

 ごめんな、と雅也は呟いた。

「もっと早く、こうして正面きって話しあえば良かったんだ。不安なことや不満なことを、素直に言い合えば良かったんだ。なのに俺、真紀に嫌われたくなくて。それでチャットに逃げて、何度も真紀を殺させちまった」
「私もごめんね」

 素直に言えた。

「私も何度も雅也を死なせた。もうしない。もう、チャット越しに話すのはいやだよ」
「じゃ、もう喪失チャットはやめにしようか。史上最悪の殺人鬼神崎、これにてお縄ということで」

 ロープが解けると、雅也は抱え込むように強くあたしを抱きしめた。
 あたしも雅也を抱きしめ返した。

 ……これですべて終わったのだ。神崎と真紀は一人に戻った。

 これからもすれ違いはあるかもしれない。でも、その都度向かい合って話し合いながらやっていけばいい。やっていけるはずだ。

 あたしは雅也の胸に、そっと顔をうずめた。頭の中で、ハッピーエンドを告げる音楽が流れはじめた。
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